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第七章:決戦は土曜0時

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 酒井は、身長が高い方ではない。むしろ、日本の成人男性の平均値から見れば、わずかに下回る、それくらいの身長だった。
 だからこそ、かもしれない。酒井は、学生時代から体を鍛え、警察学校でも柔道剣道は人一倍力を入れていた。それすらも、酒井の無意識のコンプレックスだったのかも知れないが、いずれにしろ、酒井は体力、瞬発力でも持久力でも、同世代には負けないという自負があった、自信を持っていた。
 だから。酒井は、自分より遥かに体格で勝る葉法善ようほうぜん――酒井は、その名前を知る由もない――に対し、一声吠えるように気合いを入れるとハラガンツールを構え、無謀にも一気に階段を駆け上がった。
 酒井自身、自分の中で感情が弾けた理由が分からない。それは、ここに来るまでのフラストレーションがはけ口を求めたのかも知れないし、今ここにかけられている結界、精神攻撃によるいらつきが昇華したものかも知れない。そして何より、酒井自身意識していなかったが、この先に青葉五月あおば さつきが居る可能性が高く、そこに行くのを阻む者がいる、その状況がそうさせたのかも知れなかった。

 葉法善は、わらった。こんな小さな男が立ち向かってくることに。久しぶりに血を見れるだろうこの状況に。そして、単純に、体を動かす快感の予感に。
 駆け上がってくる小男を叩きのめすべく腰を落とそうとした時、葉法善は、真下から自分を射貫く強烈な殺気を感じ、思わず一歩後じさる。その直後。階下で発砲音が轟き、寸前まで葉法善のいた踊り場の床の縞鋼板を00ダブルオーバックが撃ち抜く。
 思わずのけぞった葉法善に、階段を上りきった酒井が渾身の体当たりをかます。
「うおりゃあ!」
 酒井は、ラグビーのタックルの要領で全体重を乗せたぶちかましをかけると、そのまま葉法善の両足をかかえて持ち上げる。体が大きい分重心も高い葉法善は、階段の手すりを掴むことも出来ず、後ろ向きに踊り場から突き落とされる。
 背中からコンクリの床面に落ちる葉法善は、冷たい床面に落ちる直前に、踊り場の直下に居た男が銃を上に向けて撃ち、その側にいる女が木刀を構えて自分に向かって跳びだしてくるのを見た。
「ぃやあっ!」
 巴は葉法善の落下地点に向かって二歩踏み込み、脇に構えた木刀を一気に振り抜く。だが。
 巴の木刀は宙を斬る。そこに葉法善は居ない。代わりに一瞬の強い風が巴に吹きつける。咄嗟に木刀を中段に構え直した巴の間合いの先、一間ほどの所に、何をどうしたものか葉法善が片膝をついて着地する。

 それを合図にしたように、倉庫の奥、コンテナの影から殭屍キョンシーがわらわらと姿を表す。その数、ざっと三十。
「うわ。団体さんのお着きだぁ」
 銃口を倉庫奥に向け直した信仁が、おどけた声を出す。
「……あんた、弾は大丈夫?」
 信仁の一歩前に居る巴が、振り向かずに小声で聞く。
「正直ちょいヤバイ」
 信仁の左腰には八ラウンドのシェルホルダーが三つ、それを既に半分消費している信仁が巴の問いに答える。右腰にも同じようにホルダを三つ付けているがこっちはゴム弾、キョンシーに効かないことは既に証明済み。それ以外はプレートキャリアに付けた十発入りシェルケースが四つ、これもゴム弾と00バックで半分ずつ。最後の一発のつもりか、エジェクションポート前のシェルホルダーに、くすんだ銀色のショットシェルが一発はめてある。
あねさんこそ念はつ?」
 信仁も、巴に聞き返す。
「さてね……このくそったれの結界のおかげで消費が早くてね……ねえ、とっとと終わらせて帰りになんか喰ってこーぜ」
 厳しい状況にかかわらず、巴が気楽に提案する。
「同感だ、じゃあアレ半分こで」
 信仁も、二人で殭屍を全滅させるつもりらしい。
「あいよ。あたし、焼き肉食いたいな」
「こんな夜中に。太るぜ」
「うっさい」
 軽口を投げ合って、この状況下でも二人は笑い合う。
 その時、何がそんなに嬉しいのか、満面の笑顔で大男がゆっくり立ち上がるのを見ながら言葉を交わした二人の前に、踊り場から跳躍した酒井が着地した。

「今のうちです、はい、行きましょう!」
 酒井が葉法善を突き落とすのを見た蒲田は、即座に決断し、柾木と玲子を促す。そのまま階段を駆け上がる蒲田に続くべく、柾木も玲子の手を取る。
「行きましょう玲子さん」
「はい」
 玲子の手を引いて階段を駆け上がろうとした柾木は、蒲田が踊り場に着くのと入れ替わるように酒井が踊り場から飛び降りるのを見る。
「酒井さん、若ぇ……」
 ちょっと感心しながら、とにかく柾木は階段を駆け上る、玲子のペースに合せながら。
 階段を上がりきってみれば、踊り場から一間ほど向こうには開きっぱなしのドア、外開きで左ヒンジなのでここからでは中の様子も、外廊下のその先も全く分からない。蒲田は、そのドアの影に位置して拳銃を両手で持ち、胸に付けるようにして銃口を上に向けて構えている。踊り場に出てきた柾木と玲子に気付いた蒲田は、一瞬視線を投げて頷くとドアを回り込んで室内に突入した。
「警察です!動かな……五月さん!うわ!」
「蒲田さん!」
 蒲田の声は、何をしようとして、何を見たのかは大体解るが、何が起きたのかはよく分からないまま急に途切れた。被せるように、五月の声と、何かがもそもそぼそぼそと動く音と気配。
「五月様!」
 口を両手で覆って、大声を出すのは自制出来た玲子が小さく叫ぶ。
「……罠です、どうしたら……」
 柾木が呟く。その声をかき消すように銃声が階下から聞こえ、喧噪が湧き上がる。
「……行くしかありません、玲子さんはここに居て下さい」
 突如湧き上がった階下の戦闘音に身をすくめる玲子の目を見て、柾木は言う。
「でも」
「他に手はないです、時間も余裕も無い、行くしかありません」
 言って、玲子を落ちつかせようと一度頷いてから、柾木は小走りに開いているドアに向かう、なるべく足音をたてないように気をつけながら。

 ……そうは言っても俺、こういう時はつくづく役立たないよな……
 ドアの影に隠れ、バクバクする心臓を感じながら、柾木は思う。
 ……信仁君みたく銃が撃てるわけじゃないし、時田さん達みたく格闘出来るわけでもないし。いや銃は撃ったことあるけど。でも二度と撃ちたくないし……さて、これからどうしよう……
 考えてる、迷ってる時間はない事は分かってる。そして、出来る事も、ない。柾木は、覚悟を決めた。決めて、歯を食いしばって、下っ腹を踏ん張って、目をつぶる、のだけは我慢して部屋に飛び込んだ。
「柾木君!」
 入って来た人影を認めた五月が、名前を呼ぶ。
「……五月さん!」
 柾木も、瞬時に五月の姿を認める。少しやつれ、髪も乱れているが、間違いない。柾木は少しほっとした、が、次の瞬間、視野の右隅に何か変な塊を見つける。つい視線を右下に向けようとした柾木に、五月は叫ぶ。
「逃げて!」
 え?その言葉に思わず五月に向き直ろうとした柾木の後頭部に、何かがしたたかに叩きつけられた。

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