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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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 北条柾木にとって有り難い事に、玲子は、自分の上半身に加えて玲子の体重までも、その数割りとは言え支えていた左腕が限界に達する前に落ち着きを取り戻した。
 やれやれと、床についていた左拳ひだりこぶしを離した柾木は、握ったままの左手を一度スタジアムコートの左ポケットに入れ、その中で開く、苦労して。
 張果ちょうかが何らかの術を成そうとしたのを無理矢理握りつぶした影響か、左の二の腕から先が痺れ、まだ感覚が戻らないのだ。
 ……あの時の感触に似てるな……
 柾木は、ノーザンハイランダー号で、東大あずままさるの隠れ倉庫の封印に触れたときのことを思い出していた。
 ……けど、こっちの方が遥かに強力だ……
 あの時は「痛い」で済んだ。今度は、指が痺れて、まだ上手く動かない。
 玲子に悟らせまいと苦労してポケットの中で指を開く柾木は、感触のない左手の中で、何かがカサリと小さな音を立てた事に気付いた。
 ちょっとだけポケットから手を引き出し、ちらりとだけ掌の中を見て、慌ててその手をポケットの中に突っ込み直す。
「……?」
 立ち上がってスカートをはたいていた玲子が、その柾木の様子に気付いてわずかに小首を傾げた。
「あ、いや、何でもないです、とりあえず、とにかく座りましょう」
 柾木は、無理して笑顔を作りながら玲子を促す。
 今見た「見覚えのある長方形の紙片」、これは、二枚目の切り札になるかも、そう思いながら。

 とにかく口をゆすいで顔を洗う。ガラステーブルを元に戻し、バケツの中身の自分の吐瀉物をトイレに流し、二度ほどバケツを水ですすぐ。まだ着るには少々生乾きが過ぎるがとにかくスウェットの下だけは履き、柾木は玲子のベール付ボンネットを拾ってからソファベッドに、玲子の右隣に座る。
 床に落ちたボンネットのホコリを右手ではたく柾木の、そのボンネットを持つ左手に、ちょっとためらってから玲子が両手の指を絡ませた。
「……先ほどは、わたくしをかばって下さったのですよね……痛かったでしょうに、まだ痛むのですか?」
「え、いや、痛みはもう……まだちょっと痺れてますが、あ」
 突然かけられた言葉に、うっかり答えてしまってから、柾木はしまった、と言う顔をする。
「やはり……お隠しになっても分かります、理解わかるんです……最近、私、そういうのがなんとなく見えるようになって来ているのです。今も、何と申し上げたらいいのでしょう、柾木様の左手に、こう、何か黒っぽいもやのようなものがかかって見えます」
「え……」
 思わず、柾木は自分の左手、玲子のボンネットを持ち、玲子が指を絡めているその手を見る。柾木には、しかし、何も見えない。
「……見えるだけです。何も出来ません。私に、もしあのような力があれば、柾木様のお怪我を治して差し上げられますのに……」
 玲子は、柾木の左手に絡めていた自分の右手の指をほどき、柾木の頬に手を当てる。
 柾木は、あのような力、と言うのが何かすぐにピンと来た。以前、蘭鰍あららぎかじかが見せたような、ああいう魔法?の事だ。
 柾木の頬を撫で、柾木を隣から見上げていた玲子が、目を伏せる。
「……申し訳ありません、柾木様。私、たいそう取り乱してしまいました。お恥ずかしい所をお見せしました」
「いえいえ、俺もちょっと言い過ぎたかもですから。何ならすぐ忘れますから気にしないで……」
「いいえ、是非覚えておいて下さいまし。私、西条玲子は本当はあのように自分勝手な、わがままな娘なのです……柾木様は、柾木様には、それを知って、覚えておいていただきたいのです……」
 再び顔を上げた玲子は、真剣な眼差しで柾木に懇願する。思わず気圧された柾木は、
「わ、わかりました……けど、なんでまた」
「柾木様には、私は隠し事をしたくないのです、ありのままの私を知っていただきたいのです」
 はにかんだような微笑みを浮かべ、玲子が答える。
 あ、これ、嬉しいけどヤバイ奴だ。学生時代に女性と付き合った事が皆無ではない柾木は、その事を直感する。気をつけて受け答えしないと、地雷踏む。
「俺に?俺なんか、ていうか、失礼ですけど、今まで聞けなかったから良い機会だから、ごめんなさい、聞かせて下さい。何で俺なんです?」
 この質問は地雷そのものだ、それは分かってる、ここは本来「俺でいいんですか?」程度にしておくべきシチュエーションだ。その事が分かっていても、柾木は聞かずにはおれなかった。聞くチャンスは、勢いに任せて今しか無いとも思った。
「いや、玲子さんにそう言って貰えるのは俺凄い嬉しいです。けどほら、俺、田舎の出身だし、ただのサラリーマンだし、つりあいというか、その……」
 玲子は一瞬真顔になり、すぐに微笑みを取り戻すと、
「つりあいですとか、そういうのは関係ございませんの。ただ、私、西条玲子が、北条柾木様をお慕い申し上げている、それだけですわ」
 わずかに白い頬を桜色に染めて、玲子が言い切った。

「……柾木様、私は、西条精機の跡取り娘です。そのような立場である事は、昔からずっと承知しております。まして、柾木様もご承知の通り、私はこのような体、こんな目です。異性はもとより、同性からも避けられる、そんな容姿である事も承知しております」
 ということは、同性から避けられる経験があったのだろう、それも何度も、恐らくはもっと幼い頃に。今、柾木の知る限り、玲子の回りに玲子の容姿をどうこう言うものは居ない、最近知り合った「協会」関係者も含めて。それは、みんながある程度大人であり、場合によってはいい意味でそういう「異質な者」を見慣れている者も少なくないからだろう。だが、恐らく、玲子はもっと小さい頃、好奇の目、嫌悪の目に晒された事もあるのだろう。察するに、幼稚園や小学校の頃か。玲子が学校に通わないのも、そのトラウマがあるからかも知れない。
 柾木は、玲子の一言が含むところの重さに、内心で唸った。
「ですから、私は、ずっと思っておりました。私はいずれお婿様を戴いて、家と会社を継がなければならない、けれど、そのお婿様は、このような醜い娘でも我慢して下さる方、そのような方を、お父様が見つけて下さると。そのような醜い娘である私が自分で誰かを探すなど、とうてい出来ない相談だと」
 醜い娘。そうは思えないんだけどなぁ……
 柾木は、そこの所は玲子に同意しかねた。
「ですが……柾木様。柾木様は、その私を、綺麗だとおっしゃって下さったのです」
 いやだって、実際綺麗だと思うぞ、そりゃ見慣れてなかったから初見じゃ少し驚いたけど。
 玲子の語気が強くなりつつあり、自分がそれに飲み込まれつつあるのを意識しつつ、柾木は今度は玲子の言に同意する。
「あれは、私には魔法の言葉でした。家の者も、お父様も、そのように言ってはくれます。けれど、私はそれを信じる事が出来ておりませんでした。けれど、あの時の柾木様のお言葉は、私の胸に響いたのです、何かが壊れた、解けたように感じたのです」
 玲子の視線に熱がこもる。
「あれ以来、私は鏡を見るのが怖くなくなりました。いえ、正直申し上げると、今でも少し苦手です。ですが、柾木様に綺麗とおっしゃっていただくために、がんばってもっと綺麗になろう、鏡を見てそう思えるようになったのです……私は、自分の目を、許せるようになったのだと思います」
 年頃の女の子だからこそ、鏡に映る自分を必要以上に嫌悪する、それ自体は分からないでもないけど、そうか、そういう事もあるんだろうな……
 もちろん自分自身を美男子だとは思っていない柾木は、男はよほどのブサイクでもそこまで鏡を嫌悪しないだろうと思い、そして女の子は大変だと、ちょっとズレた感想も持った。
「ですから、私は決めたのです。私を変えて下さった柾木様に恩返しをしよう、一生尽くそうと。勿論、私はこのような娘です、お側に置かれたらそれは要らぬ苦労もなさるでしょう、その……」
 ちょっと視線をそらし、やや恥ずかしげに、
「……私を娶って下さるならば、会社の事も背負っていただかなければなりません。それはとても大変な事だというのも、重々理解しております。ならばその分、私は精いっぱい、身を捧げて尽くそう、そう思っておりました……ですが、気付いたのです」
 玲子の声のトーンが急に下がった。柾木は、知らず、わずかに体を乗り出す。
 視線を下げた玲子が言葉を続ける。
「……柾木様のお心は、柾木様のものです。いくら私が尽くそうが、私が何を考えようが、だからといって柾木様が私を側に置かなければならない、私を選ばなければならない理由にはならないと」
 正論だ。柾木も思わず同意する。いや、選びたくないわけじゃないけど。でも、俺も尻込みしているのは確かだ。
「……ですから!」
 キッと顔を上げ、まっすぐ柾木を見つめて、玲子は言う。胸の前で両の拳を握りしめて。
「私は決心したのです。選ばれるのを待つのではなく、選ばせてみせるのだと。柾木様に選んでいただけるほどの価値のある娘になるのだと。伴の者に迷惑をかけるのは承知しております、それでも送り出してくれたあの者達には、いくら感謝しても感謝し足りません。柾木様、私はその決意と覚悟の元、今ここに参ったのです。ですから、私は、私がここに来た事を、決して価値のない事に致しません!」

 柾木は、圧倒された。この娘は、今自分たちが置かれている状況が、自分が飛び込んだ状況がどれだけ危険で絶望的か、もしかしたら分かってないのかも知れない。聡明な玲子さんに限ってそんな事は無いと思いたいが、同時に、思春期の少女特有の思い込みの強さで、勢いに任せてここまで突っ走ってしまったのかも知れない。
 結局、玲子さんも女の子だった、そういう事なんだ。柾木は、それで全てが納得出来た。そして、その絶望的な今の状況に玲子が居る事で、考えなきゃいけない事は増えたし危険も増えただろうけれど、希望、というのとはちょっと違うかも知れないが、絶望からは一歩遠ざかった、ような気持ちになれた。
 それだけでも、玲子がここに来た価値はある。柾木は、そう思った。
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