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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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 張果ちょうかは、柾木に殴られて右に倒れ込む。山高帽と黒眼鏡が外れて飛ぶ。
 だが、柾木自身も、張果が床に倒れるより早く、葉法善ようほうぜんに殴り飛ばされた。柾木が背中からぶち当たったガラステーブルが、弾き飛ばされてけたたましい音を立てる。
「柾木様!」
 咄嗟に駆け寄った玲子が、柾木を助け起こそうとする……が、柾木はやや乱暴に玲子を押しのけると、咄嗟に玲子から少し離れ、さっきまで床の雑巾がけに使っていたバケツに覆い被さり、盛大にもどす。腹を思い切り殴られたらしい。
 その柾木に、殴り足りないのか二歩ほど葉法善は近づき、ふと足を止める。
「……師父シーフー……」
 ドアの外を向いた葉法善に、よろよろと立ち上がりながら張果が答える。
ゾウ但是不要杀人ダンシープーヤオシャーレン抓住它ツゥアツーター。」
 その張果の命令を聞くなり、葉法善は部屋を飛び出して行く。ふらつきながら、それでも立ち上がった張果は、
「……御令嬢の手のものかの、なかなかの手練れのようだが、果たして……イェには殺すなとは言ったがの、手が滑っても恨まぬようにな」
 口元の血をハンカチで拭いながら、張果ははっと身を固くする玲子に向かって言った。
「お二人の処遇は後で考えるとしようかよ……小僧、度胸は褒めてやろう」
 それだけ言うと、張果も部屋を出た。

 玲子を乗せたハイエースが入っていったリサイクル業者の倉庫から少し離れた所にセンチュリーを停めた時田と袴田であったが、玲子が倉庫に消えてすぐにわらわらと出現したチンピラがこちらに殺到するのを見て、各々おのおのが錫杖を持って車から飛び出した。
 玲子が即座に脱出してくればそのまま車で退散、そうでなければ一旦退却して警察に連絡、と言うのが初期の計画だったが、玲子はなかなか出てこない。こうも大人数、おそらく二、三十人は居るだろうのチンピラの出現は想定外、回りを囲まれては車での脱出も困難になるから囲まれないよう排除するが、かと言ってあまり大怪我させるわけにも行かず、力加減が難しい。
 約束の五分が過ぎたところで、時田が決断する。
「キリがありませんな。仕方ない。袴田、一旦車を出しなさい」
「しかし……」
「私が残ります、足は確保しておかねば」
「……諒解です」
 時田一人では流石にこの人数は荷が重いだろうが、足を失うのもまずい。袴田がセンチュリーに乗り込もうとした、その時。
 チンピラのはるか後方から、大男があり得ない距離と高さを跳躍してこちらに来るのを、時田も袴田も見た。
此命令不是非凡命令スーミンリンプーシーフェイファンミンリン 急急如律令チィチィルーリーリン ティン!」
 大男が宙を横切りながら呪文を唱え、何かを投げる。空を切って飛んできた符籙ふだが時田と袴田に貼り付く。
 その途端、時田も袴田も、体の自由を失った。

 柾木がバケツから顔を上げたのは、張果が部屋を出てからしばらくしての事だった。
「柾木様……大丈夫ですか?」
 仰向けに倒れ込んだ柾木の顔をのぞき込みながら、玲子が心配そうに聞く。
「大丈夫……じゃないですよ……生きて……ますけど……」
 肩で息をしながら、途切れ途切れに柾木が答える。そのまましばらく息を整え、やっとの思いで上半身を起こす。
「柾木様……」
「怪我は、ないですか?」
 無理して微笑みながら、柾木が玲子に聞く。
「……はい、わたくしは……」
「ならよかった。じゃあ……」
 柾木の顔から微笑みが消える。
「玲子さん!無茶しちゃダメです!」
 ぱちん、柾木は握ったままの左手を添えた玲子の頬に、ひっぱたくと言うほど強くはないが、ほんのちょっとだけ力を入れて右掌を当てる。
 驚いて目を丸くする玲子に――さっきからボンネットごとベールは落ちたままだ――柾木は続ける。
「アイツは、玲子さんの目を潰すくらい平気でやる奴です、あんな無茶しちゃダメでしょう!大体、何しにこんな危ないとこ来たんですか!」
 目を丸くして固まっていた玲子の、その紅い瞳が、急に涙で溢れ出す。
「だって……私……柾木様が心配で……」
「それでもです!」
「そんな、ひどい、私だって、こんなに怖いのを我慢して……」
 柾木は、玲子の肩がが震えているのに気付いた。玲子の声も震えている。
「……バカ!柾木様のバカ!バカバカ!バカ……」
 バカバカと言いながら、玲子は柾木の胸をぽかぽかとゲンコツで殴る。まるで痛くもかゆくもないそれを柾木が甘んじて胸で受け止めていると、そのまま、玲子の声はすぐに嗚咽まじりに変わり、殴る手も止まり、
「……バカぁ……ぅああああぁ……」
 そのまま、柾木の胸に顔を埋めて、声をあげて泣き出してしまう。いろんな感情が堰を切ってしまったらしい。
 柾木は、びっくりしてそれを見ている。感情の起伏そのものはたまに大きいが、玲子は基本的にいつも割と冷静で、人前でこんな大声で泣く事はない、少なくとも見た事はないし、普段の言動からこう言う状況が起こりえるとは思ってもいない、想像だに出来なかったからだ。
 だが。考えてみれば、玲子はたった十七才の女の子に過ぎない。そりゃあ、ここに来るのに覚悟もいったろうし、どれだけ怖かっただろう。玲子は玲子で、頑張ったのだ。そこは、理解してあげないと。
 柾木は、玲子の背中に右手を回し、優しく背中をさすった。

 しばらく、玲子の泣き声が少し小さくなるまでゆっくりと背中をなで続けていた柾木は、意を決して玲子に話しかける。なるべく、玲子の耳の側に口を寄せながら。
「玲子さん、俺の事心配してくれたのは凄く嬉しいです。でも、玲子さんまで心配される側になっちゃダメです」
 泣きながら、それでも玲子の肩が小さくぴくりと動く。
「言っちゃ何ですが、俺に比べたら、玲子さんのこと心配する人の方が圧倒的に多いんですから。それに」
 一旦、柾木は息を吸って、
「俺も心配します」
 びくん。玲子の背中が動く。ゆっくりと、玲子は顔を上げる。その上気した頬、腫れぼったい紅い目、そして何かを求めるようにわずかに開いた唇を間近で見て、柾木はどきりとした。
 ヤバイ。これはアレだ、もしかしたらオレ、玲子さんの目に、別な意味で魅了されてるのかも知れない。玲子の潤んだ視線、濡れたルビー色の目の中の黒曜石のような瞳に見つめられ、今更のようにどぎまぎした。
 なんかこう、ダメだ、締まらない。泣く子と地頭には勝てないって言うけど、泣いてる美少女には何やったって勝てないよ。柾木は、自分の負けを認める。
「だからその。もう来ちゃったものはしょうがないから、次から気をつけて下さい。あと、目の事は、ホントになるべく滅多に使わないで下さい。今回みたいに、多分、そういうの、両刃の剣って奴なんだと思いますから」
 しばらく柾木を見つめていた玲子は、ひっく、と、涙をすすり上げると、口元と眉毛をへの字にしたまま一度大きく頷き、そしてまた、新たな涙の溢れた目を、顔を柾木の胸に埋めて泣く。先ほどまでよりは、小さな声で。
 柾木は、腕が痺れるまで背中を撫でる覚悟をした。さっきからずっと握ったままの左手で体を支えたまま。
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