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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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「何か、騒ぎがあったかの?」
 珍しく自分で粥を運びながら事務所跡に入って来た張果ちょうかが、五月に尋ねた。
 白々しい、全部見て聞いてしっているはずなのに。五月は内心反感を覚えるが、それを表に出すほど愚かでもない。
「この人形が倒れてきて。そりゃもうびっくりしたわよ」
 大げさに手を振りながら五月が答える。
 さっきまでは、本当にヤバかった、心が折れるってああいうことか。けど、今はもう大丈夫。どうやら柾木君にはまた助けられたみたい。今度お礼しとかなきゃ……
 五月は、北条柾木という、自分の符術をも破る、いや、無視するその類い希な霊的不感症体質をもった青年との奇妙な縁に感謝する。そして、「今度」がある事を無意識に自分が確信している事にも気付き、心の中で笑う。
 と同時に五月は思う。張果は、こっちの事はどれくらい知っている?エータと柾木君の関係、エータと私、というか菊子さんや緒方さんと私の関係、そして、エータと柾木君の関係。張果の表情は読みづらい。簡単に尻尾を出すタマでもないだろうし。下手にカマかけて逆に勘ぐられても面倒だし。なかなか難しい……

「それで、元に戻してくれたのか。いやそれは有り難い」
 張果は、いつも通り事務机に粥を置きながら言う。まず間違い無くめしいだから、視線も読めない。それどころか、多分、同時に複数の人形の視覚と聴覚を得ているのだろう、立ち居振る舞いは盲である事を全く感じさせない、どころか、一体何が見えているか分かったもんじゃない。五月は、内心の警戒レベルを上げつつ、表面上は平静を装って肘掛け椅子から事務椅子に移動する。
 ダメ元、ものは試し。聞いてみようか。
 五月は、あくまで自然になるように気をつけて、
「右手しか使えないから苦労したわよ。お礼言うくらいならついでに教えてよ、これ、何に使うもの?」
 右手に持ったレンゲでエータを指して、聞く。
 張果が答えるまでに、一瞬の間が空いた。

 しくじったか?五月が内心ほぞを噛んだ、その時。
「さて、何に使おうかのう」
 張果が、独り言のように言った。
「儂は、何をしようとしていたのかのう……」
 ゆっくりと、粥をレンゲですくって口に運びながら、五月は張果の次の言葉を待つ。
「……忘れてしまったの、昔、何をしようと思っていたかなど。まあ、兵隊は多いほどよいからな。飯を食わぬ兵隊ならなお良い。あいつら・・・・を恐れる事もないでな」
「あいつら?」
 五月は、重ねて聞いた。その時。
師父シーフー……」
「分かっておる……」
 張果と葉法善よほうぜんが、揃って同じ方を振り向く。その方向はこの倉庫の入口でも、この事務所跡の入口でもない、中途半端な方角だった。

 ドアの鍵が開いた時、柾木はまた葉法善が殴りに来たのだと思った。生乾き以前だが、だったらせめてスウェットを着てからにしてもらおう、それくらいは頼めるだろう、柾木はそんな事を考えて、腰掛けているソファベッドからドアの方に振り向く。
 だが、開いたドアから見えた人影は、柾木がここに来る事を思いつきもしない人物だった。

「……柾木様……」
「……ぇええ?れ、玲子さん、なんで?」
 片手を胸元で握りしめ、感極まった様子で立ち尽くす西条玲子を見て、柾木は素っ頓狂な声をあげた。
 玲子は、一歩、また一歩、ゆっくりと柾木に近づく、少しずつ歩調を速めながら。
 思わず立ち上がった柾木だが、ふと、自分は今パンイチにスタジアムコートを羽織っただけのある意味ヤバイ変態みたいな格好である事を思い出し、咄嗟にコートの前を合せる。
 そんな柾木の見当違いの戸惑いなどお構いなしに、玲子はどすんと柾木にぶつかると、コート越しに両手を柾木の背中に回す。
「……柾木様、心配いたしました……」
「え、いやその玲子さん、なんで玲子さんがここに、どうやって……」
 答えは返ってこない。きつく――玲子としては力一杯だろうが、コート越しでもあり、それでも大した強さにならない――自分を抱きしめる玲子の細い腕の感触と、直接胸に押しつけられる玲子の頬の感触。しばらく、自分の胸元の、玲子の白銀の髪と黒いレースとフリルで飾られたボンネットを見下ろしていた柾木は、いつものチンピラがドアの外で棒立ちして動かない事に気付き、そして、何がどうしたかは分からないが、玲子がそのチンピラに何をしたかは見当がついた。
「玲子さん、もしかして……」
「……さあ、柾木様、帰りましょう」
 柾木の胸から顔を上げた玲子が、柾木の目を見て言う。押しつけられ、歪んでズレたベールから、潤んだ、玲子のルビー色の目が柾木の目を射貫く。
「いやいや、勝手に帰られても困る」
 柾木がドアからちょっと目を離したその隙に、葉法善を連れた張果がそこに立っていた。

「……あなた方が、柾木様にこんな酷い事をしたのですね……」
 ベールとボンネットを整えつつ、ゆっくりと振り向いた玲子が、静かに言った。
「許可なく入った者が居ると思えば。確か西条精機の御令嬢、だったの」
 ぴくりと玲子の肩が揺れる。アイツ、こっちの情報、相当知ってやがる。柾木は心の中が底冷えするような感じを覚えた。
「こいつは……何をしたかは知らんが。イェ恢复理智フイフーリィチー
 柾木には分からない言葉で張果は葉法善に何かを命ずる、と、葉法善は、いきなり棒立ちのチンピラを殴り飛ばした、全力で。
 殴られ、二メートルほども飛ばされたチンピラは、のろのろと立ち上がると、そのまま再び棒立ちになる。
「……なるほど、この程度では正気にもどらんかよ。御令嬢、何をした?」
 張果が、玲子に聞く。
「……教えて差し上げますわ」
 玲子が、ボンネットに手をかけながら、低い声で、言う。
「ダメだ玲子さん!」
 柾木は、咄嗟に玲子を止めようとした。
 だが、玲子がボンネットをむしり取る方が早かった。

 玲子の怒りに燃える紅い目が、張果を射貫く。
 だが。
「何と!そういうことかよ!」
 嬉しそうに、張果が声をあげる。
 玲子は、驚いて一歩後じさる。
 ……やはり、そういう事か。
 柾木は、前々から思っていた事に確信を持つ。つまり。
 張果は、盲人だ。だから、玲子の邪眼は効かない。
 柾木は、そうではないかとは薄々思ってはいた。立ち居振る舞いを見ているだけではとてもそうとは思えない、かくしゃくと歩き、動く。だが、何かを取ろうとする時、ごくわずかに目測を誤る事があるのに柾木は気付いていた。そして、黒眼鏡と視線を遮る山高帽。明らかに見えていないはずの俺の表情変化にも気付く。こいつは、目じゃない何かで周りを見ている。今、確信が持てた。
 だが、事態はそれどころではない、柾木は、咄嗟に前に飛び出した。

 玲子がたじろぎ、後じさった瞬間、張果は懐に手を入れる。その動きを見て、絶対に何かまずい事が起きると柾木は思い、とにかく玲子をかばうために前に出ようと飛び出す。
 案の定、張果は懐から何かの紙切れを取り出していた。柾木は、精一杯の速度で張果の前に立ち塞がり、玲子を護ろうとする。
 エータの体があれば。柾木は、あの反射速度、あの瞬発力が、今この瞬間本当に欲しいと思った。
刚胜柔ガンシェンロウ故金胜木グージンシェンモゥ
 張果の言葉の意味は、柾木には理解出来ない。だが、それが何かの呪文である事は理解出来た。
金克ジンクー……」
 張果の呪文が途切れた。その瞬間、玲子を押しのけた柾木が、左手で張果の右手ごと符籙ふだを握りつぶし、そのまま右手で張果の左頬をしたたかに殴りつけていた。
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