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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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 ……あれは、どういう事なんだろう?
 バケツの水をぶっかけられ、正気を取り戻した北条柾木は、さっきの視覚、聴覚、触覚を脳内で反芻する。
 殴られた頬が、顎が熱く、じんじんと痛む。腹も、何かがねじ込まれたような違和感と吐き気がする。何度も倒れたから、その拍子にあちこちぶつけたのだろう、体のあちこちも痛む。
「なかなか、辛抱強いの。感心だ」
 柾木を見下ろす張果ちょうかの顔は笑っている、真っ黒なサングラスの奥の目は見えないが。
「だが、そろそろ話してくれた方がいいんじゃないか?」

「……話すも何も、本当に知らないんですって……」
 柾木は、苦労して声を出す。
 ……殴られるってのは、こんなに体力失うんだ……
 肩で息をしながら、柾木は思った。考えてみれば、殴り合いのケンカなんて小学校以来した事がない。いや、今は一方的に殴られているだけだが。
 殴られる痛みってのは、怖いんだな。そんな事も柾木は思う。最初に殴られる時は、普通に怖いし、殴られれば痛い。だが、それが何度も続くと、またあの痛みが来る、そう体が無意識に反応してしまい、殴られる怖さが倍にも三倍にもなる。
 葉法善ようほうぜんだったか、葉法善イェ・ホゥセンだったか、どっちでもいいや、こいつもおかしい。無表情で殴りやがる……いや、何度か見た。殴る瞬間、ほんのわずかだけど、笑ってやがる。そして、こいつ、一番痛くて怖くて、でもダメージは小さい殴り方を知ってやがる。でなきゃ、俺、多分もっと大怪我してる、歯の二、三本無くなってるだろう……

「まあいい、そろそろ昼飯だ、儂も腹が減ってきたでな、一旦ここまでにしようかよ」
 そう言って、張果は踵を返す。
「飯は運ばせるでな、喰えるかどうかは知らんがの。それから、すまんが床はお前が拭いておいてくれな」
 床拭くって。柾木はバケツ数杯分の水がぶちまかれたリノリュームの床に目を落とす。雑巾も何も見当たらないけど、どうやって拭くんだよ。俺がやんのかよ。大体、俺もびしょ濡れなんですけど。
「飯のついでに雑巾でも持って来させるでの」
 張果はそう言って、ドアから出る。葉法善がそれに続き、ドアが閉まる。鍵がかかる……かと思いや、ドアが少し開いて張果が顔を覗かせた。
「言い忘れておった。イェはもともと手加減とか容赦とかないのでな、今は儂が抑えておるが、本性は邪悪で狡猾で天邪鬼、それを知っておいた方がよかろうよ」
 脅迫だ。痛みの強い左頬を左手で押さえて立ちながら、柾木は思った。こいつら、どこまでも俺を脅しやがる。間違いない。このジジイはサディストだ。

 今度こそドアに鍵がかかったのを耳で確認し、柾木は部屋の入口側隅の洗面台にある、汚れた小さな鏡に自分の顔を映す。
 酷い顔だ。見るも無惨、ってのはこういうのを言うんだろうな。両頬は腫れてて熱いし、鼻血も出てる。手足は無事だがあちこち痛い。鳩尾もシクシク痛む。昼飯だってけど、入るかどうか自信はない、入っても、すぐまた腹を殴られたら吐く事請け合いだ。朝飯吐かなかったのはもう胃に粥が残ってなかった、それだけの事、胃液はしこたま吐いた。
 情けない。辛い。なんで俺がこんな目に。
 ――一度かかわったら、あっちから近づいてくるからね、徹底的に無視するのよ――
 柾木は、以前に蘭円あららぎまどかから言われた一言を思い出す。でも俺、無視してもこんななんですけど。そして柾木は、以前、最初に近づいてきたのが玲子だったのは、本当に幸運だったのだと知る。最初がこれだったら俺、間違いなくもう死んでる。
 情けないと思いつつ、柾木はびしょ濡れのスウェット上下を脱ぎ、洗面台で絞る。パンイチで濡れた服絞って、これ何のイジメだよ、俺小学生かよ。正直パンツもそこそこ濡れているが、そこは一旦堪えて、運良く脱いであった為に濡れるのを免れた袢纏はんてんとスタジアムコートを羽織る。これまた運良く水を被らなかった電気ストーブのおかげで部屋は寒いまでは行かない室温だが、かといってパンイチで居るには正直きつい温度でもある。椅子とテーブルの配置を何とか工夫して、スウェットが乾くように電気ストーブの前に配置しようと悪戦苦闘していると、例の痩せたチンピラとは違うチンピラが、雑巾バケツと盆に載せた粥の椀を一緒に持ってきた。

 傷む体をかばいつつ、柾木は床の水を雑巾で拭き、バケツに絞ってはトイレに流す。
 体が、エータだったら。柾木は、その事を考える。あの体なら、傷みは感じない。いや、感じない事はないけれど、問題ないレベルまで傷みをキャンセル出来る。そもそも、生身よりパワーもスピードも上だ。と言っても、だからって葉法善相手に殴り合いで勝てる自信はないけど。それでも、通常最大で五人力程度って緒方さん言ってたっけ、それだけのパワーがあれば、もしかしたらここから力技で脱出出来るかも知れない……ダメだな、あの張果ってジジイは、体がオートマータだって事を見逃すとは思えない。
 エータ。そうだ、さっきのアレ。どういう事だったんだろう。
 柾木は、意識を取り戻す直前のそれを思い出してみる。
 あの時、多分、俺は殴られて気を失った、失ってたはず、今から思うと。あの時は、そのまま何か見えてたから、気を失っていると思ってなかったけど。そう思うと、見えてた部屋の中は、こことまるで違う部屋だった。
 それに、五月さん。あれは間違いなく五月さんだった。俺を抱き起こして、何か囁いて……そうだ、「助けて」って言ったんだった。
 あれは、俺が見た夢なんだろうか?いつも見るあの夢の延長線?にしては色々変だった。急に部屋の中が見えたり、五月さんが動いてたり。そうだ、五月さんの服も、夢の中とは全然違った。

 整理してみよう。柾木は雑巾がけをしながら、冷静に考えようとする。まず、エータが盗まれた、それは多分、ここじゃないかもだけど、エータはあの張果ってジジイの手元にある。俺はここに居て、あのジジイは俺からエータの動かし方を聞き出そうとしている。つまり、あのジジイはエータを動かせていない。緒方さんの言うとおり、機能停止してガッチガチのセキュリティで護られてるんだろう。
 柾木は、雑巾がけという単純作業を繰り返しながら、思考を深める。
 そこに、夢の件はどう絡む?あの幼児はエータを名指しで接触してきた、みたいな事を緒方さんは言ってた。それが正しいなら、あの幼児はエータの居場所や詳細を知っているって事だろう。でも、幼児がそんな事自分で調べるわけがないだろうから、じゃあ、誰が教えたんだ?そもそも、どうして幼児がエータに夢で接触する?どうやって?
 夢の中で幼児を抱いていた、五月さんに見える女性も謎だ。今朝の夢で、思い切って触ってみたら、その途端に夢が消えた。女性の柔らかいほっぺたに触った感触はあった。そういや、あの幼児に触られてる感触ってないのにな。目で見てるから触られてる事は分かるし、熱量みたいなものは感じるんだけど。で、触ったのが五月さんだったかどうかは分からないけど、誰かに触ったのは多分、間違いない、夢の中だけど。
 あれは本当に五月さんなんだろうか。さっき見た五月さんとは着てる服が違ったけど……あ、でも、さっきの五月さん、左手で人形抱いてたな、よく見えなかったけど、小さい、頭の黄色いの……
 柾木は、そこで、さっき見た光景と夢の中の光景の符合に気付く。
 五月さんの服は違う、けど、五月さんの抱いてた人形と、夢の中の幼児の服と髪の色は、同じだ……
 柾木は必死に記憶を再現する。助けて、と言った五月の背後、その部屋の中は、一面に人形が飾られていた、その光景を思い出し、柾木の雑巾をかける手が止まった。

 そういや、あの時も俺、体がエータだったらなぁって思いながら倒れたっけ。それって、もしかしたら……
 柾木は、もしかしたら切り札を一枚手に入れたかも知れない、そう思った。
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