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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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「何故、停まらないのですか?」
 袴田の運転するTA-GZG50型センチュリーが北条柾木の部屋のあるワンルームマンションを素通りしたのに気付いた玲子が、袴田に静かな抗議の声をかける。
「見覚えのない不審車が停まっておりました。大事をとり、人目につかない場所に移動します」
 冷静な声で、運転に集中した様子のまま袴田が答える。
 その一言で、玲子は悪い方の想定の可能性が高まったことを知り、緊張に体がこわばるのを感じた。

 いつもであれば、ほとんどの場合はそれほど長居はしないため、武蔵境通りに面したマンションのエントランス前の空間に玲子は車を停めさせることが多い。勿論、全部で二十戸を超えるワンルームマンションである為、まれに先客がいてそこが使えず、近隣住民に迷惑にならない別の所に車を停めることもある。だが今回は、明らかに今まで見たことのない黒いハイエース、ご丁寧に運転席も含め窓を全部スモークで塗りつぶしている、見るからにカタギの車とは思えないそれがその場所を占拠していた。
 必ずしもそれが柾木と関係あると確定しているわけではないものの、袴田は咄嗟の判断で停車を避けて素通りし、マンションから死角になる月極露天駐車場の入口付近に一時停車した。

「袴田、プランを立てて下さい。おひいさま、いずれにしろ北条様のご様子を確認すべきとは存じますが、その前に」
 珍しく、時田が助手席から身を乗り出して振り向き、後席左側に座る玲子を見て、言う。
「不躾ではございますが、先ほどのお返事を聞かせていただきたく、お願いいたします」

 玲子には、何を聞かれているのかはすぐに分かった。そして、その答えはもう決まっている。
 舞耶まいや、やはり女の事は女ですね。ありがとう。
 玲子は、心の中で、自分が生まれるより前から西条に仕えているハウスキーパーに感謝し、口を開いた。下腹に力を込めて。
わたくしは本気です。本気で、柾木様をお慕い申し上げております。勿論、柾木様が私を選ばないかも知れないことも、覚悟はいたしました」
 一旦深呼吸し、そしてまっすぐ前を見て玲子は続けた。
「ですが、きっと選ばせてみせます」
 数秒、時田は玲子を見つめていた。袴田は何も言わず、ハンドルを握ったまま前を見ている。
 時田は、楽しそうに優しく微笑むと、袴田に命じた。
「お姫さまに、プランを説明してください」

「いくつかやり方はございます、が、その前に、お姫さまはこの状況をどうお考えか、お聞かせください」
 袴田が、バックミラー越しに玲子を見ながら言う。視線を直接向けないのは周囲の警戒を怠らないため、執事としてより、運転手兼玲子の護衛としての役割に重きを置いている袴田の、それが仕事である事は、玲子も熟知している。
「そうですね。私にとって最もよいのは、柾木様が本当に腰を痛めて寝込んでいらっしゃる事、あそこに停まっている車は無関係である事。最悪は……」
 玲子の言葉が途切れる。その可能性は常にある。玲子は、自分の知っている者が、何者かの手にかかって惨殺されたことを忘れてはいない。その何者かが、未だに判明していないことも。
「……とはいえ、連絡があったタイミングから考えれば、最悪の事態である可能性は低いでしょう。だとすると、可能性として高いのは、あの車でここにやってきた何者かが、今、柾木様を部屋に監禁している、でしょうか」
「その場合、うかつに近づけば柾木様にも、勿論お姫さまにも危険が及びます。この場合、部屋と車、両方に賊がいると考えるべきで、部屋に近づくものは先に連絡されると思っておくべきです。部屋の中の様子が分からないのも問題です。そこで……」

 玲子は、田無駅方向からメモ紙を見ながら武蔵境通りを南下し、マンションエントランスの前で立ち止まった。メモ紙と表札で住所を確認しているらしい。西東京の住宅街にはあまり似つかわしくない白黒のゴスロリ衣装の少女は、確信を得たらしく、ボンネットを揺らして可愛らしく頷く。
 表通りからエントランスを通ってマンション玄関ホールに入ろうとする少女を目で追いつつ、ハイエースの運転席の小太りの男は、咥え煙草のまま携帯電話を取り出す。視線を少女から携帯電話に移した時、視野の隅に入った右サイドミラーの鏡面、そこに、スリーピースのスーツをきちんと着込んだ誰かが居て、今まさにハイエースの運転席ドアノブを引こうとしているのが映る。
 男の咥えていた煙草が、薄く開いたドアからアスファルトの上に落ちた。

「北条柾木様、いらっしゃいますか?」
 ドアの横のインターホンの呼び鈴ボタンを押した玲子が、室内側のチャイムが鳴り終わるのを待ってからインターホンのマイクに声をかける。
「お迎えに上がりました、出てきて下さいまし」
 そこまで言って、室内の気配に耳をすます。
 明らかに、室内には誰かが居る、物音はする。あまつさえ、テレビも点いているのだろう、お気楽なアナウンサーの声もする。
 玲子は、ドアの可動範囲から外れ、インターホンのカメラの真ん前に立つ。室内の気配は、足音を消す配慮もせずにドアに近づいて来る。玲子は、何度も来ているこの部屋の構造から、インターホンは部屋の中央、カウンターキッチンの壁面にあるのを知っている。
 かちゃり。ドアの鍵が解除される音がした。一瞬後、ドアが乱暴に内側から蹴り開けられ、開いた隙間から玲子に向かって腕が伸びる。
 だが、その腕は、玲子に届く遥か以前に、ドアの影に居る時田に握られ、停められる。
 時田は、その腕を握ったまま力ずくで一気に部屋に押し入る。勢いで、腕の持ち主の男は床に押し倒され、すかさず時田は男の肩を膝で抑え、口にハンカチを押し込む。その間も、目は部屋の中を走査する――他には、誰も居ない。
 いつの間にかベランダに居る袴田に目で合図すると、袴田も頷く。その時田の脇を抜けて、律儀に靴を脱いで部屋に上がった玲子が、ベランダ側窓のクレセント錠を解除した。
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