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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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「さて、何か思い出してくれたかの?」
 部屋に入りながら、老人が柾木に言う。
「……お前はもういい、この男のマンションに行って、何かないか探してこい」
 ドアの脇に立っていたチンピラに向かい、老人は言う。
「な、何かって、何すか?」
「……使えん奴だの。経文、呪符、護符、十字架や聖書の類いでもいい、そういったものだ、さっさと行け、何か見つけるまで帰ってこなくて良い」
「へ、へい」
 チンピラは顔色を変えて飛び出してゆく。老人の口調は静かだったが語気は強かった。チンピラに振り向いていた老人はどんな表情をしていたのか、柾木にはそれは見えなかった。
 大きく息を吸い、ため息と共にそれを吐き出して、老人は振り向く。黒地に金の刺繍の入ったカンフーの達人みたいな服――道袍などという言葉は柾木は知らない――を着て、黒の山高帽を目深に被り、左手で人形、古びた市松人形を抱えているその老人は、背が低い事もあって柾木からは口元しか見えない、表情がイマイチ読めない。
 こう見えても柾木は営業職、配属されて半年とは言え、営業所のフロント勤務だからそれなりに人を見る目は鍛えられているし、実際飲み込みがいいと上司にも褒められている。それがおだて半分だとしても、柾木自身、学生の頃よりは人を見る目が育ってきている自覚はある。その上で、あのチンピラは虚勢を張っているだけ、自分に何も誇れるものがない、自分に自信が持てないから虚勢を張って他者より強い事を演じなければ生きていけないタイプと判断したし、実際それは当っていると思える。このイェと呼ばれた大男は、逆に虚勢を張らないし滅多に手も出さない、だが必要があれば躊躇も無い、その境界の見極めを間違ってはいけないタイプだと思う。という事は、その見極めさえ間違えなければ、何とかなる、非常に難しいが。
 だが。この爺さんは奥が見えない。営業における対人交渉はいくつかのパターンがある、それの最適解を如何に早く見抜くかだ、そう先輩には教わったが、どのパターンを当てはめるべきか、まださっぱり分からない。
 だから、慎重に観察していくしかない。柾木は、表情に出ないように気をつけながら、気持ちを引き締め、下っ腹に力を入れた。

「おかゆ、美味しかったです、ありがとうございました」
 軽いジャブもかねて、柾木は老人に礼を言う。
「おお、口に合ったか、それはよかった」
 老人の口元が緩む。柾木には、山高帽のつばが邪魔でそれしか見えない。夕べもそうだった、そのせいで、どうにも表情が読めない、交渉しづらい。
「何しろ急な事での、儂の飯を分けるくらいしか出来なくての。昼には何か若者向きのものを用意させよう」
 老人の口角がキュッと上がるのが、柾木にもはっきりと分かった。
「色々教えてくれたならばの」

「そう言われましても……ボクそっくりの人形、でしたか、あの動画はボクも見ましたが、会社でもからかわれて困ってるんです」
 とりあえず、嘘ではない。柾木は様子を見る事にする。
「まあ、言いたくないのも分かるが、調べはついておっての。錬金術師、緒方いおりの創りしオートマータ、そうだの?」
 最初から向こうは切り札を切ってきた。柾木はそう思った。背中を冷や汗が流れる。ああ、恐怖で失禁するってこういう時なんだな、下半身が脱力するのを感じて、柾木は思う。とりあえず、自分は失禁はしていないようだが、膝は崩れそうだ。
 流石に動揺が顔に出たのだろう、老人が重ねて言う。
「儂は面倒は嫌いでの。儂も一晩考えたのだ、やはり人間正直が一番だからの……だから、知っている事を教えてくれんかの?」
 この爺さんはどこまで知っているのか。柾木は、脳がすっと軽くなるのを感じる。
「……座ってもいいですか?」
 鷹揚に老人は頷く。
「……話してもらえんか?」
 貧血だ。俺、自分が思っている以上にショックを受けてるらしい。ソファベッドに座り込んだ柾木は、自分をそう分析する。
「……何が知りたいんです?」
 敵はこちらの情報を相当手に入れている。こっちは敵の情報が全くと言って良いほど無い。せめてもう少し。柾木はささやかな抵抗を試みる。
「何、大したことではない」
 一歩、柾木に近づいて、老人が言う。
「あれの動かし方を、知らんかの?」

「動かし方?」
 柾木は、思わず聞き返す。
「……どうやって生き返ったのかは知らんが、君は一度死んで、あの人形として暮らしていた、そう聞いとるのでな。ならば、動かし方も知っておろうよ?」
 ああ……その情報はちょっと違う。とはいえ、その事は、この爺さんはどこから知ったんだ?柾木は必至に考える。つまり、あの時俺の体を盗み出した連中と繋がりがある、あるいはそのものだって事か?非常に気になるが、どうせ聞いてもまずまともに答えは返ってこないだろう。それよりも、あっちが知りたいのはどうやらエータの起動方法みたいだけど、それ、俺も知らないんだけどなぁ……
「すみません、ボク、それホントに知らないです。緒方さんを御存知なら、そっちに聞いていただいた方が……」
「……言いたくないのは分からんでもないが、頑固は良くないのう」
 軽くため息をついた老人は、後ろに控える葉に顔を向けると、
ティン但是不要杀人ダンシ プヨウ シャーレン
 何事か中国語で言う。
 それを受けて、葉が一歩前に出る。
 あ、やっぱりそうなるのね?
 柾木は、葉が醸し出す雰囲気が変わった事に気付き、身を固くした。
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