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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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 永遠のような一瞬とは、このような時間を言うのだろう。北条柾木は、その老人がいつ怒り出すか、固唾を飲んで待った。長い時間、待った。
 待った、気がした。
「……そうか。まあいい、今日はもう遅い、こんな所だが、泊まっていくといい。イェ、案内してやれ」
 葉と呼ばれた大男は、黙って頭を下げ、柾木の脇を通ってドアを開けて出て行く。荒事になるか、少なくともキツく尋問されるだろう事を予想していた柾木は、一瞬状況を飲み込めずに戸惑い、だがとにかく老人の気が変わらないうちにここを出るべきだと判断し、コンビニ袋をぶら下げて慌てて葉の後に続く。
 その柾木の背中に、老人が声をかけた。
「ゆっくり休めば気も変わろうて。何か思い出してくれるかもしれん、一晩よく考えてくれな」

 そして、改めて目隠しされた上に車で運ばれ、連れてこられたのが、今居るこの仮眠室らしき部屋だった。その時はもうかなりテンパっていて部屋の外の様子すらよく見ていなかったが、柾木が部屋に入り、外から鍵をかけて離れていく葉の足音が聞こえなくなってから、柾木は大きくため息をついて床に崩れ落ちた。
 どーしよう……俺、どうなっちゃうんだろう……
 自分の部屋を出る時は不安と渡り合ってやろうと決心してはみたものの、実際その不安たるや柾木の想像を遙かに上回る物量であった。柾木は、数時間前の決心を一瞬後悔したが、後悔したところで後の祭りだし、大体さっきはあれ以外にどうしようも無かった、俺はよくやった方だと自分を慰める事にする。その上で、もう一度大きくため息をついて、柾木は部屋を見回した。
 有り難い事に、どうやら部屋の隅のドアはトイレに繋がっているらしい。使い古されたソファベッドにガラステーブル、古びてはいるが電気ストーブもあるから寒さに凍えなくても済みそうだ。監禁部屋にしてはむしろ居心地良い方と言えるかも知れない、などと柾木はとにかく良い方に物事を考えようとする。そうしてしばらく薄暗い部屋の中を見回し、気持ちが落ちついてくると、今度は全身が緊張の抜けた後の倦怠感に襲われ、そして腹が減りまくっていることに気付く。
「……食うか」
 持ってきて正解だった。そう思いつつ、コンビニ出る時にはアツアツだったのに、当たり前だがもう冷え切りまくっているハンバーグ弁当と、ヒエヒエだったのに中途半端にぬるまってしまっているストロング系チューハイをガラステーブルの上に出す。
「戴きます」
 きちんと手を合わせ、弁当をガツガツと口に運び、合間にチューハイを飲む。米と肉が胃の腑に落ち、アルコールが五臓六腑に染み渡る。
 あっという間に弁当を平らげチューハイ缶を空けた柾木は、やっぱ、腹減ってるとダメだな、メシ食うって凄いんだな。満腹することの威力を改めて知る。米と肉と油による胃の腑の安心感が心を安らかにし、そして空きっ腹に入れたアルコールも回りが早い。肩やら背中やらがコチコチだったのも、ずいぶん軽くなった気がする。
「……よし、明日は明日の風が吹くだ、もう寝る、寝たる!」
 少なくとも、今すぐ命の危険も何もなさそうだ。少しだけ回ってきたアルコールの勢いを借りて、努めて気楽にそう考えた柾木は、そのままの勢いで何も考えずに寝てしまうことを決意した。

 そして。柾木は、件の夢の続きを見た。

 来るだろう、見るだろうと思ってはいたから、そのこと自体に柾木は驚きはなかった。一連の同じ夢がこれだけ続けばいい加減もう慣れっこだから、じゃあ、いっそよく観察してやれ。寝る前に飲んだ酒でも残っていたのか、そういうつもりで今夜は積極的に夢に立ち向かっていった。

 目の前、すぐそばであるような、三メートルほどは離れてるような、見た目と感覚が一致しない不思議な距離感で、その幼児はそこにいた。夕べ見たとおり、青葉五月としか思えない女性にいだかれて。
 幼児の手は、既にエータの指を握っている。だから、女性はすぐ側にいるはずなのに、やはり幼児を抱く女性の全身が見える。なんとも不思議な距離感。だが、柾木はふと気付く。確かに、幼児はエータの指を握っている、そう見えている。だが、指を握られている感覚が、ない。
 これが何を意味するのか。柾木にはよくわからない。夢だから、自分が眠っているから感触がないだけか?それとも、エータと幼児は、現実世界でも物理的には接触していないことを示しているのか?経験も知識もない柾木には、夢の中のことは分からないことだらけだ。
 この夢は、エータの感覚――緒方いおりはセンサ情報と言っていた――を元に柾木の脳内で再構成されているもの、だそうだ。そのエータのセンサも、機能停止状態にあるはずの現状では末端の感覚器側はほとんど機能しておらず、制御中枢にあるセンサ情報の受信側に直接何かが作用している、それが恐らくこの夢の元になっている妖術か何かの正体、そういうようなことを、夕方に電話した時に緒方いおりが言っていたことを柾木は思い出す。だから、エータの情報処理を介した上で柾木の脳内で情報が再構成されるから、エータと柾木の両方のパターン認識機能、主観と言い換えてもいいらしいが、それに影響されるらしい。要するに、情報が必ずしも正確であるとは限らないという事か。
 その前提を置いた上で、柾木は夢の中で考える。黄色い髪の幼児、これはきっと、幼児自身が自分をそう認識しているからこちらにもそう伝わっているのだろう。何故なら、今現在ならともかく、最初の時点ではその幼児の外見を知る事はあり得ないからだ。だとすると、幼児を抱く女性のイメージも、幼児が送っているとみて間違いない。それならば、そのイメージに柾木の先入観が載る可能性は低い。そう考えると、その女性が青葉五月の姿形をしているのは、柾木の先入観ではなく幼児が送ってきたイメージそのもの、なのか?そう言えば、そもそもこんな、拳法家みたいな服着てる時点で、俺の側にそれをイメージする理由は無いもんな。そういえばさっきの爺さんも同じような服着てたけど、色も柄もまるで違う。俺の先入観ならそっちに引っ張られても良さそうなものだけど、そうなってないって事は、やはりそういう事なのか。
 改めて、柾木は夢の中でその女性、青葉五月にしか見えない、その額から控えめな角の生えた女の姿を観察する。
 五月さんなら、もしエータが目の前に居れば、気付かないわけがない。けど、今はこちらに反応している、気付いている様子はない。だとしたら、どう状況を理解する?エータは、五月さんの側にはないって事か?
 分からない事だらけで、柾木は混乱する。静かな、無音の空間で、ただ満面の笑みで幼児は五月に抱かれ、柾木の指を握り、軽く動かして遊んでいる。それは、柾木も親戚の子供で何度か見た、母に抱かれた乳幼児がするような表情であり、仕草だった。
 不快ではない。この空間にずっと居たい。そんな気持ちにすらなる、安らいだ空間。だが。
 埒があかない。
 柾木は、そうする事で考えられるデメリットと、そうする事で得るメリットを秤にかけ、決断する。
 ちょっとだけ、ごめんな。幼児に、そう心の中で詫びて、タイミングを見て幼児の指から振りほどいた右手を伸ばして、少し迷ってから五月の左の頬に、手の甲で触れる。

 びくりと体を震わせ、青葉五月は眠りから覚めた。
 月明かりすら差さない暗い空間の中を、五月は目をこらして見回す。同じ事務所の中、同じ椅子の上。茉茉モモは腕の中で寝ている……いや、今、起きたらしい。人形なのに、そう感じる。
 赤ん坊をあやすように、軽く茉茉をゆする。自分と同じように、この子はびっくりして起きてしまったようだ。いや、びっくりして起きた自分に釣られて起きてしまったのか。ぐずっているのはそのせいか。
 人形が、寝起きで、ぐずる。人に話せば笑われるような事だが、五月はその事を既に受け入れていた。
「よしよし……びっくりしちゃったね、ごめんね……」
 声をかけ、あやす。見た目はむしろ不気味で汚い人形なのだが、五月は、自分の心が、この人形を不憫に思い、かわいがり、護ってやらなければならないという強い思いに支配されている事を知っている。知った上で、それは自発的なそれでは恐らくないという事を理解した上で、その気になれば、自分ならそれを撥ね除ける事は多分不可能ではないと思いつつも、それでもなお、それに従う。まだ、それをするタイミングではないと思い、何がそうさせるのかをもっと知りたいとも思い、そして。
 女として、理屈でない部分で、この人形を捨てられないと感じつつ。

 そして、ゆっくりと、左肩越しに振り向く。左肘の窪みに頭を乗せる茉茉の視界に入る位置にあるそれ、五月の座る椅子から三メートルほど左後方の壁際に置かれたパイプ椅子に座っているのは、全ての筋肉が弛緩したように、くたりとだらしなく椅子にもたれかかるエータの姿だった。
「……」
 昨日の夕方、ここに持って来られて以降、エータは動いた形跡はない。
「動くわけ、ないわよね……」
 あり得ない事だと思いつつ、それでもなお、万に一つの可能性を捨てず、捨てないからこそ余計な詮索をされないように気をつけつつ、五月は視線を茉茉に戻した。
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