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第六章:金曜、それぞれの思惑、それぞれの決意

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「喰え」
 部屋に入るなり、昨日のチンピラに持たせた盆――深皿とマグカップが載っている――を指差して、例の大男が一言だけ、言った。
 北条柾木は、自分の体内時計がイマイチ当てにならないことをよく分かっているので、正確な時間は分からない。この部屋の窓は磨りガラスで、ご丁寧に鍵も隙間も接着剤か何かで固めてはめ殺しにしてあるのは夕べ確認済み、とは言え明かりは入るから、日が出てそこそこの時間が経っていることは間違いない。
 昨日のチンピラがめんどくさそうに盆をガラステーブルに置くのを横目で見ながら、ダメ元で柾木は大男に言う。
「電話をかけさせて貰えませんか?」

「んだとこのやろざけんな……」
 早速突っかかってこようとするチンピラを、大男は左手で制する。柾木は、下っ腹に力を入れつつそっちは意図的に無視して、
「今すぐ開放って事はなさそうだから、会社に欠勤の連絡を入れたいんです。無断欠勤すると評価下がるし、連絡しないと間違いなく会社から問い合わせが来るから、あなた方も困るんじゃないですか?」
 まっすぐに大男の顔を見て、言う。流石に目は合わせない、目線は鼻に置く。
 ほんの数秒、張りつめた沈黙が狭い部屋を支配する。ため息すらつかず、大男がきびすを返す。一瞬置いて行かれたチンピラが、何やら呟きながら懸命に肩をそびやかして部屋を出る。
 ドアに鍵のかかる音を聞いてから3秒後、柾木は大きくため息をついて薄汚れたソファベッドに深く座り込み、膝に両肘をつき、両手で頭を支える。
 電話、させてくれるといいんだけど。七割くらい本気で会社に連絡を入れたい柾木は、心中の焦りを堪えて顔を上げる。安物のガラステーブルの上に置いてあるのは、深皿に盛られた粥と、マグカップいっぱいの恐らくはほうじ茶。今、出来る事はこれ以上ない、ならば喰うのみ。そう自分に言い聞かせ、柾木は粥をすする。
 数口、粥をすすった後、薬膳みたいな粥を咀嚼しながら改めて柾木は部屋の中を見渡す。
 広さは四畳半ほどだろうか、小さな洗面台と備え付けの食器棚、棚の上にはなぜか場違いな、ちょっと古びたフランス人形。汚れたソファベッド、中身のないロッカー、安物のガラステーブル……柾木は、この半年ほどの就業経験から、ここがどこかの倉庫の仮眠室らしいとアタリを付ける。
 夕べは、目隠しされて連れてこられたからなぁ……エータの走り去った方角から、神奈川の南の方、という見当だけはついているが、ここがどこなのかは柾木はさっぱりわからない。ただ、壁や天井のシミ、たばこ臭くほこりっぽくて湿っぽい部屋の環境から、そこそこ古い倉庫っぽいところの一室ではなかろうか、とは思う。窓も、逃げ出さないためのはめ殺しではなく、雨漏り対策でコーキングで埋めてしまったのではなかろうか。どっちにしろ、窓の磨りガラスの向こうに防犯用の格子が見えているからここから逃げるのは色々と困難だろうし。
 そんな事を思いつつ、柾木が早々に粥を食べ終わり、茶を飲んでいると、突然ドアの鍵が開けられ、例の大男が入って来た。

 よく考えたら、仮眠室なら鍵は内側だよな、そこだけ付け替えたのか?などと柾木が思ったところに、大男が無言でスマホを差し出す。当然の如くに、それは柾木のスマホであったが、七三ななさんでダメだろうと思っていた柾木は
「あ……ども」
ちょっと驚いてそれを受け取る。
「……かけていいんですね?」
「余計な事は、話すな」
 一応念を押した柾木に、大男が答える。
 スマホの暗証を解除して電話の短絡番号画面を出すついでに、今の時間を確認する。午前七時三十分過ぎ、まだ誰も出社していないと思い、柾木は仕方なく職場の先輩の短絡番号を押す。
「……あ、おはようございます、朝早く済みません……はい、北条です、おはようございます」
 呼び出しベル五回で出た相手は、柾木のOJT担当であった下山である。
「下山さん、今大丈夫ですか?……あ、はい、すみません、実はちょっと、大変申し訳ありませんが、ちょっと腰やっちゃいまして……はい、そうなんです」
 駅まで歩いている途中だという下山に、柾木は咄嗟に考えた言い訳を伝える。風邪とかでも良いかと思ったが、それっぽい声を出す自信もなく、思いついたのがこれだった。
「それで今日ちょっと、急で申し訳ないんですが、休暇をいただきたくて……はい、もしかしたら明日もダメかもなんですが……はい、ありがとうございます、すみません」
 この状況をいつ打開出来るか、柾木には全く見通しがつけられない。なので、少なくとも今日明日は会社には行けないとしておいた方が良いだろう。自分でもびっくりするくらい事務的に考えながら、柾木は下山に休暇をお願いする。
「それで、今日明日戴いている入庫予定はホワイトボードに書いてありますんで、はい、すみません。メカニックさんにもよろしく伝えていただけますか?はい、すみません」
 当然だが、急な病欠は業務に影響するので、引き継ぎはしておかなければならない。幸い、新入社員である北条柾木には、まだ難しい対応は任されていない。ほとんどが定期点検と車検の客対応だけである。
「それと、もう一件、例のグロリアなんですが、今日御用聞きに行く予定で連絡済みだったんですが、日を改めさせて下さいって連絡していただけませんか?……はい、そうです、そのお客さんです。すみません、よろしくお願いします」
 電話しながらついお辞儀してしまうのは、日本人の癖なのだろうか。自分でもコメツキバッタかと思うほどペコペコと頭をさげつつ先輩社員に色々お願いし、これでもかというくらいにお礼を言って電話を切る。
「……余計な事は言いませんでしたよ」
 柾木は、スマホを顔の横で振りながら、大男に言う。
「確かにな、余計な事は言っていなかったようだの」
 ぎくりとして、柾木は大男の後ろ、ドアの影からするりと姿を現した、痩せた小柄の老人を見た。
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