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第五章:焦りだけがつのる木曜日

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 一般に、自動車ディーラーの就業時間は通常のオフィスワーカーに対し1~2時間程度ズレている。北条柾木の勤める日販自動車中野営業所に置いてもそれは同じで、九時始業、昼休憩一時間、十八時終業の八時間労働が原則である。
 実際には北条柾木は八時には出勤して営業所の清掃を行い、十八時を過ぎてもたいがいは書類整理の残業が入る。今日も例外ではなく、北条柾木が会社を後にしたのは十九時三十分の事だった。

「緒方さんですか?北条です。何か進展ありましたでしょうか?」
 環七通りを西武新宿線野方駅方向へ歩きながら、柾木は緒方いおりに電話をしていた。
「はい、横浜までは追っかけられるんですが、そこから先がどうも市街地やら裏通りやらに入ったらしくて、よくわからないんです」
 電話の向こうのいおりの声が曇る。
「そうですか……でも、とにかく横浜方向、って事ですよね?」
「横浜より先、って事だと思います。それが湘南方向なのか三浦半島なのかが……発振器でも付けとけばよかったな、戻ってきたら付けましょう」
 戻って来る事前提だよこの人。柾木は、いおりの楽天的さ加減に若干あきれる。
「それよりも北条さん、北条さんの見た夢の件ですが」
「え、あ、はい、なんでしょう」
 隙をつかれ、柾木は少しどきりとして聞き直す。
「前も言ったと思いますが、あれはエータのセンサが拾った情報をベースに北条さんが夢としてみているもので多分間違いありません。なので、その幼児と女性とやら、これは多分、今現在エータのすぐ側にいると思われます」
 やはりか。柾木は、その幼児の笑顔と、幼児を抱く女性、五月に思えるその優しい笑顔を思い出す。
「やっぱり……じゃあ、エータを盗んだというか誘導したというか、その人達が?」
「そう見て良いと思います。つまり、その人達は、エータのプロテクトをすり抜けて行動させるだけの技術を持っているって事です」
「それはつまり、相当凄い魔法使いだかなんだかだって事ですか?」
「狭義の魔法ではないですが、意味としてはそうです。ラムダに残ってた痕跡からすると、ボクら錬金術系等ではなくて、東洋系の呪術ですけど」
「痕跡?何か残ってたんですか?」
「ラムダの手足と顔に塗られてた粘土みたいなもの、あれが煙幕の正体だったんです。ラムダ自体の変形機能を使わないで粘土塗って顔作ったんだと思ってたんですが、そこに色々仕込んでたわけです。その粘土に、お符籙ふだが練り込んでありました」
「よく見つかりましたね」
「手足の粘土がそのまま残ってましたから。多分、本来は同時に爆発するはずだったんでしょうけど、手足切断されてて起爆信号が通らなかったんでしょう」
「なるほど……」
 柾木は、頭の中で整理しようと試みる。ラムダサードは、酒井刑事達の話によればどこぞのヤクザの幹部として動いていたという。具体的にヤクザの幹部が何をどうするのかは知らないが、中身がオートマータである事を全く疑われていなかったのだろうというのは想像出来る。自分が入っている時のエータならともかく、自律状態であってもラムダやイプシロンは人としては若干動きがぎこちないし、そもそも、話しかけられれば最低限の返事はするけれど、自発的にしゃべる事はまず無い。それでは下っ端ならともかく幹部は務まらないだろうし、そもそも自律状態ではなかった、外部から強制的に操られていたって事だから、だとしたらその「操っていた」ヤツは相当に力のある魔法使い、あるいは妖術使いだと考えていいだろう。いや、緒方さんがああ言うのだから、魔法使いではないのか。妖術使い。そういえば五月さんもお札を使うよな、じゃあ……
 自分が見た夢の中の映像にもっともらしい説明がついてしまった気がして、柾木は心臓の裏あたりが重く、冷えたように感じる。
 その柾木の沈黙を不可思議に思ったのだろう、いおりが、
「……北条さん?」
 スマホ越しに声をかけられ、我に返った柾木は慌てて返事をする。
「あ、すみません、ちょっと考え込んじゃって」
「何か気付かれました?」
「いやそうじゃないんですが。分からない事だらけで」
 ははは、と柾木は乾いた笑いで誤魔化す。五月の件は、玲子さん以外にはまだ言わない方がいい、そんな気がしたのだ。
「そうなんですよね、オートマータを盗み出すにしては手が込みすぎててわけわからないんです」
 いおりは、柾木が心配しているのとは別な事で悩んでいるらしい。
「わけわからないついでですが、北条さん、夢の話でもう一点、視線を感じたって言ってましたよね」
「はい、誰に見られてるのかは分からなかったんですが」
 正直、夢の中でそれに気付いた時、ぞっとしたのは覚えている。柾木は、その瞬間の事を思い出す。これは夢だ、そう意識出来ていたから大丈夫だったが、そうでなければ大声上げて飛び起きていたかも知れない。
「それ、多分、監視者がいるって事でしょう。それも複数。相手は一人じゃないって事だと思います」
「マジっすか……」
「マジです。なので、次に同じ夢見ても、できる限りこっちからは動いたり声出したりしない方が良いと思います」
「……わかりました、気をつけます」
 話しながらとっくに駅についてしまっていた柾木は、別れの挨拶をして電話を切る。
 さてどうしよう。このパターンだと、今夜も同じ夢見るのは多分間違いない。声出したりするなってのは、柾木とエータが繋がってる事を向こうに気付かれるなって事だろう。そこんところは分かるしそのつもりだけど、万一くすぐられたりしたら自信ないなぁ。
 スマホの交通系ICカード機能で改札を通りつつ、柾木は考え、そして思い出す。
 玲子さんにも電話しないと。とはいえ、駅や電車内で電話するわけには行かない。
 家帰ってから、落ちついてゆっくり電話しよう。そう思って、柾木はとにかく帰宅を優先する事にした。
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