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第五章:焦りだけがつのる木曜日
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「……くそっ……」
自分の部屋の鍵をかけながら、酒井は小さくつぶやく。
五月の部屋は、昨夜自分が閉めてから空いた様子がない。つまり、やはり五月は帰宅していない。
歯軋りしたくなるような焦燥感を無理矢理押し殺し、酒井は出庁のため、東京メトロ東西線西葛西駅に向けて歩き出した。
「おはようございます……何かあったんですか?」
いつも通り、始業より十五分ほど早く分調班の事務所に現れた酒井に、さらに早く出庁していた蒲田が挨拶し、酒井の様子に気付いて声をかけた。
「……五月さんが、二晩帰宅してない。夕べはバイト先にも来てなかったそうだ」
「え……」
酒井が青葉五月を名前呼びした事にツッコミもせず、蒲田も顔色を変える。
「捜索願とかは?」
「五月さんは身寄りがないからな……一応、バイト先のママさんは今日交番に行くと言っていたが」
「そうですか……心配ですね」
「ああ……だが、捜索願が出てなければ警察としては動けないし、出たとしても、所轄から持ち込まれない限り俺たちが動く案件ではない。ここのルールはそうだろう?」
「ですが……」
蒲田は続く言葉を飲み込む。
「それより仕事だ……それに、俺の勘が確かなら、多分、この仕事を片付ければ、同じ所にたどり着く」
「え?」
話が読めないという顔で酒井を見る蒲田に、酒井は言った。
「……説明する。だから、手を貸してくれ」
「夕べのこれさぁ、北条君に似てない?」
開店前の日販プリンス東京中野店で、フロントのつけっぱなしの客向けテレビに映し出されているニュース映像を見て、開店準備作業中の下山は床にモップをかけている柾木に言った。
「え?何の事、で、え……え?」
スマホで撮られたと思われるその動画は、激しい手ブレと光量不足で不鮮明極まりないが、写っているのは確かにグレーのスウェットを着た若い男、その男は、どこかの片側二車線の車道を、歩道にいる撮影者の前を右から左にものすごい速度で走り抜けていく。何度もリピートされ、スロー再生されるその映像の、一瞬だが比較的くっきり見えるその横顔は、確かに柾木に似ていると言えば似ているように思える。
「そ、そうですかぁ?」
その映像に心当りがありまくる柾木は、内心と背中に滝のような冷や汗をかきながら下山に答える。
あれは、間違いない、エータだ……どこ走ってやがる、何時頃だ?モップをかける手を止めて、そのニュースの終りまで柾木は画面を凝視してしまう。そして、北関東出身で京浜区間の土地勘がない柾木にわかったのは、場所が川崎付近、時間が午後五時半頃、という画面のテロップに表示されていたことだけだった。
「え、これ、何ですか?」
内心の動揺をすっとぼけて、柾木は職場の先輩である下山に聞く。
「あれ、知らなかった?なんか昨日の夕方、東京から横須賀の方にものすごい勢いで車道走っていく奴がいたって」
昨日は、例によって井ノ頭邸から西条家のセンチュリーで自分のワンルームマンションまで送ってもらっている。その途中で夕飯も立ち寄っているため、帰宅はそれなりに遅い時間であり、色々あって疲労したこともあり、シャワーだけ浴びて早々に寝てしまった。今朝も起きたのがギリギリであったため――宣言通りの玲子のモーニングコールがなければ遅刻していたかも知れない――ニュースに触れる間もなく部屋を飛び出している。そういえば、あの様子だと、少なくともモーニングコールの時点では玲子もこのニュースは知らなかったと思われる。
「いやあ、昨日はちょっと色々あってニュース全然見てなかったですから。なんか、またユーチューバーかなにかですかね?」
「さてなぁ、とりあえずマラソン選手並かそれ以上のスピードだって事だけど……まあ、事故おこしたわけじゃないみたいだし、だからどうしたって話と言えばそうだけどな」
そう言って、下山は開店準備作業に戻る。
昼休みに、緒方さんに電話してみるか。それと、玲子さんにも後でメールしてみよう。
柾木もそれだけ心の中で決めて、モップがけを再開した。
「……」
霞ヶ関の中央合同庁舎二号館、その警察庁刑事局捜査支援分析管理官、岩崎警視長の執務室で、酒井警部と蒲田巡査長は目玉をピンポン球のようにしてモニタ画面を見ていた。
開いた口は、塞がっていない。
「……という事で、つまりこの件と君たちの報告は整合するわけだ」
最近口の中に常駐しているらしい苦虫を噛みつぶしたような顔で、岩崎が声を絞り出す。
「報告を見る限り、この件に関しては予測は困難で不可抗力だろう。君たちに責任を求める事は、少なくとも現時点の私の判断では、無い」
ため息をついて、岩崎は執務机に肘をつき、手の指を組んだ。
「だが、放置して置いていい案件でもなかろう。酒井警部と蒲田巡査長には、警視庁及び神奈川県警の当該部署と連絡を取ってこの件の情報収集を行い、所轄から依頼があった場合に速やかに対応出来るよう準備をしておいて欲しい」
酒井と蒲田は、かろうじて、室内の敬礼をした。
自分の部屋の鍵をかけながら、酒井は小さくつぶやく。
五月の部屋は、昨夜自分が閉めてから空いた様子がない。つまり、やはり五月は帰宅していない。
歯軋りしたくなるような焦燥感を無理矢理押し殺し、酒井は出庁のため、東京メトロ東西線西葛西駅に向けて歩き出した。
「おはようございます……何かあったんですか?」
いつも通り、始業より十五分ほど早く分調班の事務所に現れた酒井に、さらに早く出庁していた蒲田が挨拶し、酒井の様子に気付いて声をかけた。
「……五月さんが、二晩帰宅してない。夕べはバイト先にも来てなかったそうだ」
「え……」
酒井が青葉五月を名前呼びした事にツッコミもせず、蒲田も顔色を変える。
「捜索願とかは?」
「五月さんは身寄りがないからな……一応、バイト先のママさんは今日交番に行くと言っていたが」
「そうですか……心配ですね」
「ああ……だが、捜索願が出てなければ警察としては動けないし、出たとしても、所轄から持ち込まれない限り俺たちが動く案件ではない。ここのルールはそうだろう?」
「ですが……」
蒲田は続く言葉を飲み込む。
「それより仕事だ……それに、俺の勘が確かなら、多分、この仕事を片付ければ、同じ所にたどり着く」
「え?」
話が読めないという顔で酒井を見る蒲田に、酒井は言った。
「……説明する。だから、手を貸してくれ」
「夕べのこれさぁ、北条君に似てない?」
開店前の日販プリンス東京中野店で、フロントのつけっぱなしの客向けテレビに映し出されているニュース映像を見て、開店準備作業中の下山は床にモップをかけている柾木に言った。
「え?何の事、で、え……え?」
スマホで撮られたと思われるその動画は、激しい手ブレと光量不足で不鮮明極まりないが、写っているのは確かにグレーのスウェットを着た若い男、その男は、どこかの片側二車線の車道を、歩道にいる撮影者の前を右から左にものすごい速度で走り抜けていく。何度もリピートされ、スロー再生されるその映像の、一瞬だが比較的くっきり見えるその横顔は、確かに柾木に似ていると言えば似ているように思える。
「そ、そうですかぁ?」
その映像に心当りがありまくる柾木は、内心と背中に滝のような冷や汗をかきながら下山に答える。
あれは、間違いない、エータだ……どこ走ってやがる、何時頃だ?モップをかける手を止めて、そのニュースの終りまで柾木は画面を凝視してしまう。そして、北関東出身で京浜区間の土地勘がない柾木にわかったのは、場所が川崎付近、時間が午後五時半頃、という画面のテロップに表示されていたことだけだった。
「え、これ、何ですか?」
内心の動揺をすっとぼけて、柾木は職場の先輩である下山に聞く。
「あれ、知らなかった?なんか昨日の夕方、東京から横須賀の方にものすごい勢いで車道走っていく奴がいたって」
昨日は、例によって井ノ頭邸から西条家のセンチュリーで自分のワンルームマンションまで送ってもらっている。その途中で夕飯も立ち寄っているため、帰宅はそれなりに遅い時間であり、色々あって疲労したこともあり、シャワーだけ浴びて早々に寝てしまった。今朝も起きたのがギリギリであったため――宣言通りの玲子のモーニングコールがなければ遅刻していたかも知れない――ニュースに触れる間もなく部屋を飛び出している。そういえば、あの様子だと、少なくともモーニングコールの時点では玲子もこのニュースは知らなかったと思われる。
「いやあ、昨日はちょっと色々あってニュース全然見てなかったですから。なんか、またユーチューバーかなにかですかね?」
「さてなぁ、とりあえずマラソン選手並かそれ以上のスピードだって事だけど……まあ、事故おこしたわけじゃないみたいだし、だからどうしたって話と言えばそうだけどな」
そう言って、下山は開店準備作業に戻る。
昼休みに、緒方さんに電話してみるか。それと、玲子さんにも後でメールしてみよう。
柾木もそれだけ心の中で決めて、モップがけを再開した。
「……」
霞ヶ関の中央合同庁舎二号館、その警察庁刑事局捜査支援分析管理官、岩崎警視長の執務室で、酒井警部と蒲田巡査長は目玉をピンポン球のようにしてモニタ画面を見ていた。
開いた口は、塞がっていない。
「……という事で、つまりこの件と君たちの報告は整合するわけだ」
最近口の中に常駐しているらしい苦虫を噛みつぶしたような顔で、岩崎が声を絞り出す。
「報告を見る限り、この件に関しては予測は困難で不可抗力だろう。君たちに責任を求める事は、少なくとも現時点の私の判断では、無い」
ため息をついて、岩崎は執務机に肘をつき、手の指を組んだ。
「だが、放置して置いていい案件でもなかろう。酒井警部と蒲田巡査長には、警視庁及び神奈川県警の当該部署と連絡を取ってこの件の情報収集を行い、所轄から依頼があった場合に速やかに対応出来るよう準備をしておいて欲しい」
酒井と蒲田は、かろうじて、室内の敬礼をした。
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