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第四章:深淵より来たる水曜日

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 意識を取り戻した青葉五月が最初に見たのは、薄暗く、あまり使われていなさそうな事務所とおぼしき部屋の内装と、その壁と言わず棚と言わずぎっしりと積み上げられた、事務所には似つかわしくない人形の数々だった。
「……え?」
 混乱する記憶を整理しようと脳内で悪戦苦闘しつつ、もっと多くの情報を得ようと辺りを見回し、ついで、立ち上がろうとする……立てない。
「え、か、体が、動かない……?」
 パニックを起こしそうになる自分の心をどうにか抑え込み、目を閉じて深呼吸をし、ゆっくりと目を開けて、自分の体を見下ろしてみる。
 見える範囲の体には異常は見当たらない、とりあえず、怪我や束縛で動けない訳ではないようだ。着ている服も、スナック「轆轤ろくろ」を退出した時に着ていた、チェックの厚手のロングスカートにタートルネックのニット。そこまでは同じだった。
 ぎくりとして、五月の視線が停まる。
 五月は、自分の手が、見たこともない人形を抱いているのを見た。「轆轤」を出た時には着ていたはずのグレーのウールのコートではなく、見たこともない薄汚れた、ボロボロの色あせた原型も分からない外套だったものを羽織っているのを見た。
 五月は、夕べの記憶を正確に再構成し、自分はあの老人、恐らくは道教系の道士に力負けし、何らかの術で縛られているのだと、理解した。

「目が醒めていたか。結構結構」
 薄っぺらいドアを開けて、その老人が五月の居る事務室に入ってきたのは、五月が何とか立ち上がろうと何度も試し、疲労困憊して椅子にへたり込んでいた時だった。
「腹が減っているだろう、粥を持ってきた、喰うがいい」
 老人は顎で指図する。後ろに控えていた、喪服のような黒いスーツを着た大柄の男が、粥の入った鍋と茶碗その他の載った盆を五月に差し出す。
 思わず五月はそちらを見る。確かに空腹を感じているが、受け取りたくても手が上がらない。
「……おお、そうか。茉茉モモにそんなにも気に入られたのか」
「……モモ?」
「お前の抱えている、その人形の名だ」
 やっとの思いで、絞り出すように聞き返した五月に、老人が答える。
「茉茉に頼むがいい。お母さんはご飯が食べたいから、ちょっと手を離させてくれ、とな」
「……どういう、意味?」
「悪いことは言わん、お前なら念を通す事も易かろう」
 念を通す。その一言で老人の言いたいことを察した五月は、腕の中の人形に向かって心で語りかける。ごめんね、お母さん、ご飯食べたいの。手を離しても、いい?
 即座に反応が返ってきたことに、五月は驚く。言葉ではなく、剥き出しの感情。離して欲しくない。五月は再度、念を通す。ごめんね、じゃあ、離さないから、ご飯食べて、歩いてもいい?
 ややあって、また反応が来る。離さないで、そう請い願う感情。だが、同時に、両手が上がるようになる、両足に力が戻る。声が、普通に出るようになる。
「……思った通りだな、お前は相当筋がいい」
 老人が感心したように独りごちる。黒衣の男は事務室の片隅の事務机に粥の盆を置き、窓のブラインドを開く。
 突然の眩しさに目をしばたかせながら、五月は落とさないように気をつけて左の肘の内側で人形を保持し直し、改めてその人形をよく見る。
「この子は……生き人形ね?一体何を……」
「いよいよ素晴らしい」
 五月の言葉を遮り、嬉しそうに老人が言う。
「ご名答だ、その通り、茉茉は生き人形だ。だが、わしは見つけただけで、酷いことは何もしておらん。勘違いはせんようにな……まあ、とにかく粥を喰え。その間に、少し話をしてやろう。色々聞きたかろうからな」
 五月は、この場は素直に言うことを聞くべきだと判断する。その判断が出来る程度には、場数を踏んでいた。

「夕べは手荒なまねをさせてもらったが、どうしてもお前に来てもらいたくてな。その理由はまあ、多少は見当も付いているのではないか?」
「私を、この人形のお守り役にしたい?」
「半分くらいはその通りだ、どうだ、それなりの報酬は払う、引き受けんか?」
 五月は答えず、ただ粥をすする。おかしな匂いも味もしないから、五月に気付ける範囲で何か仕込まれている様子はないが、それでも相手がその気なら、五月が気付けないような何かを仕込むことくらい簡単だろう。それを理解した上で、五月はそれでも粥をすする。今は、体力を維持し、体調を整える方が重要だ。
「……まあいい。その人形、茉茉は、いつ、何者が作ったのか、はっきりしたことは儂もよくは知らん。使いこなすのが非常に難しい呪物として、古物商から手に入れただけだからな」
 呪物。どうせ、ろくな事には使えそうにない代物にしか思えないけど。口には出さず、五月は心の中だけで毒づく。
「茉茉には母親がおってな、莉莉リリというのだが、ほれ、お前が羽織っているそのボロきれ、それは莉莉が着ていた外套だ」
 五月はその外套のなれの果てを見る。着物に似たそれは、今にも崩壊しそうなほど粗末で痛みきった生地だが、いわゆる道士が着る服のようにも見える。
「いきさつはよく分からん、儂も古物商から聞いただけだからな。莉莉は清朝の頃の人物で、呪術をよく操る道士であったというが、それがその茉茉を触媒に使うものだったと言うな。しまいには気が触れて狂い死にしたとも聞くが、残された茉茉は持ち主に不幸をもたらす呪物として伝わっておったようでな、儂も手には入れたものの使いこなせはせなんだ」
 どこまで本当か分からない。五月は眉に唾をつけて話を聞いている。
「だが、どうやら茉茉はお前を気に入っているようだ。どうだ、もう一度聞くが、取り引きに応じる気はないか?」
 粥を食べきり、口を拭いた五月が答える。
「応じれば、金をもらってそっちの言いなり。応じなければ、金も貰えず、かといって自由になれるわけでもない。そういう事ね」
「そうだ、やはり儂の目に狂いはなかった、お前はかしこい娘のようだ……そういえば、名前は何と言ったかな?この歳になると物覚えが悪くてな」
「……五月」
 カマかけかも知れない、最初に仕事を依頼された時、確かに名乗っているから。だが、偽名とは言え、名字を教える必要はない。ましてや、本名をたやすく他の術者に教えるなど愚の骨頂。五月はそう考え、そしてふと、以前、酒井達に問われてあっさり本名を名乗った事を思い出す。確かにあの時、あっちには私の免許証があったし、相手は警察官だった。だがあの時、本名を名乗ることにためらいはあったが後悔はなかった。きっと……五月は思う。信用して欲しかったから、酒井源三郎という朴訥な警官に。
「そうかそうか、五月か。そうだったそうだった。儂も名乗っておらなんだな、名無しでは呼びづらかろう、張果ちょうかとでも呼ぶがよかろうよ。あの大男は葉法善ようほうぜんかの」
「罰当たりな名前を……」
 口元を歪めて五月が言う。
「ほほう……さて、答えを聞こうかの」
 老人――張果は、その名前のネタ元を五月が知っている様子である事に満足した様子で、五月に再度質問する。
 ため息を一つついて、五月は答える。
「どっちを選んでも、私の境遇は変わらないのよね……だったら、お金もらった方が頭いいわよね」
「そうだ、やはりお前は物わかりのいい……」
「だけど、お断りよ」
 五月は、晴れ晴れとした顔で、きっぱりと言い切った。
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