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第四章:深淵より来たる水曜日

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 ここは夢の中である事を、北条柾木は知っている。
 知っていてなお、目覚める事なく、闇に目をこらす。
 こらした先に見えるのは、昨日までと同じ、黄色い髪の、満面の笑みでこちらに手を伸ばす幼児。ぷっくらとした、モミジのようなその手指で、その幼児は柾木の指を握る。手を握るほどの大きさのない、大人の指を握るのが精一杯の、小さな手。
 その手のぬくもりに、柾木は昨日までと違うものを感じる。昨日までの必死さのない、欲しかった物を一つ手に入れたかのような、余裕のような暖かさ。
 それが何を意味するのかは分からない。だが、柾木は、良かったな、と思う。幼児の笑顔を見て、不快になる者は居ないだろう、幼児が笑顔になれるなら、それが悪い事である事はないだろう、そう思う。
 柾木の認識がぼやけ始める。目覚めようとしているのだろうか、柾木はぼんやりと思う。その、ぼやけ始めた認識の中で、水兵服を着た黄色い髪の幼児を優しく抱く女性の腕を、柾木は見たような気がした。

「柾木様、失礼します、お目覚めですか?」
 明確なノックの後、袴田が開けたドアを通って客用寝室に入ってきた西条玲子が北条柾木に声をかけた。
 水曜、午前七時。北条柾木、仕事のローテーション上は休日。
 夢見が悪いのを相談する為に柾木が井ノ頭邸に泊まり込んだ事を井ノ頭菊子経由で聞きつけた玲子は、朝早くからガッツリめかし込んで井ノ頭邸に乗り込むと、柾木を起こすべく井ノ頭邸の二階の客用寝室に当然の事のように突進して行った。
「柾木様?朝食をご用意致しました、召し上がって下さいまし?」
 遮光カーテンの引かれた薄暗い部屋を横切り、玲子はベッドの向こう側の格子窓にかかる厚手のカーテンを開ける。
「ん……」
 突然差し込む朝の日差しに眩しさを覚え、柾木が寝ぼけた声を出した。もぞもぞと起き上がる気配を背中に感じながら、玲子は柾木に語りかける。
「簡単なものですが、朝食はわたくしがお作り致しましたの。柾木様のお口に合いますとよろしいのですが……!」
 慈愛に満ちた笑顔で柾木に振り向いた玲子が、空気を吸い込む音と共にひきっと固まった。
「……あ、玲子さん、おはようございます……」
 まだ半分寝ぼけているのか、状況を正確に理解出来ていない柾木を見て、ドアを押さえたままの袴田はつぶやいた。
「……ヘルレイザー……」

 時田の煎れた、ミントとセントジョーンズワートをブレンドしたハーブティの二杯目を玲子が飲み終わった頃、シャワーで汗と電極ペーストを洗い落とした柾木が食堂に現れた。
「いや、さっぱりしました……大丈夫ですか玲子さん?」
「え、ええ、もう落ちつきました、お見苦しい所をお見せして申し訳ありません……」
 元々白い顔色をさらに若干青白くした玲子が、気丈にも柾木に微笑む。
「言っとけば良かったかなぁ……驚かしちゃったみたいですみません、西条さん」
 手に持った、512chのホールヘッド型センサーネット電極脳波計をびよんびよんさせながら、緒方いおりが軽く言う。
 脳波計測用電極は、古くはペーストで電極を直接頭皮に貼り付けるものであったが、複数の電極のついた水泳帽のようなキャップ型電極の登場により一気に計測はやり易くなり、大脳皮質に対する二次元的な解析も進むようになった。反面、そのサイバーな外見と、某宗教団体が「尊師の脳波を受信する」などと言って用途外使用をしたものだから一気に一般の印象が悪化し、屋外での脳波計測をしようとしたまっとうな研究員が非常に迷惑する事態となった(実話)。今、緒方が手にしているのは、そこからさらに進化し、計測電極が比べものにならないほど増えた「高密度電極脳波計」と呼ばれる類いのものを、さらに緒方が魔改造し、fNIRSと呼ばれる、赤外線を用いた大脳皮質の血流量計測装置と合体させた上にマナの計測も行える錬金術由来の端子を埋め込みまくり、脳表面だけでなく脳溝の奥のシナプスの発火も捕えられるよう顔面にもまんべんなく計測点があるという代物である。為に、弾力のあるエラストマー材で計測点を結合したこのセンサーネットを被ると、まさに首から上が肌色のパイナップルのように見えるという、一種異様な風体となる事は否めない。
 そんな状態の寝起きの北条柾木を、予備知識無しにいきなり見てしまった西条玲子は、生まれつきのままの心臓であったなら間違いなく心停止していたのではないかというほど驚愕し、今やっとハーブティのおかげで落ち着きを取り戻したところだった。
「いいえ、大したことはございませんので。それよりも柾木様、どうぞお召し上がり下さいまし、今お茶もご用意致しますわ」
 言って、玲子は立ち上がる。勝手知ったる他人の台所、足繁く通っている井ノ頭邸の台所は既に隅々まで把握している玲子は、ニコニコして見ているだけの菊子に、拝借致します、と声をかけると手際よくケトルを火にかけ、茶葉をポットに入れる。
 その間に席に着いた柾木は、目の前の、柾木がシャワーを浴びている間に玲子が作り直した力作であるところのトーストにベーコンエッグ、サラダの朝食セットに目を見張る。
「うわぁ……」
 トーストは四枚切りの厚切り、程よくカリカリに焼き上がったベーコンにオレンジ色に輝く黄身の卵焼き、サラダボウルに溢れんばかりの新鮮な生野菜。簡単と言えば簡単な朝食だが、社会人一年生の独身男性には質実共に眩しすぎる朝食とも言え、思わず驚嘆の声が漏れた。
「玲子さん、すっかりお料理が手際よくなって。めざましい進歩ですね」
 一部始終を見ていた菊子が、ころころと微笑みながら言う。
「ありがとうございます。でも、まだまだですわ。私もいずれ西条精機を背負ってお婿様を戴く身ですから、その時までに旦那様になる方を失望させないだけの腕前になっておきませんとなりませんもの」
 温めておいたポットに沸騰したケトルの湯を注ぎながら答えた玲子が、ちらりとベールの下から視線を柾木に投げる。ベールに隠れてその目は誰にも見えないが、その場に居る全員が、その視線が柾木を射貫いている事を知っている。
 考えろ、考えるんだ北条柾木。この場は即座に何か返さないといけないシチュエーションだ、だが、うかつな言葉は死を招くキルゾーンでもある、丁寧語で考えるんだ!柾木は、起き抜けの頭を必死に回転させる。
「はは、玲子さんなら大丈夫ですよ、こんなに美味しそうだもの。それじゃあ、有り難く、いただきます」
 切り抜けたか?切り抜けられたのか?柾木はあくまで自然を装ってそう答えた体のまま、バターの染みこんだ厚切りトーストをかじる。
「……旨い」
 玲子が自宅から持ち込んだのだろう、パンもバターも柾木が食べ慣れている安売り量産品と段違いである事はもちろんだが、何よりも焼き加減が、しっとり目を好む柾木の味覚にちょうどいい。ベーコンの焼き加減も、卵の塩加減も、実に丁度いい。
「お気に召していただけまして?」
 味に気を取られていた柾木の横に、いつの間にか玲子が立ち、ティーカップを置いた。
「本当に美味しいです。ありがとう、玲子さん」
 考えるより先に柾木の口を突いて出た言葉は、玲子の白い顔の頬をうっすらと紅く染めた。
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