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第三章:予兆と岐路の火曜日

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「じゃあ、天使を呼び出して、精霊を使役します」
「……へ?」
 振り向きざまに言い切った鰍の一言に、一つも意味を取れなかった酒井と蒲田が同時に間の抜けた返事を返した。
 オーバーサイズの、男物のベージュのダッフルコートの下はクリームホワイトのセーターに赤地に黒のチェックのミニスカート、黒のタイツ、スエード黒のルーズなショートブーツ、振り向いた勢いでスカートとコートの裾がふわりと開く。一回折り上げた袖から出した両手を少しひねった腰に当て、鰍は言葉を続ける。
「説明が難しいんだけど、人間は跳んだりはねたり、剣で切ったり棒で殴ったりは別に誰でも出来ますよね?でも、この手の術ってのは、誰でも出来るってもんじゃないですよね。それは、本来、人間にはその能力はないから。妖怪とか魔物とか呼ばれる物の中には、生来の能力としてそういうの持ってるのは居ます、わかりやすいところで狐とか狸とか」
「ああ……」
 一度言葉を切った鰍に、酒井が頷く。
「そういう、平たく言えば妖術とかを人間がマネしようとした場合、元々は持ってない能力だから、どっかから力を持ってこないといけなくて。そこで、呪文とか術式を工夫して、身の回りの精霊、あ、精霊ってのはアタシ達カバラの言い方ですけど、妖精とか妖怪とか霊とか、そういうものの力を借りようとする、それを魔法とか魔術とか呼ぶんだって言われてます」
 鰍は、さっき魔法陣を描くのに使ったチョークを摘まみ、
「その術式を上手く駆動するのが術者の力量だけど、道具も工夫してて。例えばこのチョークは貝殻に護符を燃やした聖灰を混ぜたものを聖水で練って作ってて、これだと念が載せ易くて、メンタルの消耗が抑えられるんです」
「ああ、だからか。鰍さん、以前はそんなものなしで魔法使ってましたよね、はい」
 我が意を得たりと鰍は頷く。
「前も言った気がしますけど、要はどれだけ正確にイメージ出来るかなんです。必要なのは法円タリスマンだけじゃなくて、空中に描く五芒星とかもあるから。ただ、実際にそこに描いてあればイメージするのも楽だって事です。密教や道教の護符は、墨に細工があって、念を増幅したりもしてるらしいけど。と言ったところで、じゃあ、まずはこの敷地に人払いの結界を張ります」
 言いながら、鰍はボストンバッグから出したガラスの小瓶の蓋を開け、ダガーナイフをひたしてからそのナイフを振る動作を四度繰り返す。自分から見て、倉庫の四方、東西南北に向かって。
「人払い?」
 酒井の問に、鰍は振り向かず、意識を集中させているのだろう、法円に向いたまま答える。
「前にばーちゃんがやったのと似たようなヤツです……」
 アテー・マルクト……鰍が呪文を唱え始める。酒井には、何かが変わっていくようには感じられない。ただ、大声ではない、よく通る声、小さな体のどこから出るのかというその声が倉庫中に隅々まで響く、そんな感じは受けていた。鰍の正面には、5メートル程離たブルーシートの上に、もっともヤバそうと酒井や蒲田が感じた人形が積み上げられている。明らかに問題なさそうな、ゲームセンターのプライズものを中心とした一山は鰍から見て十時方向に、今ひとつ判別のつかない、キャラクター人形やフィギュアの類いは二時方向に、等身大の人形は四時方向に、それぞれ等距離に離して置いてある。それらにも、取り立てて変化は見られない。

 一通りの呪文を唱え終えて、鰍は、やや上気した顔を、二歩程後ろに居る酒井と蒲田に向ける。
「……これで、この敷地は、外から見えていても認識されず、興味も持たれない、そんな感じになってるはずです。ま、極端に目の良い奴だとか、アタシより強い術者とか、そういうヤツには見抜かれますけど。あと、北条さんでしたっけ、ああいう人は全く気付かないで入って来ちゃうかも……酒井さん、蒲田さん、ちょっとこっちへ」
 鰍が酒井と蒲田を呼ぶ。何事かと近づいた二人に、鰍は、
「ちょっと目をつぶって下さい……汝、大天使たるラファエルよ、今一度我の願いに応えてその力を示し、神の御名の元に、見えざる者の目を一時いっとき開かせたまえ……」
 酒井は、閉じた瞼の上に濡れた指が触れるのを感じる。
「……父と子と精霊の御名の元に、アーメン……はい、目を開けて下さい」
 ゆっくりと、酒井は目を開ける。最初に見えたのは、先ほどナイフをけた小瓶を左手に持ち、そこに浸けたのか、濡れた右の人差し指を立てた鰍の姿。その後ろの光景は、目をつぶる前と何も変わらない……いや、違う。床に描かれた魔法陣が、柔らかな光を帯びている。
「見えてますか?一時的ですが、光を感じられるように、聖水を媒体に天使の力を借りました」
 酒井は、辺りを見回す。すぐに、人形の山、とくに真正面のそれから「黒い光」が、強くこそないが何条も漏れ出ていることに気付く。他の山からも、わずかだが黒かったり、別な色だったりの光が滲み出している。キョロキョロと落ちつきなくあたりを見回していた蒲田も、すぐに同じ事に気付いたらしく視線が正面で停まる。
「これは……」
「どう見えてるかはその人次第なんですが、まあ、術者が見てる光景ってのはこんな感じだと思って下さい。じゃあ、次、本格的に行きます」
 鰍が、コートの襟を翻して正面に向き直り、ダガーナイフを構え直す。

 こんな事が出来るのか、こんな風に見えるのか。
 酒井が、単純に、魔法というものの凄さ、効果に感心していた、その時だった。
 正面の山から幾状も、他の山からもわずかに漏れていた「黒い光」が、力を増したのは。
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