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3 福寿草の記憶

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 雪が残る裏庭に黄色くて可愛いらしい花が、所々に咲いていた。冷たい風が頬を突き刺す様に吹きつけるけれど、季節は確実に過ぎていたのだろう。


「フローラ見て、春を告げる花だわ。綺麗ね」

 その可愛いらしい花を見て嬉しそうに笑う母は、とても庶民とは思えない程に儚く美しい人だった。
 淡紫色の柔らかな髪を耳にかけ直してから、細く優しい指先で私の頬をそっと撫でる。私を見つめる紫色の瞳はとても慈愛に満ちていた。

 母に抱かれる私は、まだ母の事も自分の事もよく分からない子供だった。私の世界は母と乳母、そしてこの庭だけだった。


「はる?」
「そうよ。この花が咲くと春が来るのよ。来年になって、儀式が済んだら……私とお花屋さんになりましょう? 私はお花屋さんの娘だったのよ。だから、お花には詳しいの」
「うん。私、お母様とお花屋さんになるー」

 無邪気に笑う私を見ながら、母は悲しい様な苦しい様な顔をして笑っていた。


「第三王子にすら、ギフトは無かったんだもの。無いはずよ……大丈夫…………きっと大丈夫。私達は解放されるわ」


 もうすぐ四歳になろうかという当時三歳の私は、母の胸に抱かれながら暢気にこの景色を眺めていた。
 この時すでに、母がかなりやつれ心も身体も追い詰められられていた事には全く気がついていなかった。

 ただただ久しぶりの母との散歩が嬉しくて、ベッドから降りて私を抱きしめてくれるのが嬉しくて、幸せな思い出として残っていた。


 これが母との最後の楽しい思い出になるなんて、予想すら出来ていなかった。 




 この頃から母の容態は目に見えて悪くなっていった。ベッドから降りられる日は少なくなり、次第にベッドの中で微睡んでいるだけの時間が増えた。


 ──ねぇお母様、暖かくなってお庭はたくさんのお花が咲いたのよ。お庭のお花を摘んできたわ。名前を教えてくださいな。


 ──ねぇお母様、外は暑くて水浴びが気持ちいいわ! 一緒にまた足を水に浸しましょう。


 ──ねぇお母様、お庭の果物をとってきたわ! 今年もたくさん実がなって、おいしいね。


 ──ねぇお母様……
 ──ねぇお母様……


 ──ねぇお母様、寒いね。雪が少し溶けたら、また春を告げるお花を探しに行きたいわ。


 ──ねぇお母様、春がくれば五歳のお誕生日よ! ギフトがなければ、お花屋さんになれるね。お母様の好きなお花をたくさんお店に並べるのよ!



 ──ねぇお母様……
 ──ねぇ、お母様……



 ──わがままなんか言わないから、目を開けて。
 私を見て……ねぇ、ねぇってば、お母様……おかあさまぁ…………。




 私は母に寄り添い必死に呼び止めていた。今にも消えなくなりそうな母に、ただ話しかけていた。

 聞こえるのは、懸命に話しかける私の声。
 乳母のすすり泣く声。

 そして、母の生きている証である呼吸の音だけだった。



 時折、返事を返してくれていた母は春を迎える前に、小さく細く息をしているだけだった。
 そんな母にほとんどの時間付き添い、部屋からも出ない数ヶ月を過ごしていた。



 その日は、春を目前に降りしきった大雪がやんで朝日が窓硝子越しにキラキラと輝いていた。
 雪に光が反射していつも以上に明るく、煌めいて見える。
 そして雪に覆われた世界はいつも以上に、静寂に包まていた。

 そんな美しい景色を母に見せたくて、カーテンを開けてから振り返る。そして息をのんだ。

 母は久しぶりに目を開けて、微笑んでいた。





 ──フローラ、私の可愛い娘。
 どこにいても、あなたは咲きほこれる。
 いつか、何処かに根をおろし、しあわせになって……
 ────ごめんね。
 どうか、しあわせになって……




 途切れ途切れの言葉は、たぶん、そう聞こえた。……もしかしたら違うかもしれない。
 母が言葉を紡がなくなってから、ずいぶん経っていたから、本当は……何も言ってなかったかもしれない。

 でも…………私には、そう聞こえた。






 そうして、私の母は微笑んだまま静かに全てを、停止してしまった。
 母に抱きついても、もうトクトクという小さな心臓の音も、耳を澄まさないと聞こえないほどの細い呼吸の音も、何も聞こえなくなった。





 お葬式は簡素に、そして速やかに行われた。

 私はそこで初めて父を見た。棺に収まる母に花を一本手向け、周りの人達に何か指示した。そして私を一瞥した後に、頷いてからどこかへ行った。

 言葉をかけることもなく、気遣うこともない。そんな存在だったと、後から理解った。



 それから教会の人達が母の棺を土に埋めようとしたので、私は驚いた。
 それは幼さゆえに死を理解していなかったからなのか、理解していても受け入れられなかっただけなのか……

 でも私の世界には
 母と乳母しかいなかったのだ。



 そんな母を埋めるなんて、と…………

 私は半狂乱になって、泣いて叫んだ。



「やめて、やめて!! お母様に何をするの! お母様っ!! やめて! やめさせて!」


 どんなに叫んでも母の棺には土が被せられて、遂には見えなくなった。


「うああああああぁ! お母様っ! お母様ぁぁっ……!!」



 ――――私の意識はここで途切れ、私の世界から母が消えた。










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