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妻はすべてを夢にする

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「すまなかった、リーナ。俺はあのとき、一目見て、あまりにが美しく。女神と想えば、顔を見ることも不敬に当たる気がしたのだ」

 アーネストは妻の呼び方を心の中に仕舞っておいた方と置き変えてしまったが、それにも気付かないほどに動転していた。

「もううそはいやですわ」

「神でも剣でも何に誓ってもいい。俺は本当のことしか言わん。それに君は確かに俺にとっての勝利の女神だった」

「まぁ。そんなことまでおっしゃって」

「本当の話だと言っている。君に相応しき男になりたいと武功を願い、君の平穏無事な暮らしを守りたい一心で強い敵意を持つことが出来た。俺が無事生きて戻れたことも、君が妻になる日が待っていたからこそ」

 確かにアーネストは、侯爵として、領主として、噂通りの冷酷非道な男であった。
 これでは敵城の者たちが不憫に想えてくる。

「もうよろしくてよ?」

「もう嘘だと思ってくれるな、リーナ。俺は君を妻に出来て帝国一、いいや、この世界一の果報者だと思ってきたのだ。だが俺は自分の幸せばかり追い求め、君の幸せをおざなりにしてしまったのだな。俺が不甲斐ないばかりに、長く一人で悩ませてしまい、本当に申し訳なかった。今度こそ、俺は君を──」

「わ、わたくしは、なやんでなどおりませんでしたわ!」

 リーナはアーネストに先を言わせまいと叫ぶように言ったが、妻を知ったアーネストはもう怯まない。

「泣いていたでは……今もまた泣いているではないか」

「ないてなどおりませんわ!これはあせですの!ねつのせいですわ!」

 ふっと息を吐くようにして笑ったアーネストに、リーナは驚き、そしてすぐに鏡合わせのごとく微笑んだ。

「ふふ。わたくし、ゆめをみているのね。なんてつごうのいいゆめなのかしら。あなたがわらうだなんて。もしかして、もうここはあのよ……」

「夢ではないし、不吉なことを言う……おい、リーナ。リーナ?リーナ!どうしたんだ、リーナ!」



 侯爵家お抱えの医者は、邸からそう遠くない場所に家を用意されていて、この夜はすでに床に就いていた。
 それでも急患と聞いては、それも自身の仕える侯爵家の奥方様が患者だと聞いてしまっては、どんな大雨の中であろうと急ぎ馳せ参じなければと家を出た瞬間にずぶ濡れになりながらも、強い使命感を持って侯爵家へとやって来たのである。

 それがどうしたか。
 部屋に通されると、着替えを促され、温かい紅茶まで用意されて、しばし待機するようにとの指示が出た。

 奥方様の様態が安定したのだろうか?
 それで奥方様が、医者に会うための準備をしているのかもしれない。
 元より高貴な御方だと聞いているから、身なりを整えなければ、たとえ医者であっても会うことは出来ないのだろう。

 呑気に考え、口にするどころか滅多に目にすることのない高級菓子を夜分にも関わらず存分に味わっていたところで、今度は血相を変えてやって来た執事長に急ぎ部屋から引きずり出され、早くどうにかしろと侯爵直々に怒鳴られながら、診察を行うことになった。

「妻が目覚めなければ、どうなるか分かっているな?」

 それを脅しと言うのですよ、侯爵様。

 心の中で呟いた彼は、怯えはしても、そう悪い気分にはならなかった。
 それは着替えと紅茶、そして菓子のせいでは決してない……はずである。



 アーネストは、侯爵領では間違いなく英雄だった。
 戦で得た報奨金は、すべて領民のために使ったアーネストだ。おかげで領内は戦で疲弊した分をすでに取り戻し、以前よりも活気に満ち溢れている。

 だから他貴族様が流すアーネストに関する噂話は、領内には広まることはなかった。侯爵家の騎士団員たちがアーネストの実際の活躍を知っているのだから、それは当然のこととも言えよう。

 だからこそ、だろうか。

 リーナは公爵令嬢よろしく、気位は高く、仕える侍女らにさえ高圧的な態度を取っていて、とても領民に優しく寄り添う見本的な領主夫人にはならないだろうと囁かれていたのだ。

 領主夫妻が共に揃って姿を現したのがあの結婚式後のお披露目のときだけ、というのも悪かった。
 英雄である領主アーネストとの不仲の相手は、それだけで嫌うべき人間に成り下がる。
 しかもその領主より、身分の高い家の出だ。

 結婚のお披露目の際には、あれだけ盛り上がり、美しき姫君がやって来てこの領地はますます安泰だと喜びに湧いた領民たちは、勝手だった。


 だから今、医者は心が晴れ晴れとしているのだ。
 今度誰かに何を聞かれても、御領主様ご夫妻は、お互いを想い合う理想の夫妻であると伝えよう。


 そう決意して、医者が邸を後にしたときには、雨もすっかり上がっていて、日は昇り切っていた。
 そこら中で朝露が煌めき、雨が清浄にした美しい空気の満ちた、それは清々しい朝である。

 馬車に乗り込んだ医者は、邸内で起きたことを想い出した。

「夜分にも関わらず、それも酷い雨の中をご足労頂くことになったそうね。何から何まで申し訳なかったわ。恨むならわたくしを恨みましてよ。欲しいものを教えてくださる?」

 話し方が、高貴な人の独特なそれだから。
 皆が勘違いしてしまったのだと、医者は知った。
 それにどうも、この貴婦人は少々言葉が足りていない。

「はい?邸内に部屋を用意するですって、旦那様?あり得ませんわよ!」

 医者の口元が静かに緩んでいく。
 何を願おうかと考えているうちに、医者は発言権を失っていた。

「そうだわ、あなた。弟子を育てなさいな。一人では足りませんことよ。そうね、また後日改めて伺うから、お覚悟なさい。もう帰ってもよろしくて……そうだわ、あなた。手荒れに良く効く塗り薬はありませんこと?……いやだわ、旦那様。わたくしの手はこの通り美しくありましてよ」

 侍女らにハンドクリームを供給しているが、それではこと足りない侍女がいるとの話だった。
 それも見送りのときに執事長から聞いた話だ。

「なっ。旦那様!今はおやめになって!」
「そうですよ、旦那様!奥様はまだお体の調子が悪うございます!」

 かの貴婦人に続く叫び声は、医者が部屋を辞した頃。

 医者は手土産の菓子が入った袋を大事に抱えて家に戻ると、迎えた妻にさっそく侯爵家の邸内であった出来事を語り始めるのだった。



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