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♦三度目
6.それは逃げたと言わないか
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「……イルハ?」
答えぬイルハに、役人らは長官様がお怒りだと受け取ったのだろう。
酷い顔色で急ぎ動き出した彼らは、テンという少年の来訪登録をあっという間に終わらせてみせるのだった。
その後イルハは役人らをこの場で指導することはせず、仕事があるからと宣言して、すぐにその場を立ち去っていく。
厳しいお咎めがなく、ほっとして喜ぶ顔を見せたのは、役人たちだ。
新人の上役の男は、それはもう、白い顔ですっ飛んで来ては、へこへことイルハに頭を下げながら対応し、イルハから謝る相手が違うと二度も窘められるほどだった。
それなのにイルハが見えなくなれば素直に喜びを示し、また同じ同僚と雑談に興じ始めたこの男は、もうシーラたちには目もくれようとしない。
彼の先行きは明るくないだろうと、その場の幾人かは密かに思った。
残されたシーラの方が、何か失態を犯した後のように顔色が悪い。
すでに笑みはなく、去り行くイルハの背中をじっと見詰める瞳には、僅かの期待のようなものが込められていた。
だがイルハは一度も振り返ることなく、廊下の先へと消えていく。
これでそのシーラの顔を見続けていた者は、テンだけとなる。
やがてイルハが完全に見えなくなると、テンは聞いた。
「シーラ。なんか、あの人怒っていなかった?また俺のせい?」
疑問をそのまま口にしてしまうところは、少年らしい。
シーラは軽く笑うと、テンの赤毛をくしゃくしゃと撫でながら返答する。
「またなんて言わないの。いつもテンのせいではないよ」
「でも──」
「気にしないの。それに今回は私のせいだからね」
少年はシーラの陰りある笑みを物珍しそうに観察していたが、やはり聞かぬ気遣いはまだ知らなかったようだ。
「シーラのせいって?あの人に何かしたの?」
「約束を破ってしまったんだよ」
「どんな約束?」
「また来るよっていう約束」
「また来ているのに?」
肩を竦めたシーラは、もうその笑みから陰りを消して、以前そうしていたように明るく笑う。
「とても遅くなったからさ」
「それならやっぱり俺のせいだよ」
シーラの笑顔の質に反比例するように落ち込むテンの頭を、シーラは容赦なく撫で回した。
するとテンは慌ててその手を払おうとして体を揺らす。
それでもシーラはテンの頭を捕まえて離さない。
「テンのせいではないってば!私が決めて、私がしたことなんだから。テンが気にするのは違うよ」
「だってさぁ」
「この話はおしまい!ねぇ、テン。これからどうしたい?とりあえず宿を取っておこうと思うのだけれど、それ以外の予定はないよ」
シーラの手が離れると、テンは乱れた赤毛を整えるようにして自分の頭を手で撫でつける。
だがふわふわと軽い赤毛は、手櫛に意味をなさなかった。
「俺は何か食べたいな。お腹が空いた」
「そうだね。私もペコペコだった!」
空腹を忘れていたことを自分で笑ったあと、シーラはテンを連れてタークォンの街へと歩き出した。
ほどなくして夏の日差しの中をじゃれ合いながら駆け出した二人は、シーラが小柄なこともあってか、周囲からは元気のあり余った子どもの姿に見えていた。
賑やか過ぎて、どこでもよく目立っていたが。
久々の陸地には、船乗りとして特別に感じ入るものがあるのだろうか。
いつにない潮風に揺られて、タークォンの午後はいつものように過ぎていく。
答えぬイルハに、役人らは長官様がお怒りだと受け取ったのだろう。
酷い顔色で急ぎ動き出した彼らは、テンという少年の来訪登録をあっという間に終わらせてみせるのだった。
その後イルハは役人らをこの場で指導することはせず、仕事があるからと宣言して、すぐにその場を立ち去っていく。
厳しいお咎めがなく、ほっとして喜ぶ顔を見せたのは、役人たちだ。
新人の上役の男は、それはもう、白い顔ですっ飛んで来ては、へこへことイルハに頭を下げながら対応し、イルハから謝る相手が違うと二度も窘められるほどだった。
それなのにイルハが見えなくなれば素直に喜びを示し、また同じ同僚と雑談に興じ始めたこの男は、もうシーラたちには目もくれようとしない。
彼の先行きは明るくないだろうと、その場の幾人かは密かに思った。
残されたシーラの方が、何か失態を犯した後のように顔色が悪い。
すでに笑みはなく、去り行くイルハの背中をじっと見詰める瞳には、僅かの期待のようなものが込められていた。
だがイルハは一度も振り返ることなく、廊下の先へと消えていく。
これでそのシーラの顔を見続けていた者は、テンだけとなる。
やがてイルハが完全に見えなくなると、テンは聞いた。
「シーラ。なんか、あの人怒っていなかった?また俺のせい?」
疑問をそのまま口にしてしまうところは、少年らしい。
シーラは軽く笑うと、テンの赤毛をくしゃくしゃと撫でながら返答する。
「またなんて言わないの。いつもテンのせいではないよ」
「でも──」
「気にしないの。それに今回は私のせいだからね」
少年はシーラの陰りある笑みを物珍しそうに観察していたが、やはり聞かぬ気遣いはまだ知らなかったようだ。
「シーラのせいって?あの人に何かしたの?」
「約束を破ってしまったんだよ」
「どんな約束?」
「また来るよっていう約束」
「また来ているのに?」
肩を竦めたシーラは、もうその笑みから陰りを消して、以前そうしていたように明るく笑う。
「とても遅くなったからさ」
「それならやっぱり俺のせいだよ」
シーラの笑顔の質に反比例するように落ち込むテンの頭を、シーラは容赦なく撫で回した。
するとテンは慌ててその手を払おうとして体を揺らす。
それでもシーラはテンの頭を捕まえて離さない。
「テンのせいではないってば!私が決めて、私がしたことなんだから。テンが気にするのは違うよ」
「だってさぁ」
「この話はおしまい!ねぇ、テン。これからどうしたい?とりあえず宿を取っておこうと思うのだけれど、それ以外の予定はないよ」
シーラの手が離れると、テンは乱れた赤毛を整えるようにして自分の頭を手で撫でつける。
だがふわふわと軽い赤毛は、手櫛に意味をなさなかった。
「俺は何か食べたいな。お腹が空いた」
「そうだね。私もペコペコだった!」
空腹を忘れていたことを自分で笑ったあと、シーラはテンを連れてタークォンの街へと歩き出した。
ほどなくして夏の日差しの中をじゃれ合いながら駆け出した二人は、シーラが小柄なこともあってか、周囲からは元気のあり余った子どもの姿に見えていた。
賑やか過ぎて、どこでもよく目立っていたが。
久々の陸地には、船乗りとして特別に感じ入るものがあるのだろうか。
いつにない潮風に揺られて、タークォンの午後はいつものように過ぎていく。
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