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5話
④
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レジ向こうのマスターに「またのお越しを待ってるよ」と見送られ、ジュイの足が『波間の月影』を出たのは丁度20時頃だった。
いつもはもう少し遅くまで居るのだが。
日に日に心配そうになって行っていたカノハが、ついに「体調まだ良くないのか」以上の話をして来た事。
ソレによって焦ってしまった事。自分を情けなく思ってしまった事。カノハの頭の中を多少占拠してしまった事によるモヤモヤ。
…これら全てが原因で、今日は長く居座りたい気分ではなくなったのだ。
(涼しくてイイ感じ…)
店から1歩出た所で、ぼんやり。そんな事を思う。
8月の夜は、まだまだ涼しさと無縁のはずだが。今は強めの酒で体温が上昇していた所だ。夜風が涼しいとしか感じられず、素直に気持ち良い。
何気なく空を見上げれば、満月にはやや足りない月といくつかの星が在る。そして、それらより近い場所に街灯の光と、そこに集まる数匹の虫が見えた。
(……とりあえず……帰ろ)
正面へ向き直る。
周囲の家屋や店の窓は、明るい。多数では無いが、ちらほらと。外を歩いている人間の気配もする。
やや遠く…中央通りの方からは、数時間前──ジュイが『波間の月影』に入った頃──と大差無い数であろう人の気配。沢山の声が作る『ざわざわ』という音も聞き取れる。
(クソ鬱陶しい…)
そう。鬱陶しい。煩わしい。
今、そちら──誰かしらが居る方──に行く予定も必要も無いが。どうにも、他人の気配が癪にさわる。イライラしてしまう。自分は沈んでいるのだから気を遣って去っておけ、などと考えてしまう。
…しかし、今のジュイは『1人で過ごす静寂』も好ましく思えない。気を紛らわせてくれる音が無いと、どうしても色々考えてしまう。考えて、結果、余計に沈んでしまう。
(とりあえず…ホントに。早く帰って、風呂なんか数分で済ませて……頭が動く前に寝ないと)
息を吐き、己の決定に従うべく歩を進めた。
なるべく人通りの少ない道を選び、多少遠回りになっても誰も居ない暗い道を選び、ほぼずっと俯いてトボトボと…自宅に近付いて行く。
意識的に無心を貫きながらの道程は、ジュイ自身にも順調なように感じられていた、が。
「……」
進む速度は徐々に徐々に落ちて行き、気付けばほぼ進んでいない有り様になり。やがて、足が完全に止まってしまっていた。
重い空気の塊が、音もさせず口と鼻の両方から出て行く。
同時に全身から力が抜け、ジュイは真横にあったどこぞの家の塀にもたれかかり、塀に体重を預け、ゆっくり・ずるずる──うずくまった。
(つらい)
目を閉じ、小さく首を振る。…辛い。
結末の見えた2度目の恋について。ついでに引き摺り出された初恋の思い出について。今の自分の苦しさについて。
誰かに聞いてもらう事で少しでもマシになるなら、軽くなるなら、是非聞いてもらいたい。
(…でも話せる相手が居ない)
極限まで狭い自分の交友範囲が恨めしい。
アオ所長に恋愛相談や恋愛の愚痴など聞かせられない。そういう関係ではない。ロウセンは論外だ。直接会う事すら、まだ出来る気がしない。
そして、カノハは……
(……話したくない)
ロウセン相手の恋愛について、相談も愚痴も聞いてくれていたのは奴である。
そういう意味では今回も。カノハが、話を聞いてもらう相手として最適なのだ。…なのだ、が。
(話したくない…)
…胸中には拒否しか浮かんで来ない。
ならば他に選べる選択肢は無いのだから。さっさと立って、帰って寝て、同じ日々を繰り返しながら時間による回復を待つしかない。
塀に手をつき力を込め、足の先にも力を込め。立とうとして……ジュイは気付いた。
足音が聞こえる。
人の気配からも声からも完全に遠ざかった、この場所で。家の明かりも多くない、街灯も無い、この場所で。
確実に近付いて来ている足音と、気配。
(面倒だな…)
真っ先に頭に浮かんだのは、その一言だった。
こんな時間にこんな道を歩いてる人間が、偶然自分以外にも居たのは仕方が無い。
だが、他に誰も居ない状況…つまり相手の視界に100%自分が入ってしまう状況。要するに、相手がここに到着するまでに移動しなければ…
(大丈夫ですかー? …みたいに話しかけられるかも…)
それはこの上なく面倒臭い。
今のジュイには、当たり障りのない対応をする余裕も自身も無いのだ。相手を不愉快にし、仕返しだと不愉快にさせられる可能性もある。
(そうなる前に…早く立って、帰ろ)
再び──塀につきっ放しだった──手に力を込める。足の先にも力を込める。
ほんの一瞬呼吸を止めて、いざ。今度こそ立ち上がろうとしたのだが。
「──だ…っ! 大…っ丈夫ですか!? どうしました!?」
予想よりも大分早く、大分遠くから、危惧していた通りの言葉が飛んで来てしまった。
が、しかし。何よりも予想外だったのは、一瞬でジュイの胸中を埋め尽くした物が疑問符だった事だ。
(え? …え、なんで?)
芽生えると予想していた苛立ちは微塵も無い。焦りは僅かに在るが、疑問の方が圧倒的に割合が大きい。
駆け寄って来る足音を聞きながら、ジュイはただ瞬きだけをする。脳内で「なんで?」を繰り返す。
「大丈夫、ですか…?」
足音が真横で止まった。
ここまで微動だにしなかった全身の内、首から上だけを何とか動かして…声をかけて来た相手の顔を見上げる。
周囲の少ない明かりに浮かび上がっているのは…目の上部や眉を隠すように巻かれている謎の布。黒い髪、金色の細い目。神都では見かけない、異国の装束。
つまり、彼は間違いなく。
「…コクト…………さん」
◇
おそらく直前まで飲んでいた酒が原因で、軽く目眩がしていただけだ。…と、うずくまっていた理由──勿論、適当に作った物──を話した後。
ジュイは小さなコーヒー屋の隅の席に、コクトと向かい合って座っていた。
「奢るから」とコクトに誘われたのである。気を遣われたのかもしれない。それ程、今の自分は酷い顔をしているのだろうかと思いつつ…ジュイは誘いに乗ったのだ。
「腹が減ってたら、飯系の物も頼んでくれていいですよ」
「…ありがとうございます」
言われた途端に空腹を感じてしまい、ジュイはコーヒーだけでなくサンドイッチも頼んでしまった。
更に「デザートも食べたければ」と付け加えられて、レモンチーズプリンも追加してしまう。
ここの店主であり唯一の店員らしい老婦人が注文の品々を運んで来てくれた際、コクトの前に置かれたのはコーヒーだけだった。
ほとんど他人な相手と2人で机を挟み、自分だけが食事をするのは気まずいとも思ったが。空腹が勝ったジュイは気にしない事にしておく。
「この店、結構美味くて最近のお気に入りなんですよ」
以前、列車内で会った時同様。妙にご機嫌なコクトが笑顔で言った。
口で「そうなんですか」と返しつつ、心中で成る程と納得する。
彼はお気に入りの店にコーヒーを飲みに行こうとしていた途中で、ジュイを発見したらしい。理由不明な偶然ではなく、理由のある偶然だった。
「…あ。確かに美味しいですね」
サンドイッチを少し食べて、ジュイはそう零した。
お世辞だの社交辞令だのではない。目新しさは無いが、素朴で美味しいサンドイッチだ。分厚い物が2切れ…等ではなく、食べやすい薄めの物が4切れという点も大口を開けるのが苦手なジュイには嬉しい。
そして、ジュイが黙って食事をし。コクトも黙って食事を見守ってくれ。少しの時間が経って、サンドイッチの皿が空になった頃。
僅かな躊躇は在ったが……ジュイは切り出す事にした。
…そう。ジュイは『奢り』に釣られてコクトの誘いに乗ったのではない。
丁度いい、と思ったのだ。ロウセンにもカノハにも話せない、だが誰かに聞いてもらいたい…今の悩みと苦しさを話す相手として。コクトはとても丁度いい、と。
他人に聞かされた悩み事を周囲に言いふらすタイプではないと思っているし、タレント冒険者の契約が終わればおそらく神都から去るであろう人間だ。それに。
(……イイ人だし)
『聞かせ逃げ』をする相手としては、これ以上ない人材である。
ただ問題は──切り出すと決めたものの──どう切り出すか、だ。否。何の脈絡もなく「よければ話を聞いて欲しい」と言えばいいのだが。少し勇気が要る。
「あの」
ジュイが考え込んでいると。コクトの方が口を開いた。
「体調が優れなくて目眩がした…らしいですけど。それだけじゃなくて、何か悩んでたりしますか…?」
「──!!?」
絶句してしまう。いや、当然の反応だろう。
コクトが読心術でも使えるのか、それとも本当に本気で今の自分が相当酷い──分かり易い──顔をしているのか。
どちらも嫌だと間抜けな思考が浮かんだジュイの表情を見、ソレを肯定と受け取ったのか。
「ボクで良ければ聞きますよ。聞くしか出来ないですけど、ほら。話せば少しはスッキリするかもですし…深刻な悩み事って、身近な人より他人の方が話しやすかったりしません?」
「…………そう、ですね」
驚きはまだ残りまくっているが、これはジュイにとって願ったり叶ったりな展開だ。そこは間違いない。
ならば遠慮なく聞いてもらえばいいだけである。まずはどこから、と考えて。ジュイは再度、勇気を要する状況に陥った。
「実は…唐突、なんですけど。俺──生まれつき、根っからの、同性愛者…なんです」
ただでさえ小さい声量が段々下がって行ったと自分でも分かった。
これではコクトには聞こえていないかもしれない。そう思ったのも束の間、コクトは「はい」と頷いて続きを促して来る。
「…ひ、引きません…?」
「え? いえ。冒険者なんてやってると、あちこちで同性愛者の人にも会いますし。ぶっちゃけると、ボクも男性と寝た経験ありますし」
「は!!? え!? そうなんですか!?」
先刻と同じく当然の反応として、大きい声を出してしまった。
レジ前で刺繍をしていた店主が不思議そうにこちらを見たので、ジュイは慌てて口を塞ぐ。
「まぁ…色んな男と頻繁に、じゃなくて。1人ですけどね、相手をした男の人数は」
苦笑いをしながら、コクトが「そんな事より」と改めて続きを促して来た。
動揺を無理矢理抑え付け、ジュイはゆっくり、首を縦に振る。
そしてしばらく沈黙し、聞いて欲しい話の内容・話して良い事・駄目な事を頭の中でまとめた後。小さく溜め息を吐いてから、小声に戻した声で話し始めたのだった。
◇
異性愛者の友人にノリで抱き着いた際、無理だと気付いた事。更に、彼にはおそらく好いている女性が居る事。
一連の流れで、同じように告白すら出来ず終わった初恋を思い出し…1人で勝手に傷を広げてしまった事。
諸々を──ビィズの姿でやった行動は話してしまわないよう気を付けながら──ポツポツと。30分程の時間をかけて、ジュイは喋った。
その間、コクトはただ黙って聞いてくれており、
「…まぁ。そんな感じで。…簡単に言えば失恋、て話なんですけど。気持ち的に辛い状態なんです…」
と、ジュイが話をしめた時。ジュイの皿やカップは空だったのに対し、彼のカップにはまだまだコーヒーが残っていた。
「それ、は……」
口元に手をやり、神妙な面持ちでコーヒーを見つめながら。コクトは数秒黙ったが。
やがて、既に冷めているであろうソレを何口か飲んで…こちらへ視線を寄越した。
「本当に失恋だって確定してるわけじゃ、ないですよね?」
「…え?」
「あ、すみません…。キミが感じた『何となく』や予想を馬鹿にしてる、みたいな意味じゃなくて…ですね」
素直に首を傾げたジュイに、コクトは目に見えて慌て出した。
…今、特に皮肉もしくは嫌味を言われたとは感じなかったが。ジュイはとりあえず黙って続きを待っておく。
「そのお相手本人に、好きな女性が居ると聞いたり…男相手は無理か確かめたり…したわけじゃないですよね? っていう意味で…」
「……」
「後者の確認は難しいでしょうけど、前者の方は何気なく確認してみても…」
「いいと思います」と続け、コクトは再度コーヒーを見つめ出す。
ジュイも無言を貫いた。…「確かに」と思ったのだ。
いや、己が感じた『何となく』が間違っているとは微塵も思っていない。つまり、2度目の恋にまだ可能性があるとは思っていない。終わった、と確信している。
それでも予想を予想でない…決定した答にしてしまえば、心中にある辛さも形を変えてくれるのではないか。要するに、すっきりと。きっぱりと。諦めが付くのではないか。
──1人、あれこれ考えてしまっていると、コクトがまたコーヒーからこちらへ視線を移した。
「ただの印象で物を言って、悪いんですが…。キミは、人に本気で惚れる…という事をあまりしない人な気がして」
「…はい」
「その。キミには、ちゃんと…キミが好きになれた相手と幸せで居て欲しい…って思うんです。…ちょっとした顔見知りになった人間として」
要するに。彼は「諦めるな、もう少し頑張ってみてもいいのでは」と言ってくれているようだ。
本当に『ちょっとした顔見知り』以外の何でもない相手に、こんな励ましと応援をくれるとは。改めて良い人だと思うと同時に、改めて何故自分と相対している時だけこうなんだとも思ってしまう。
「ありがとうございます」
ともかく、ジュイは感謝を伝えておいた。
分かってもらえてはいないだろうが、この一言には本当に、ただ純粋な感謝の気持ちだけが込められている。
「…言われた通り、1度はっきり確認しておこうとも思えましたし。何より、話を聞いてもらえて大分…楽になった感じがしてます」
小さく頭を下げて、直ぐ上げれば。安堵の笑みが目に飛び込んで来た。
「ちょっとでも力になれたんなら、良かったですよ。本当に良かったです…」
「……はい。心配してもらった事とか奢りの事とか色々含めて、もう1回…ありがとうございます…とそれから、すみませんでした」
その後ほんの少し、中身の無い世間話をし。
ジュイはコクトの冷めたコーヒー代だけ払う権利をもぎとって、店の前で彼と別れた。
…そこから自宅までの夜道を行く間。思っていた以上に、期待していた以上に、ジュイの足は軽くなっていたのだった。
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