25 / 113
#25
しおりを挟む
昨夜から律が詩織に対して感じるモヤモヤした感情は、どう振り切ろうとしても消えなかった。
昨日のエアコン問答のことといい、今日のこの送迎といい、彼の有無を言わさない強引さ、尊大ともいえる態度は、律の心にいくつもの小さなひっかき傷を残していた。
だから今だって、こうして車で送ってもらっていても素直に感謝の気持ちがわかない。
送ってもらうことに対する礼儀的な謝意を伝え終えてしまうと、他にしゃべることも思いつかなかった。
しゃべりたい気分でもない。
少しの間、窓の外へと顔を向けてから、律はバッグの中身を点検し始める。
こんなことをしたところで、忘れ物なんてないのは分かっている。
最低限、スマホと財布さえ持っていれば、一日くらいどうとでもなる。
ただ、しゃべらない口実が欲しいだけだ。
「そんなに走って出勤したかったのか?」
黙りこくってバッグをあさっている律をちらりと見て、機嫌を損ねていることを察したのか、詩織が問う。
「別にそういうわけじゃ…ただ、私は大丈夫ですって言ったのに…」
彼が片眉を大げさにつり上げた。
「まさか元マラソン選手か?それは悪かった。君が過去の戦績について、ちらりとでも話してくれていれば手を振って送り出したが」
律の足を一瞥して、詩織はまたフロントガラスに顔を向ける。
「それに、たとえ長距離ランナーでもその靴で走るのは賢明とは言えない」
「足に覚えはないですが、車を出してもらうほどではなかったです。三上さんにもご迷惑だったでしょうし」
「気にするな。君には姉弟共々世話になってる。それに俺は、家事よりも送迎の方が得意だ」
彼はにっこりと笑みを向けた。
たったそれだけのことなのに、胸のわだかまりが一瞬消えそうになり、律は慌てて視線を外の景色に逃がす。
“にっこり”されただけで、何もかも水に流すわけにはいかない。
駅のロータリ―に入ると、詩織は駅の入口近くに車を停車させた。
モヤモヤした気持ちはまだ完全には消えないけれど、車を降りる前に律は改めて彼に礼を言う。
「ありがとうございました、助かりました」
車内からひらひらと手を振る彼に慌ただしく会釈すると、足早に構内のエスカレーターに向かう。
急いで改札を抜けてホームに下りると、予定通りの電車が停車していた。
滑り込むように乗車して、肩で息をしながら呼吸を整える。
なんだかんだありながら間に合ったのは、彼のおかげかもしれない。
*
新しい仕事先が決まったのは、律がその日の単発の仕事を終えた後だった。
百貨店のテナントの一つに入っている洋菓子店の販売員だ。
もともと接客の仕事は好きだし、勤務先も今の家からそれほど遠くない。
給料は…まぁまぁだけど。
採用の電話を切ると、律は体の力を抜くようにほっと息をつく。
とりあえず一つ、目下の問題が解決した。
心が軽くなったことで、意識は今日の夕飯に向かう。
由紀奈は明日の夜まで帰ってこないし、今日は詩織も確実に帰ってこないだろう。
自分一人のために料理をする気力は、今日はもうない。
一日限定で入った今日の仕事は、当初聞いていたよりもハードなもので、寝足りない律にはかなり堪えた。
おまけに社員は誰もかれもが横柄で、仕事場の雰囲気も常にギスギスした空気が漂っていて、たった一日だけなのに仕事が終わる頃には、思いのほか消耗した。
そんな一日を気力だけで何とか乗り切って、もう余力はない。
冷蔵庫にいくつか残り物があるはずだから、それらで適当に間に合わせればいい。
昨日のエアコン問答のことといい、今日のこの送迎といい、彼の有無を言わさない強引さ、尊大ともいえる態度は、律の心にいくつもの小さなひっかき傷を残していた。
だから今だって、こうして車で送ってもらっていても素直に感謝の気持ちがわかない。
送ってもらうことに対する礼儀的な謝意を伝え終えてしまうと、他にしゃべることも思いつかなかった。
しゃべりたい気分でもない。
少しの間、窓の外へと顔を向けてから、律はバッグの中身を点検し始める。
こんなことをしたところで、忘れ物なんてないのは分かっている。
最低限、スマホと財布さえ持っていれば、一日くらいどうとでもなる。
ただ、しゃべらない口実が欲しいだけだ。
「そんなに走って出勤したかったのか?」
黙りこくってバッグをあさっている律をちらりと見て、機嫌を損ねていることを察したのか、詩織が問う。
「別にそういうわけじゃ…ただ、私は大丈夫ですって言ったのに…」
彼が片眉を大げさにつり上げた。
「まさか元マラソン選手か?それは悪かった。君が過去の戦績について、ちらりとでも話してくれていれば手を振って送り出したが」
律の足を一瞥して、詩織はまたフロントガラスに顔を向ける。
「それに、たとえ長距離ランナーでもその靴で走るのは賢明とは言えない」
「足に覚えはないですが、車を出してもらうほどではなかったです。三上さんにもご迷惑だったでしょうし」
「気にするな。君には姉弟共々世話になってる。それに俺は、家事よりも送迎の方が得意だ」
彼はにっこりと笑みを向けた。
たったそれだけのことなのに、胸のわだかまりが一瞬消えそうになり、律は慌てて視線を外の景色に逃がす。
“にっこり”されただけで、何もかも水に流すわけにはいかない。
駅のロータリ―に入ると、詩織は駅の入口近くに車を停車させた。
モヤモヤした気持ちはまだ完全には消えないけれど、車を降りる前に律は改めて彼に礼を言う。
「ありがとうございました、助かりました」
車内からひらひらと手を振る彼に慌ただしく会釈すると、足早に構内のエスカレーターに向かう。
急いで改札を抜けてホームに下りると、予定通りの電車が停車していた。
滑り込むように乗車して、肩で息をしながら呼吸を整える。
なんだかんだありながら間に合ったのは、彼のおかげかもしれない。
*
新しい仕事先が決まったのは、律がその日の単発の仕事を終えた後だった。
百貨店のテナントの一つに入っている洋菓子店の販売員だ。
もともと接客の仕事は好きだし、勤務先も今の家からそれほど遠くない。
給料は…まぁまぁだけど。
採用の電話を切ると、律は体の力を抜くようにほっと息をつく。
とりあえず一つ、目下の問題が解決した。
心が軽くなったことで、意識は今日の夕飯に向かう。
由紀奈は明日の夜まで帰ってこないし、今日は詩織も確実に帰ってこないだろう。
自分一人のために料理をする気力は、今日はもうない。
一日限定で入った今日の仕事は、当初聞いていたよりもハードなもので、寝足りない律にはかなり堪えた。
おまけに社員は誰もかれもが横柄で、仕事場の雰囲気も常にギスギスした空気が漂っていて、たった一日だけなのに仕事が終わる頃には、思いのほか消耗した。
そんな一日を気力だけで何とか乗り切って、もう余力はない。
冷蔵庫にいくつか残り物があるはずだから、それらで適当に間に合わせればいい。
0
お気に入りに追加
80
あなたにおすすめの小説
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。
音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。
だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。
そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。
そこには匿われていた美少年が棲んでいて……
王太子の子を孕まされてました
杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。
※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
裏切りの代償
志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。
家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。
連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。
しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。
他サイトでも掲載しています。
R15を保険で追加しました。
表紙は写真AC様よりダウンロードしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる