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イドル・リリーは上機嫌
快楽の部屋:G
しおりを挟むむかし、ジェラルドが騎士団長の役を預かって二年目、部下が結婚した。
子爵家出身の騎士はまだ若かったが、ジェラルドよりは年上だった。子供の頃から許嫁だったという御令嬢は、王都でも指折りの美少女だと言われていた。
新婚の騎士は言った。
『妻の可愛らしさは筆舌に尽くし難く、頭も胸もいっぱいになるのです』
その時、ジェラルドは苦く笑って、「ほどほどにするように」と団長らしく嗜めてやったことを覚えている。
あれから随分経って、ようやく。
あの日の部下の言葉を噛み締められるようになった。
名残惜しい媚肉から身を離し、ようやく身支度を整えはじめたのは朝日が顔を出してしまったからだ。
岩場には日を遮るところもないから、そろそろ動かなくてはイドル・リリーに不快な思いをさせてしまう。
「それではわたしは戻ります」
「え?」
剣を剣帯につけたところで言われた言葉に、思わず真顔で問い返した。
「わたしがいると騎士様の邪魔になりますからね」
「イドル様が一体何の邪魔になるとおっしゃるのですか」
「魔物が逃げます。彼らも一応、魔界に属するものですから」
あっさりした言い方だが、とんでもないことである。
魔物というからには悪魔にも関わりがあるとは理解していたが、魔界に属すると明言されたのは初めてだ。魔界七公は魔界を統べる存在だ。イドル・リリーはその第七位の魔王である。
ジェラルドはイドルリリーの足元に両膝をついて頭も下げた。正しく、首を差し出す姿勢は、王への最大の恭順を示している。
「イドル様、質問をお許しください」
「なんでしょうか、騎士様」
イドル・リリーは気安く応じてくれる。
「私は、御身に属する魔物を討ってしまったことは……あるのでしょうか」
「ええ? えっと、さあ……どうでしょう?」
昨日だけでも数種を斬った。これまで倒してきた魔物の数など記憶していない。ただ、たくさんだ。
「配下といっても、増えすぎたり減りすぎたりしないように気にかけているだけですよ。騎士様が案じるようなものじゃありません」
「御身を害したことはないと?」
頭頂あたりに口付けを受けて少しだけ、胸が落ち着いた。
ジェラルドは顔を上げた。
「ありませんよ。騎士様はいつもわたしを気遣ってくださいますね」
とんでもないことだ。
気遣ってくれているのはイドル・リリーの方だ。
醜い、穢らわしいと遠ざけられ、神々にさえ見捨てられたジェラルドを唯一助けてくれた方だ。どれほど尽くしても足りるものではない。
「早くお戻りください。待っていますよ」
「命に替えても」
厳命されて、安心できる。
ジェラルドの剣はイドル・リリーのもの。身も心も捧げている。この上は魂を受け取ってもらえるように励むだけだ。
それにしても。
悪魔が人間の魂を欲しがるというのは有名な話だし、イドル・リリーも否定はしなかった。
魂を捧げるというのは、具体的にはどうすればいいのだろうか。
そもそもジェラルドは魂を見たこともない。スピリットファイアと呼ばれる魔物はいるが、あれは墓場を彷徨いて蠢く炎でしかない。魂ではないだろう。
ではなんだろう。
神官に尋ねるのは業腹だ。そもそも神殿に近づきたくない。他に知っていそうな者はいるだろうかと考えて、あの召喚士のことを思い出した。バザール近くの路地を入った館の主だ。
アレがまだ生きているか、気にしたこともなかったが、訪ねてみてもいいだろう。
そんなことを考えながら歩き、剣を振り、残りの魔物を平らげたジェラルドは帰路についた。
× × ×
まずは討伐ギルドで報告を済ませ、バザール近くの公衆浴場に寄った。
ジェラルドは騎士団で育ったようなものであるから、蒸し風呂には馴染みが深い。見習いの頃には風呂を立てて、先輩騎士たちの背を流す仕事もやった。
こちらの地方の公衆浴場は騎士団のものよりずっと大きく広く、背を流す専門の男たちがいる。安価で利用できるから、市民客が圧倒的に多い。
ジェラルドは貸し出された腰履きの浴衣を身につけ、広々とした風呂場に入った。
「はいよ、こっちだ、旦、な……」
頭を剃り上げた大男が垢すり布をひらめかせて声をかけ、言葉を濁した。男が見ているのはジェラルドの淫紋だ。腰に巻いた布だから、淫紋は半分ほど見えている。
「手早く頼む」
言って、小銭を握らせてやると、男は大きく咳払いしてジェラルドを洗い場へ案内した。
イドル・リリーがもてなしてくれた最初の日のように、磨き石の寝台が洗い場だ。客はそこに寝そべって、打ち上げられた海獣のように身を揉まれて垢を擦り落としてもらうのだ。
「……旦那は、その」
「淫売ではない」
寝返りをうってうつ伏せになり、背を流させながら答えてやった。
男はほっとしたようだ。
「じゃあ」
「好んで刻んだ。これ以上詮索するな」
「へ……へい!」
それきり、男は無駄口を叩かなくなった。肌を撫でてくる手つきが微妙だったが、わずかほども気持ち良くもなかったので放置した。
ジェラルドを昇天させてくれるのは彼の方だけ。
バザールでいつもの花と、目的の品を受け取った。少し前に手に入れた宝石を髪飾りに作らせたのだ。
バンダル地方で産出される希少石はそのままバンダル石と呼ばれていて、古来珍重されてきた。産地から離れるほど価値が上がるものだから、ジェラルドの故郷では珍しく、婚約者に贈る装飾品に使われることが多かった。
髪飾りの本体は銀細工で、バンダル石を五つ、嵌め込んで貰った。
あとは帰宅するだけだ。
「あっ、そこの騎士様!」
そう思ったところで声を掛けられた。男だ。
見やると、金髪の優男が満面の笑みで手を振っていた。紺色のコタルディを着ていて、どこかの店主のようだが知らない顔だ。
男は小走りにやってきて、
「リリ様のお世話、ありがとうございます」
と言った。
「……まさか」
「リリ様の眷属のひとり、キュボスと申します」
キュボスは恭しく礼をして、ジェラルドを見上げた。青空のような瞳と柔らかそうな金髪の色男は、いかにも令嬢や男色家が好みそうに美しい。さすがは淫魔というべきか。
「私ども一同、あなたには感謝いているんですよ。リリ様ときたらずっと館に籠りきりでいらして、みなで心配していたんです。それを、あなたがひっぱり出してくれたんですから」
キュボスはジェラルドの手を両手で取って、ぎゅっと握って笑った。
愛想が良いのは主譲りなのだろう。明るくて、拍子抜けするが、彼も悪魔なのだ。
悪魔とは、一体何なんだろうか。
「何かお力になれることがありましたらいつでもどうぞ。そこの道を入った娼館におりますから」
一瞬過った哲学的な問いが、キュボスの言葉で遮られた。
「娼館か」
言われた方を眺めると、男たちが吸い込まれるように消えていく建物が見えた。淫魔が客を引き寄せているのだとしたら、娼館として無敵だろう。煽られた淫心を抑えるのは、並大抵のことではない。
淫魔にとって、人間の生命力が食事になるのだと知った。
イドル・リリーはこれまで、眷属たちから『仕送り』されてくる命の力を糧としていたらしい。その眷属淫魔が娼館を開いたということは、精力が安定的に供給されるということではないのだろうか。
私は、良き糧、足り得ない、と言うことなのだろうか……?
深々と、疑問が胸に突き刺さった。
言いたいことだけ言って、キュボスはさっさと離れていった。娼館主なら仕事も細々とあるに違いない。
ジェラルドは花と髪飾りを収めた箱を大切に抱え、自宅に戻った。
帰宅しても、イドル・リリーはいなかった。
いつもよりずっと早い時間だから、まだバザールで遊んでいるのかもしれない。探しに行こうか。見つけ出して、連れて帰ってくるために?
否。
彼は王だ。いくら最愛のひとであれ、ジェラルド如きが縛りつけられる方ではない。
でも。ただ。……ああ。
誰もいない家の中は妙に落ち着かず、花を寝室に飾ったジェラルドは荷物を置いてワインを開けた。イドル・リリーが買い置いてくれていた柄付き瓶はまだ数本残っている。
木杯に一杯、二杯と飲んでいるうちに、イドル・リリーがふうっと姿を現した。
「あら。騎士様のほうが早くお戻りでしたね」
目と口を丸くして言うイドル・リリーはかわいらしい。
ジェラルドは波打つ心を飲み込んで、立ち上がって主を迎えた。
「バザールにいらっしゃったのですか?」
「いいえ。とても気分が良かったので、違うところを散歩していました。そうしたら美味しそうな匂いがしましてね」
二度目に召喚できたとき、イドル・リリーはジェラルドと交わった後に摂った甘味が美味しくなかったと言って消沈していた。
あの時は、間違いなくジェラルドのほうが美味しいと、彼は言った。
「今日のものはお口に合いましたか?」
「悪くはありませんでしたよ」
あっさり言ったイドル・リリーの腕が持ち上がり、ジェラルドの首にまわってきた。近づく体を抱き寄せると、胸に頬ずりされた。
帰宅してからはダブレットを着ていなかったので、薄いシャツ一枚だ。布越し、乳首を刺激されて、ジェラルドは背中を震わせた。
「ねえ、騎士様。あの日、地下の部屋に焚いてあった香、あれはバザールで?」
唐突な問いかけだと感じたが、隠すことではない。
「前に居た街で手に入れたものです。バンダルのバザールでなら売っているところもあるかもしれませんが」
「あの香がお好き?」
「あれは性感を高めるためのものであって、好んでいた訳ではありません」
答えが気に入らなかったのだろうか。イドル・リリーは首を傾げている。
ジェラルドはただじっと、彼を見つめた。
一晩、腕の中に抱いていたのが夢幻だったような気持ちになってくる。
元来、イドル・リリーは人間ではない。人間でしかないジェラルドが、人間の尺度で測って理解できるはずなどない。
ならば、己ができることをするのみだ。
「イドル様。私からの貢物を受け取っていただけますか?」
「騎士様が、わたしに?」
本当は嫌だったが、ジェラルドは痩身から身を離して壁に掛けた荷物から小箱を取り出した。銀細工の髪飾りを収めたものだ。
レリーフの入った箱を開けて中身を見せると、イドル・リリーがふわっと笑んだ。喜んでくれた気がして、あっという間に気持ちが湧きたった。
「バンダル石ですね。これは、櫛?」
「髪飾りです。失礼します」
ジェラルドはいそいそとイドル・リリーの手から髪飾りを受け取って、背に回った。白い、絹糸のような髪を救って束ねてまわし、櫛を刺して留めてやる。
幼い頃、母付きの侍女の仕事が面白く見えて、教えて貰ったことが役に立った。練習台になってくれた母は容赦がなかったので、まだしっかりと覚えていたようだ。
「このようにすれば長い髪が落ちてこなくなります」
「すてきですね、騎士様!」
イドル・リリーの骨のような指が白いうなじを撫でて、髪を確かめて動く。たったそれだけで、鼓動が速まる。
ああ、美しいかた。
首に口付け、窪みに細かく何度も吸い付いた。小さな水音が立って、口の中に唾液が満ちてきているのに気がついた。
欲しくて、たまらない。
彼が口にする糧が、己の生命だけであればいいのに。
思う気持ちも止められなければ、口付けも止められない。
「わたしも、あなたに何か贈り物を」
「御身の側に置いていただけるのが何よりの贈り物です、イドル様」
影のように付き従い、どこに行くにも側に置いていて欲しい。
二度と離れないと決めたのだ。
「騎士様へ贈るなら、剣がいいんでしょうか。それともグローブ? 剣帯?」
ジェラルドの念は届いているのか、いないのか。イドル・リリーはいつも通りに明るい調子で、そんなことを言った。
争い事は苦手だと言うひとが、武装をあれこれ思い描いてくれている。
ジェラルドは生え際を辿って口付けをして、髪を舐め上げた。
「……でもその前に」
抱きしめていた体が波打って、股間に肉の薄い尻が擦り付けられた。刺激に、すっかり勃ちあがっていた男根が痙攣する。
明け方まで交わっていたのに、ジェラルドの精はすっかり回復している。着替える時に確かめた陰嚢も漲っていて、いくらでも放てそうな有様だった。
「今夜はどのようにしましょうか」
視線をあげて、イドル・リリーが言った。
魔王はいつもそう言って、ジェラルドにどうしたいのかと訊いてくれる。
ジェラルドはイドル・リリーを抱きしめ、首筋に顔を埋めた。熟れた葡萄のような香は、彼の体臭なのだろうか。食欲より淫欲を唆られ、喉が鳴る。
「……どうか、イドル様」
絞り出した声には懇願の色。
ジェラルドは小振りな耳の後ろに鼻を擦り付けた。
「私を、召し上がってください」
「はい、騎士様」
イドル・リリーが上機嫌に笑った。
ジェラルドは幸せを噛み締めた。
了
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