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騎士ジェラルドと淫魔の王

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 身支度を整えたジェラルドは、イドル・リリーを伴って外に出た。

 キルティングのタブレットとホーズと長靴という軽装に、マントをつけているだけだ。股間をガードするために綿を入れたコッドピースをつける手間はかかったが、大して待たせることもなかった。

 地下室の隅で泡を吹いて倒れていた召喚士は虫の息だったので、応急の手当はしてきてやった。約束の報酬である金貨の袋も置いてきたから、後のことはジェラルドの知ったことではない。

 人間は金が好きだ。金貨、金細工。宝石も好きだ。他人の命よりずっと大切にしている連中も少なくない。少しやり取りしただけだが、あの召喚士もその類に見えた。さもなくば、悪魔を呼び出して稼いだりしないだろう。

「賑やかなものですねえ」
 ジェラルドの側を歩くイドル・リリーの声は弾んでいる。買い物で賑わうバザールをきょろきょろ眺めて、楽しそうだ。

 言われて、ジェラルドも周囲を見渡した。

 確かに真昼のバザールは賑わっている。
 この城砦都市バンダルは内海に突き出した半島の先にあって、東にある砂の海を越えて異教の国々との交易が盛んな街だ。客にも商人にも異国人が多い。見慣れたものも、見知らぬものもたくさん売り買いされている。物量は圧倒的である。きっと商いに関する税収も多いことだろう。

 ジェラルドの感想はそれだけだ。
 自分の淫欲と勃ったままの男根に耐えているうちに、人間らしい感情が死んでしまったのかもしれない。

「面白いのですか?」
「二千年ぶりの人間の世界ですからすべてが新鮮ですね」
 悪魔の住居がどういうところにあるのか知らないが、二千年ぶりという言葉の重みはさすがにわかる。ジェラルドは改めてイドル・リリーを見下ろした。

 淫魔の王は意外に小柄で、ジェラルドより頭ひとつ分より背が低い。白蛇みたいな体の薄さを思うと体重は半分もないかもしれない。

「……悪魔なら、魔法で移動できるものかと思っていました」
「できますよ。でも、人間の世界で動き回るにはそれなりの制約がつくんです。勝手なことをすると目立ちますから嫌なんです」
 軽く指先を天に向けて、おどけて笑うイドル・リリーはまるっきり人間のようだ。

「騎士様はこの国の生まれではないのですね」
 皆との風貌の違いに気がついたのか、今度はジェラルドが問われた。

「私は北方で生まれました」
 隠すことでもないので、素直に答える。
 
 ジェラルドは街行く人々よりずっと背が高く、肌が白く、瞳が青い。黒髪は珍しくないが、この地域の人たちのはもっと赤みを帯びていて、むしろ濃い茶色だ。ジェラルドの髪は瞳と同じく、青味がある黒である。

「それと……私は馬もなければお仕えする王も持たぬ流浪の身。すでに騎士とは呼べません」
 かつて、ジェラルドは騎士だった。騎士団を率い、戦場を駆けた。今となっては全てが遠い過去。幻のようなものだ。

「騎士様と呼ばれるのはお嫌?」
「……相応しくないと感じます」
 ジェラルドは話の終わりだと示すために小さく咳払いをした。

「私のことより、眩しくはありませんか」
「えっ、まさか、わたしを気遣ってくださってる?」
「その、目がお悪いのかと……」

 イドル・リリーは眼鏡をかけている。
 眼鏡はとても高価な品で、南岸諸国の特産品だ。ガラス職人のうち、特に優れた技術のある者たちにしか作れないという。ジェラルドの国では王家に連なるような身分のものか、高位の魔導士ぐらいしか持っていなかった。

「この眼鏡はおしゃれなんですよ、お優しい方」
 眷属からの献上品なんです、と、イドル・リリーは笑った。やはり楽しげで、ジェラルドも少しだけ笑んだ。

「良き王でいらっしゃるのですね」
「ええ、もちろんです」
 穏やかで和やか。
 地下室でのことがなければ淫魔の王とは信じられない。真昼間の太陽の下でも平然としているし、本当に悪魔なんだろうかと疑問を感じる。

 そう考えて、ジェラルドは自分が悪魔というものをよく知らないことに気がついた。召喚士に頼んだのは淫欲を満たす魔物の召喚で、インキュバスの存在をそこで知った。個体差はあったが、彼らは全体的に赤黒い肌をしていてコウモリのような小さな羽があった。

 イドル・リリーも、本当はアレらに似たものなのだろうか。
 尋ねていいものなのだろうか。
 そもそも、どうしてジェラルドの男根問題に付き合ってくれる気になったのだろうか。淫魔の王というくらいだから、男根が好きなのかもしれない。いや、女性も好むのだろうか。いずれ、ジェラルドの命や魂を要求してくるのだろうか。

 わからないことしかない。

「あれは? 肉を焼いているんでしょうか?」
「……え、あぁ、確か、羊の肉を鉄串に刺して、炙り焼きにする料理です」
 ジェラルドの戸惑いに気づく様子もなく、イドル・リリーが前方を指した。

 人の流れをそっとかき分けて、ジェラルドは淫魔の王を羊肉を炙っている店の前まで連れていってやった。
 バザールには建物を構えた商店もあるが、簡易天幕を張った露天商いの方がずっと多い。炙り肉屋もそうだった。

「五人前くださいな」
「買うのですか!」
 気の良さそうな親父にきっぱり注文したイドル・リリーに、ジェラルドは少なからず驚いた。
 だって、淫魔の王が炙り肉を求めるとは思いもつかない。

「ちゃんとお金もありますよ」
 いつの間にか腰のところに付けていた小さな袋を取ったイドル・リリーは、茶色い紙に包まれた炙り肉の塊と銀貨を引き換えた。普通に買い物だ。

「お持ちいたします」
「それは助かりますね」

 拍子抜けするほど素直に、イドル・リリーは肉を渡してくれた。
 仮にも『王』に荷物を持たせるのは気が引けるのは、身に染みついた騎士の習性だ。が、なんだか不思議な気持ちにもなった。

「パンも欲しいんですが、えーっと」
 イドル・リリーは歩きながらくるくる周り、「あっちです!」と言った。

 案内するより他はない。ジェラルドは再び、淫魔の王をエスコートして市場の人の波を渡った。
 平たいパンが山盛りになった籠を買った後、イドル・リリーは露天商を漂うように見て歩き、新鮮そうな果物各種を一抱えと、ワインの詰まった皮袋も買い入れた。

 もちろん、荷物は全部ジェラルドが持つ。

 ジェラルドの荷物は剣と身の回りの物を詰めた鞄がひとつあるだけだ。市場で買った食品くらい、持ち運ぶのはどうということでもない。

「こんなものですかね。では、参りましょうか、騎士様」
 イドル・リリーは満足げに言い、ジェラルドを見上げた。笑みに撓んではいるが、金色の瞳は妖しげに輝いている。胸が大きくひとつ鳴った。

「どちらへ?」
 行き先に心当たりがなく、ジェラルドは首を傾げた。

「なんとかして差し上げるって言いましたからね。言葉を違えたりいたしません」
 イドル・リリーの視線がジェラルドの顔から首、胸を辿ってへそ、下腹、股へとゆっくり流れていった。
 指先が触れたわけではない。ただ見られただけなのに、尻から背、背から脳髄へと快感が走り抜けた。

 ジェラルドは思わず目を閉じて身震いし、熱くなった息をそっと吐いた。
「……かわいい方」
 イドル・リリーが笑みを深くした。 





 交易で栄えているバンダルの城門は日の出から日の入までは開いている。入城税を払えば旅人でも出入りできるが、身分次第で税額が変わる仕組みだ。怪しい者を入れないためにする工夫である。
 家名を失ったジェラルドは最下層民の扱いになるので、一番高値の入城税を払わされた。

 その城門をあっさり出たイドル・リリーは、港とは逆の方に進んだ。
 バンダルの正門と街道、港との間にはそれぞれ防塁と見張り小屋がいくつもある。どれも街を守るためのものだ。
 それを眺めて散歩するように歩いた先で、「ここですよ」と、イドル・リリーが言った。太陽がすっかり傾き、空が橙と紺に塗り分けられていた頃合いだった。

 内海が見える丘の、古びた塔だ。相当古いもののようで外壁は風化していて、あちこち崩れかかっていた。

「ここは?」
「今宵の宿です。仮初めではありますが、ご安心を」
 イドル・リリーは先に立ち、塔の古びた扉を押し開けて真っ暗闇に消えた。もちろん追うしかない。
 ジェラルドは細い背を追って塔に足を踏み入れた。

「……は?」
 そこは高いドーム天井のある蒸し風呂だった。
 浴室の真ん中にはベッドがあり、その奥に浅めの浴槽が見える。獅子の頭を模した吐水口があって、小さな滝のように湯が流れていた。壁も、床も、浴槽もベッドも磨き抜かれて光沢のある石製だ。
 壁に灯された燭は淡く控えめで、湯気を照らして幻想的でさえある。

「お風呂はお嫌い?」
「い、いえ、驚いているだけです」
 イドル・リリーが自分の両袖を捲り上げた。剣を持ち上げられるとは思えない細い腕が剥き出しになった。

「まずはお体、流しましょう」
 ジェラルドが返答できないうちに、抱えていた荷物が消えた。剣も剣帯も消え、マントも無くなった。
 間違いなく、淫魔の王の仕業だ。

「自分で、自分で脱ぎます!」
 慌てて遮り、ジェラルドは靴を脱ぎ、身につけていたもの全部をその場に落とした。

 どうせ全裸も淫紋も、勃起したまま戻らない男根も見られているのだ。気にすることはもうない。
 床に落ちた衣類は一瞬のうちに消えた。

 ジェラルドはイドル・リリーの術中に取り込まれている状況を理解しているが、別に嫌ではなかった。むしろ期待が膨らむ。
 この悪魔を信じるのなら、積年の苦しみから解放されるのだ。

「こちらへ掛けて」
 手招きに促されて、ジェラルドは石のベッドに腰掛けた。石は人肌よりも温かかったが、熱すぎることもない。じわじわと、心地よい気がする。

「お湯をかけますよー」
 ジェラルドの側に立ったイドル・リリーの手にはいつの間にか手桶がある。それを肩のあたりで傾けられると、微かな水音と一緒に湯が落ちてきた。

 右の肩、左の肩。背、腰。局所を避けて、両方の太腿、膝。

 ゆっくり丁寧に湯を掛けられるのと、尻の下の石のベッドの温かさでじんわり汗ばんできた。

「温まってきました?」
「……はい、とても」
「では、あちらに」

 手を引かれて連れて行かれたのは奥の湯船だ。重装備の騎士を五、六人転がせるほど広いが、湯は浅い。

「こちらに背を向けて、寝そべってください」
 逆らうつもりはないから、ジェラルドは言われたままに湯に腰を下ろして仰向けに寝た。頭の下には横渡しになっている石の枕があって、頭部が沈むことはない。湯は本当に浅く、体の半分しか浸からない。
 となると、湯から突き出て勃っている自身が見える。

「滑稽だ」
「絶景です」

 声が重なって、ジェラルドは視線を上げた。
 枕元に座り込んだイドル・リリーと至近距離で目が合った。
 金色の瞳は笑みの形に撓んでいて、やはりとても穏やかだ。

「こんなものが?」
「とても魅力的ですよ」
 鼻の付け根に口付けを落とし、イドル・リリーが体を起こした。

「髪を洗いますね」
「は、はい」
 傾けられた木桶から、またちょろちょろと湯が流れてきた。それが頭に掛けられていく。イドル・リリーの木桶からは無限に湯が湧き出しているようで、注ぎ足すこともない。

「……その、急かす訳ではないのですが、あの」
「すぐに突っ込まれるとでも思っていました?」
 砕けた言い回しに驚きつつ、ジェラルドは小さく頷いた。

 一晩中インキュバスに尻を差し出し、イドル・リリーには淫紋で極めさせて貰ったというのに焦れている自分が浅ましくて心底情けない。

 だが、快楽が欲しいのだ。もどかしくて苦しいのだ。

 濡れた髪にあたった吐息で、イドル・リリーが笑ったのを感じた。

「下拵えです。わたし、こう見えて美食家なもので」
「そ……そういうものですか」
 淫魔は人間の精力を糧にする悪魔だと聞いたが、所詮、ジェラルドは素人だ。流儀があるなら従う他はない。すでに相手の術中にいるのだし、身を任せればいい。

 でも焦れる。

「肩の力を抜いて」
 髪全体が濡れたところで、粘りのある液体が付けられた。花の香も立ったので、化粧香油だろう。頭全部に馴染ませる動きは見えないが、あの骨のような指が動いている様を思い描くことはできる。

 ジェラルドは細く息を吐いた。
 肌をくすぐってくる湯も、頭をほぐしてくれている指先も、どちらもとても心地が良い。
 相変わらず男根は熱く脈打っているし、尻の奥も疼きはじめた。
 緩い愛撫は熱も疼きを増していくが、止めないで欲しいとも思う。

「随分と長く旅をされたんですね」
「……そう、ですね」
 生まれた年から数えたら、実はジェラルドはもう四十に近い。だが、体は二十代半ばの青年のまま。故国を離れた時から少しも変わっていない。

 淫魔の王の目に自分がどう見えているのか見当もつかない。ただ好意的ではある気がする。

 ジェラルドの身体がこんな浅ましいものになってしまってから、笑顔で、雑談相手になってくれた初めての相手だ。

 だからだろうか。
 ふと。
 人ならざるこの男に、すべて話したい気持ちになった。

「あまり、楽しい話ではないし、興味がないかも、しれませんが、よろしいでしょうか」
 細波のような心地よさに細切れな息を吐きながら、ジェラルドは申し出てみた。

「ええ、もちろん。喜んで」
 ジェラルドの額、髪の生え際あたりからちょろちょろと湯を流しながら、イドル・リリーが言った。柔らかな声はそれだけで撫でられているような心地の良さがある。

「ゆっくり目を閉じて、肩の力を抜いてください」
 促されるまま、ジェラルドは大きく息を吐いた。その吐息を味わい飲むように、イドル・リリーに口付けされた。

 下唇を食み、薄く開いた唇の隙間を啄まれるのはくすぐったい。ジェラルドは知らないうちに笑んでいた。
 この優しい悪魔に、イドル・リリーに哀れな男の話を聞いて欲しい。
 
 ジェラルドは自分でも気づかないうちに目を閉じた。




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