40 / 73
神殿
花籠
しおりを挟むエルゲンが部屋の中に入ってきた途端、花の香りがした。甘く豊かな香り。セレーネはこの香りが大好きだ。まるで花籠の中で揺られているかのような、そんな心地よさを覚える愛しい人の香り。
「ただいま帰りました……セレーネ」
エルゲンはさっそくセレーネの華奢な身体を抱き上げて、寝台に腰かけた。膝の上に乗せられたセレーネは、込み上げてくる愛しい人への気持ちを必死に抑えて、絞り出すように言葉を発する。
「あの……お話があるの、エルゲン」
見上げると、エルゲンはおそらくセレーネがまた「おねだり」をするのだと思ったのだろう。甘く微笑んで「何ですか」と僅かに首を傾げ、子猫の顎を撫でるかのようにセレーネの小さな顎を柔らかくこすった。
(う……言いずらいわ)
こんな笑顔でほほ笑まれたらただでさえ、言葉が喉に詰まって出てこなくなるのに。こんなに優しく触れられて、膝の上で甘やかされている状態で……。
セレーネは堪らず、一度深呼吸をした。
「……セレーネ?」
訝しむエルゲンをよそに、セレーネは心の中で、言うべき言葉を何度も何度も念じる。
(好きな人が出来たから、離縁して欲しい。好きな人が出来たから離縁して欲しい。好きな人が出来たから離縁して欲しい)
そう、あとはこの言葉を口に出すだけだ!とセレーネは思い切り口を開いて「あのね」と大きな声を出し、流れるように言葉を発した。
「好きな人が出来たから……離縁して欲しいの!」
言葉にした途端、きゅぅと胸が締め付けられた。本当はそんなことしたくない!とすぐに否定したくなった。言葉はもう、セレーネの口の中にはない。空気の中へ溶けてしまった。エルゲンの表情を見るのが怖くて、セレーネはとっさに顔を俯ける。
いつも、セレーネが我儘をいうと「あなたが望むのなら」とほとんど全ての願いを叶えてくれる彼。いつもはそんな彼の優しさが愛おしくて堪らなかった。だけど今だけは、セレーネは心のどこかで「そんなことは言わないで欲しい」と願っている。自分から言っておいて、何て我儘な女なんだと、自分で自分にツッコまずにはいられない。
ぎゅっと目を瞑って、セレーネはエルゲンの答えを待った。
しかし、どれだけ長い間待っても、エルゲンが言葉を発する「気配」は感じられない。おずおずと見上げてみると、セレーネはゴクリと音をたてて息を呑んだ。
エルゲンの表情からはいつも通り、口元には仄かな笑みが浮かんでいた。
だが、この違和感は何だろう。
セレーネは直感で、エルゲンは今「笑っていない」のだと感じた。いつも誰にでも微笑んでいる彼の……微笑んでいるはずなのに、滲む感情の一切がこそげ落ちてしまったかのようなその顔に、セレーネはポカンと口を開くことしか出来なかった。
101
お気に入りに追加
4,906
あなたにおすすめの小説

【完結】どうやら私は婚約破棄されるそうです。その前に舞台から消えたいと思います
りまり
恋愛
私の名前はアリスと言います。
伯爵家の娘ですが、今度妹ができるそうです。
母を亡くしてはや五年私も十歳になりましたし、いい加減お父様にもと思った時に後妻さんがいらっしゃったのです。
その方にも九歳になる娘がいるのですがとてもかわいいのです。
でもその方たちの名前を聞いた時ショックでした。
毎日見る夢に出てくる方だったのです。

《完結》愛する人と結婚するだけが愛じゃない
ぜらいす黒糖
恋愛
オリビアはジェームズとこのまま結婚するだろうと思っていた。
ある日、可愛がっていた後輩のマリアから「先輩と別れて下さい」とオリビアは言われた。
ジェームズに確かめようと部屋に行くと、そこにはジェームズとマリアがベッドで抱き合っていた。
ショックのあまり部屋を飛び出したオリビアだったが、気がつくと走る馬車の前を歩いていた。

【完結】気付けばいつも傍に貴方がいる
kana
恋愛
ベルティアーナ・ウォール公爵令嬢はレフタルド王国のラシード第一王子の婚約者候補だった。
いつも令嬢を隣に侍らす王子から『声も聞きたくない、顔も見たくない』と拒絶されるが、これ幸いと大喜びで婚約者候補を辞退した。
実はこれは二回目人生だ。
回帰前のベルティアーナは第一王子の婚約者で、大人しく控えめ。常に貼り付けた笑みを浮かべて人の言いなりだった。
彼女は王太子になった第一王子の妃になってからも、弟のウィルダー以外の誰からも気にかけてもらえることなく公務と執務をするだけの都合のいいお飾りの妃だった。
そして白い結婚のまま約一年後に自ら命を絶った。
その理由と原因を知った人物が自分の命と引き換えにやり直しを望んだ結果、ベルティアーナの置かれていた環境が変わりることで彼女の性格までいい意味で変わることに⋯⋯
そんな彼女は家族全員で海を隔てた他国に移住する。
※ 投稿する前に確認していますが誤字脱字の多い作者ですがよろしくお願いいたします。
※ 設定ゆるゆるです。

【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい
高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。
だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。
クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。
ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。
【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】

あなたの姿をもう追う事はありません
彩華(あやはな)
恋愛
幼馴染で二つ年上のカイルと婚約していたわたしは、彼のために頑張っていた。
王立学園に先に入ってカイルは最初は手紙をくれていたのに、次第に少なくなっていった。二年になってからはまったくこなくなる。でも、信じていた。だから、わたしはわたしなりに頑張っていた。
なのに、彼は恋人を作っていた。わたしは婚約を解消したがらない悪役令嬢?どう言うこと?
わたしはカイルの姿を見て追っていく。
ずっと、ずっと・・・。
でも、もういいのかもしれない。

【完結】婚約者様、王女様を優先するならお好きにどうぞ
曽根原ツタ
恋愛
オーガスタの婚約者が王女のことを優先するようになったのは――彼女の近衛騎士になってからだった。
婚約者はオーガスタとの約束を、王女の護衛を口実に何度も破った。
美しい王女に付きっきりな彼への不信感が募っていく中、とある夜会で逢瀬を交わすふたりを目撃したことで、遂に婚約解消を決意する。
そして、その夜会でたまたま王子に会った瞬間、前世の記憶を思い出し……?
――病弱な王女を優先したいなら、好きにすればいいですよ。私も好きにしますので。

奪われる人生とはお別れします ~婚約破棄の後は幸せな日々が待っていました~
水空 葵
恋愛
婚約者だった王太子殿下は、最近聖女様にかかりっきりで私には見向きもしない。
それなのに妃教育と称して仕事を押し付けてくる。
しまいには建国パーティーの時に婚約解消を突き付けられてしまった。
王太子殿下、それから私の両親。今まで尽くしてきたのに、裏切るなんて許せません。
でも、これ以上奪われるのは嫌なので、さっさとお別れしましょう。
※他サイト様でも連載中です。
◇2024/2/5 HOTランキング1位に掲載されました。
◇第17回 恋愛小説大賞で6位&奨励賞を頂きました。
本当にありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる