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聖女選定
恐怖
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「これは無意味な行為ではありません。女神の祝福を受けた者──つまり私が聖女に選ばれし巫女の額に口づけると、そこに百合の文様が浮かびあがります。この印によって巫女は聖女となるのです」
極めて機械的に宣うエルゲンの表情をセレーネはぼんやりと見つめた。
(儀式……なんだもの。仕方ないって我慢するべきだって、分かっているけど……でも)
嫌だと思ってしまうのは仕方のないことだ。大好きな人が、例え儀式だろうと何だろうと他の女の額に口づけを落とすところなんて見たくはない。そう言葉にしようとして、出来なくて、セレーネは俯いてシーツを絞るように握り込んだ。
「……っ」
「あなたに何も告げずに、式典に参加するのか否か、問うことが出来ませんでした。どうか、許してください」
エルゲンはセレーネの腰を抱き寄せて、彼女の頬や唇、額、そして手の甲に口づけを落としていく。久しぶりに訪れた甘やかな時間。けれどセレーネにはそんな時間を楽しむ余裕など微塵もなかった。
初めて、恐ろしいと思った。
エルゲンが自分とは違う、誰か他の女に口づけている。そんな光景を何もせずにただじっと眺めている自分自身の心がどんな風に醜く荒れるのか。自分自身への恐怖。そして顔すら知らない女への嫉妬。心が何か大きなものに当たって歪な形に曲がってしまうのではないか。そんな予感が、雨が降る前の生温く誇り臭い風のようにセレーネをぞっとさせる。
「怖いわ……私、ものすごく怖い顔をすると思うの」
「……セレーネ」
「でも、でも。参加しないのも嫌よ。逃げるみたいで嫌なの。私はあなたの奥さんなんだもの。堂々としていたいわ」
「はい」
真剣な眼差しで見つめてくるエルゲンの頬をそっと撫でると、ひんやりと冷たい。花の咲き誇る季節とはいえ、空気は冷えて、風は穏やかとは言い難い。そんな中で、彼は式典のために粉骨砕身準備に取り組んでいるのだ。そんな彼の50年に一度の大きな儀式に取り組む厳かな姿を、見たくないと思わないはずもない。
「儀式の時になったら、あなただけを見ていることにするわ」
「……私も心の中でずっとあなたを想っていますよ」
やんわりと笑んで、エルゲンはゆっくりとセレーネの頭を撫でた。慈しむようなその仕草。彼から向けられる眼差し。それらを享受している間は、ほんの少しだけ落ち着くことが出来る。
エルゲンは忙しいはずなのに、その日の夜はずっとセレーネの傍に寄り添っていた。優しいぬくもりに包まれながら、セレーネは1つのことを決める。
エルゲンが聖女様の額に口づける瞬間は、絶対に見ない。
それが唯一、心を平常に保つ方法だ。
セレーネは、熱量をもった感情の熱で膨れ上がる心を握りつぶすかのように、心臓の上でぎゅっと手を握りしめた。
極めて機械的に宣うエルゲンの表情をセレーネはぼんやりと見つめた。
(儀式……なんだもの。仕方ないって我慢するべきだって、分かっているけど……でも)
嫌だと思ってしまうのは仕方のないことだ。大好きな人が、例え儀式だろうと何だろうと他の女の額に口づけを落とすところなんて見たくはない。そう言葉にしようとして、出来なくて、セレーネは俯いてシーツを絞るように握り込んだ。
「……っ」
「あなたに何も告げずに、式典に参加するのか否か、問うことが出来ませんでした。どうか、許してください」
エルゲンはセレーネの腰を抱き寄せて、彼女の頬や唇、額、そして手の甲に口づけを落としていく。久しぶりに訪れた甘やかな時間。けれどセレーネにはそんな時間を楽しむ余裕など微塵もなかった。
初めて、恐ろしいと思った。
エルゲンが自分とは違う、誰か他の女に口づけている。そんな光景を何もせずにただじっと眺めている自分自身の心がどんな風に醜く荒れるのか。自分自身への恐怖。そして顔すら知らない女への嫉妬。心が何か大きなものに当たって歪な形に曲がってしまうのではないか。そんな予感が、雨が降る前の生温く誇り臭い風のようにセレーネをぞっとさせる。
「怖いわ……私、ものすごく怖い顔をすると思うの」
「……セレーネ」
「でも、でも。参加しないのも嫌よ。逃げるみたいで嫌なの。私はあなたの奥さんなんだもの。堂々としていたいわ」
「はい」
真剣な眼差しで見つめてくるエルゲンの頬をそっと撫でると、ひんやりと冷たい。花の咲き誇る季節とはいえ、空気は冷えて、風は穏やかとは言い難い。そんな中で、彼は式典のために粉骨砕身準備に取り組んでいるのだ。そんな彼の50年に一度の大きな儀式に取り組む厳かな姿を、見たくないと思わないはずもない。
「儀式の時になったら、あなただけを見ていることにするわ」
「……私も心の中でずっとあなたを想っていますよ」
やんわりと笑んで、エルゲンはゆっくりとセレーネの頭を撫でた。慈しむようなその仕草。彼から向けられる眼差し。それらを享受している間は、ほんの少しだけ落ち着くことが出来る。
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エルゲンが聖女様の額に口づける瞬間は、絶対に見ない。
それが唯一、心を平常に保つ方法だ。
セレーネは、熱量をもった感情の熱で膨れ上がる心を握りつぶすかのように、心臓の上でぎゅっと手を握りしめた。
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