『ショート怪談』訪れるもの

親友の田中

「開けてください、開けてください」
扉を叩きながらそう叫ぶ男の声。
私はこの声に聞き覚えがある。
私の親友、田中という男の声だった。

田中と私は、幼い頃からの親友であり、一緒に遊んだり、飲みに行っては愚痴をこぼす仲だ。
しかし、最近、彼は何かに取り憑かれたように変わってしまった。人目をはばかることなく、夜遅くまで彷徨っている様子を目撃したり、奇妙な行動をすることが増えていた。
だが、田中がそんなことをしていても親友を辞めるつもりはなかったし、話す分には面白いことに変わりはなかった。

その日も、私はいつものように家で一人で過ごしていた。すると、突然、田中の声が聞こえてきた。深夜の1時を回り始めた時間だ。どうして彼がここにいるのか、家まで車でも1時間以上かかる場所だと言うのに。
私は戸惑いながらも、すぐに玄関に向かった。

「開けてください、開けてください」
ますます懇願するように響いてくる。
私はドアを開ける前に、一瞬ためらったが、彼が困っているのを放っておくわけにはいかないと思い、勇気を振り絞って扉を開けた。

そこには、私が予想していたような田中の姿はなかった。
血走ったキョロキョロと定まらない目、ボサボサの髪。整っていた顔立ちは見る影もなく歪んでおり、口からは息遣いとは違う不快な音がしていた。
彼は私に近づき、異様な笑みを浮かべながら、「助けてくれ」と囁いた。

私は恐怖で声も出せず、ただ彼の言葉に固まっていた。ひと月前に話した時は、こんなことになっていなかったはずだ。
そして、彼が私に触れようと手を伸ばしてくる。
動くことが出来ず、受け入れるしかなかった。

彼の手が私の肌に触れると、私は悲鳴をあげてしまった。酷く冷たくて、まるで、死人の手のような。

その瞬間、周りには奇妙な音が響き渡り始めた。
足音が部屋中に響き、何かを叩くような音が鳴っている。
私は身体を震わせながら、逃げることが出来ない。その音はどこからともなく増え始め、私を取り囲んでいく。

「田中、どうしたんだよ…」
私は声を詰まらせながらようやく言った。しかし、彼はただ笑みを浮かべ、何も答えなかった。
そのまま私を突き飛ばすようにして、家の中へ入ってくる。

すると、それと同時に、部屋中の家具や物が動き出した。ドアは勢いよく閉じられ、窓はガラスが割れる音が響いた。私は恐怖に包まれながら、逃げることも忘れ、彼の言葉を待っていた。

「お前も、こっちに来いよ」と、彼は言った。
その言葉と共に、部屋中には闇が広がり、私の意識はどんどん薄れていった。


目が覚めると、私は自分が横たわっていることに気づいた。部屋は元通りで、何事もなかったかのように静かだった。しかし、私の体には彼に突き飛ばされた時に挫いた手首の痛みが確かにあった。

田中はどこにいるのだろうか。彼の様子がおかしかったのは確かだが、一体何が起きたのだろうか。助けてくれと言っていた。なにか、できたのではないだろうか。

私は恐怖を押し殺し、再び彼の名前を呼んだ。
「田中、どこにいるんだ？」
しかし、返事はなかった。
なぜだか分からないが、彼は、この世界から消え去ってしまったのだろうと、そう思ってしまう。

その日以来、私は何度も彼の名前を呼びながら、彼の姿を探し続けた。彼の現れた夜に。知り合いの家を片っ端から回った。
しかし、彼は二度と現れず、私の中には深い孤独感が広がるばかりだった。

私は彼の行方を追い求めながら、彼との友情の絆が切れることを恐れながら、私はずっと生きていくのだろうか。

余談だがこの出来事以来、私は普段の生活でも何かが見えるようになった。黒い塊のようなもの、白く揺れるもの。奇妙な声や足音、そして恐怖の目が私を追いかてくる。

私はもう一度、田中と出会うことができるのだろうか。それとも、私も彼と同じ運命をたどることになるのだろうか。