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第87話 玉の輿宣言
しおりを挟む8月ももう終わりというのに、セミの声はまだ真っ盛りだ。城南邸のエントランスに出ると、彼らの必死の声がこれでもかと降り注いでいた。
「さて、それでは参りましょうか」
トランクに三着分のガーメントバックを入れ、立花さんがドアを開けてくれた。
「あ、すみません。自分でやりますから」
僕はずっとこれが慣れなかった。
菜々子さんとはたくさん話せてすごく良かった。思ってた以上に楽しくて清々しい人だった。
「菜々子様とお話しされてましたね」
立花さんと話すのも久しぶりだ。ここにお世話になってた頃は、ほとんど毎日ドライブトークしてた。
「はい。どういうわけか菜々子さんが前のご主人を亡くされていたこと気付かなくて。危うく失言しそうでした」
「おやおや、それは。でももう、4年も前の話ですからね」
城南家のダイニングで、彼女は僕に言った。
『もう、覚悟を決めましたから。それに、親子が断裂したままなのは不幸です。私自身、両親とは良好ではないので』
そこのところはさすがに突っ込めなかった。
『だから、このお屋敷に来た時、私、お義父様に言ったんです』
『なんて仰ったんですか?』
僕はめっちゃ身を乗り出した。既に朝食も食べ終え、珈琲のお代わりをもらってる。立花さんが迎えにきそうで焦った。
『城南家の玉の輿に乗れるか挑戦しますのでよろしくお願いします。って』
それを聞いた時、絶句したのは言うまでもない。予想の斜め上をいく玉の輿宣言だ。
『祐矢先生、どう言われました?』
『わかったと。それから祥一郎はどうするんだって』
ああ。なるほど。彼も正式な城南家の跡取りの一人になるわけだ。皇室じゃあないので継承権があるわけじゃないけど。
その問いに、菜々子さんは、自由にさせてやって欲しいと言ったそうだ。
祥一郎君は大きな期待に応えられるような子ではない。健康だけが取り柄で、けれど親を喜ばせてくれる大切な存在だからと。
「祐矢先生は、随分祥一郎君を可愛がられているようですね」
運転席の立花さんに問いかける。
「ええ、それはとても。きっと晄矢様や陽菜様のお小さい頃を思い出しておられるのではないでしょうか。信じられないかもしれませんが、旦那様は奥様より甘かったんです」
図らずも、晄矢さんから同じことを聞いていた。祐矢氏、あの風貌からは想像もできないけど子煩悩なんだなあ。
祐矢氏は菜々子さんにこうも言った。祥一郎君に機会だけは与える。だから、なにか一生懸命やれることを見つけて欲しい。健康は素晴らしい武器だからと。
――――健康は素晴らしい武器。それは僕も同意だな。間違いなく僕自身がそうだったよ。
『でも、思い切りましたね。その心意気が祐矢氏の気持ちを動かしたのかな』
『さあ、どうでしょうか。私は小さい頃からずっといいことなかったので。やっと普通の家庭が持てたと思った途端に前の主人が亡くなって……。
だから、今度は攻めようと思ってるんです。幸せになったっていいじゃないかって。おかしいですか?』
『いえ、全然。幸せになってください。僕も陰ながら応援します』
そこに、立花さんが迎えに来てくれた。出発の時間だ。晄矢さんはまだ寝てるとのことだったので、僕はそのまま城南家を去った。
「そろそろ着きます。次はいつ頃おみえになりますか?」
立花さんが車のスピードを緩める。
「ありがとうございます。そうですね。冬休みかな」
「え? 4ヶ月も先じゃないですか」
「ええ。でもお屋敷に行くと腑抜けてしまってダメなんです。僕はまだ戦いの真っ只中なので」
「確かに……そうですね」
立花さんは笑って頷いてくれた。
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