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第1章
16 苦い過去
しおりを挟む夏を惜しむようなセミの声が、朝から降り注いでいる。マンションの駐車場にキャリーバックを引きながら向かうだけで汗が肌に滲む。8月の終わりとはいえ、まだ夏は盛りのようだ。
「じゃあ、行ってくる。明後日の午後には帰れるから」
「うん。心配しなくていいよ。留守番くらいできるから」
「そうだな」
ドライブから1週間。空はようやく俺にため口で話せるようになった。今日から俺は二泊三日で九州で行われる講演会に出かける。空を連れて行くことも考えたが、あまり日常を変えるのはどうかと思い断念した。鬼塚医師からも、今はまだ普通の生活が望ましいと言われていた。
空港までマイカーを駆る。目立つ車を二日も留め置くのは不用心なので、懇意の駐車場を使うことにしている。そこは空港までの送迎もあるので便利なんだ。
あれからカササギは姿を現していない。それは空の精神状態が安定してるからだろうか。それはまだ、俺にはわからないでいた。
九州での講演会は終始予定通り、まずまずの感触を得ることができた。この地での講演は初めてだったので、前夜祭では名刺交換が盛んにおこなわれた。
「おお、久遠、良かった会えて」
シャンパングラス片手に歓談していた俺を、背後から呼び止める声がした。不思議に聞き覚えのある声だ。
「え? ああ! 五十嵐准教授じゃないですか。どうしてここに。あ、今は教授でしたか」
それは俺が大学時代に世話になった准教授だった。経済学部に籍を置いていた俺は、その頃から投資に興味を持っていた。1年生の時に入ったサークルが投資研究会。ま、ほとんど名前だけのお遊び会だったが。その時の顧問が彼、五十嵐だった。
「ああ、昨年こっちの大学に話をもらってね。世話になってるんだ。ついでに教授にしてもらった。はは」
「なるほど。先生なら当然でしょう。お元気そうでなによりです」
教授は俺よりも10歳ほど年長だったから、もう40になるのか。相変わらずの風貌はずっと若く見える。彼には俺が退職した後、相談に乗ってもらった恩もあった。
「それで……君は……元気なのか?」
少し声を顰め、俺にだけ聞こえるように教授は尋ねてきた。その表情にはさきほどの笑顔がやや曇り、眉間に皺が寄った。
「はい……。元気にしています。その節は、御迷惑をおかけしました」
「いや、なにもしてないよ。でも、そうか。君が元気ならそれでいい。明日の講演は聞いていくからな」
「はい。ありがとうございます」
大学を卒業してから既に6年が経っている。教授に相談しに行ったのは5年前。その頃の俺は、確かに疲れていた。俺の苦い過去がそこにある。引きずっていないつもりだが、今でも思い出さない日はなかった。
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