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第45話 もう戻れない
しおりを挟むシャワー室にある小さな鏡に向いて、僕は髭を剃る。無精ひげと言っても、産毛の親分みたいなのがポツポツ顎に生えてるくらいだけど。
「剃れた?」
横の脱衣所から、スゥエットを腕に通している神崎さんが声をかける。
「うん」
「やっぱり、つるつるしてる方がいいね」
鏡の僕の顔を覗き込む神崎さんの姿が映る。なんだか恥ずかしくなって俯いた。
「なんで俯いてるの」
剃ったばかりの僕の顎に、神崎さんの手がかかる。ぐいっと無理やり? 上を向かせた。
「んっ……」
思った通りのキスが降って来る。ほんの数分前まで、僕らは狂ったようにお互いを求め合った。あのキスから……。
『嫌だ……やめて……』
熱いキスに当惑する間もなく、神崎さんは僕を個室に押し込んだ。そんなのわかってたことだし、僕も既に受け入れてた。
「黙って……もう何も言わなくていい。悪いのは私だから」
汗で汚れた衣服を脱ぎ捨て、二人ともシャワー室になだれ込む。興奮も愛憎も背徳の想いも、熱いシャワーが全部洗い流してくれる。そんなわけないのに、僕は温度調節ももどかしくシャワーの水栓を捻った。
「好きだ。カードを手渡した時から、心奪われてたんだ」
湯けむりが個室を視界不良にする。濡れた肌を重ね合わせながら、神崎さんが耳元で囁いた。
「嘘……ばっかり……」
呟くような抗議の言葉を、唇でふさがれる。背中に回した腕が想像したよりもずっとがっしりしてた体を感じてしまう。
――――悪いのは……僕だ。
「あ……あ、んん」
神崎さんの愛撫に僕は翻弄される。翻弄されながら、気持ちいいって思ってしまったんだ。
「お腹空いてるでしょ」
身支度を済ませ、僕らは駐車場に向かった。エレベーターの中で神崎さんが尋ねる。実を言うと、トレーニングが終わった時からお腹が鳴っていた。
「そうだね。このところ、ろくに食べてなかったから」
「じゃあ、お腹に優しいものを食べに行こうか」
僕は素直に頷いた。『優しいもの』。その言葉は僕の心を揺さぶっている。欲しているものでありながら、求めてはならないとも思う。
――――九条さんが浮気をしたからって、僕もしていいわけじゃない。罪悪感も当然ある。
「いいね。行きたい」
それでも……僕は神崎さんの言葉に微笑を返す。もう戻れない。今の僕には、彼が必要だ。
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