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参の二
しおりを挟む細いがはっきりした口調だ。はああ、と父親が息を吐く。その隣で母親がしくしくと泣きだした。哀れに思ったのか、翔一郎が母親の肩に手を置いた。
「ここには盤も駒もねえな。ずっとどうしてた?」
「頭の中で、指していました。盤も駒もなくても、将棋はできます。でも、やっぱり盤と駒があったほうがいいです。それと、できたらお相手も」
両親がしょんぼりしているのを知りながら、それでも止められないのだろう。胸に詰まっているものを吐き出したいようだ。壮真は翔一郎に合図する。
「さあ、ゆっくり話してみな。まだ夜は暮れたばかりだ」
翔一郎は市邨屋夫婦を促し、その場から出て行く。蔵に敷かれた畳の上には壮真と善太郎だけになった。
「両親の気持ちはよくわかっているのです。私の体のことを心配してくれている。将棋指しは体は動かさないのに頭の中だけ物凄い勢いで働かせます。だから、心の臓には良くないのかもしれません」
「そうだなあ。長い対局となると、日を跨ぐこともあるんだろう?」
善太郎は町人の子らしく結った丁髷の頭をこくりと落とす。
「私はまだ、日のあるうちに終わる局しか指したことがないのでわかりませんが、眠ることなく続けられるのだとしたら、大変なことだと思います」
「大橋家の養子の話は聞いてるのか?」
「ああ……」
善太郎は小さくため息を吐いた。
「大会で宗亰様のご子息と指しました。その一番に勝ったとき、養子に来てほしいと言われました。それが叶わないのであれば、自分と対局してくれと」
その結果が御城将棋での対局となった。
「おまえはどうしたいんだ? 将棋指しになりたいなら、宗亰のところに行くのも有りだと思うが」
しっかりと正座をし、善太郎はじっと畳を見つめている。膝に置いた両手の拳をきゅっと握った。
「私の両親は、私が『市邨屋』を継ぐことを願っています。私もそのつもりでおりました。だから……ご自分の進退をかけて挑んでこられる宗亰様の待つ御城将棋に、私は挑めなくて……。両親からここに、御城将棋のその日まで身を隠せと言われて従ったんです」
膝に置かれた拳はそのまま、善太郎は言い終わると唇を噛んだ。
「そうか……じゃあ、俺がここに来たのは無駄足だったんだな。別に誰も悪いことをしてるわけじゃない……」
「風見様……お待ちください」
余計なお世話だったかと膝を立てたところで、善太郎が慌てて口をはさんだ。壮真は再び胡坐になる。
「ここで七日間、じっと私は将棋を指していました。たった一人、お腹が減るのも忘れて、ただひたすら、ずっとやってみたいと思っていた戦法を試したり、長手数の詰みを考えたり。こんな暗くて寂しい場所なのに、全然苦にならなくて、時間もあっという間に過ぎていきました」
いつの間にか、善太郎の目に涙が浮かんでいる。それがもう堤を越えるほど溢れ、今にも流れ出しそうになっている。
「私には将棋しかないのだと、ここでつくづく悟りました。この道を……私は捨てきれません。父と母には申し訳ないけれど、市邨屋は弟の庸二郎に継がせてほしい。私は……私はどのような試練があろうとも、将棋の道を極めたいのです……」
堰切れて頬に流れる涙は、善太郎のここに至るまでの葛藤と、そのうえで得た強い思いを言葉よりも如実に表していた。
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