居候同心

紫紺(紗子)

文字の大きさ
上 下
10 / 13

参の二

しおりを挟む


 細いがはっきりした口調だ。はああ、と父親が息を吐く。その隣で母親がしくしくと泣きだした。哀れに思ったのか、翔一郎が母親の肩に手を置いた。

「ここには盤も駒もねえな。ずっとどうしてた?」
「頭の中で、指していました。盤も駒もなくても、将棋はできます。でも、やっぱり盤と駒があったほうがいいです。それと、できたらお相手も」

 両親がしょんぼりしているのを知りながら、それでも止められないのだろう。胸に詰まっているものを吐き出したいようだ。壮真は翔一郎に合図する。

「さあ、ゆっくり話してみな。まだ夜は暮れたばかりだ」

 翔一郎は市邨屋夫婦を促し、その場から出て行く。蔵に敷かれた畳の上には壮真と善太郎だけになった。

「両親の気持ちはよくわかっているのです。私の体のことを心配してくれている。将棋指しは体は動かさないのに頭の中だけ物凄い勢いで働かせます。だから、心の臓には良くないのかもしれません」
「そうだなあ。長い対局となると、日を跨ぐこともあるんだろう?」

 善太郎は町人の子らしく結った丁髷の頭をこくりと落とす。

「私はまだ、日のあるうちに終わる局しか指したことがないのでわかりませんが、眠ることなく続けられるのだとしたら、大変なことだと思います」
「大橋家の養子の話は聞いてるのか?」
「ああ……」

 善太郎は小さくため息を吐いた。

「大会で宗亰様のご子息と指しました。その一番に勝ったとき、養子に来てほしいと言われました。それが叶わないのであれば、自分と対局してくれと」

 その結果が御城将棋での対局となった。

「おまえはどうしたいんだ? 将棋指しになりたいなら、宗亰のところに行くのも有りだと思うが」

 しっかりと正座をし、善太郎はじっと畳を見つめている。膝に置いた両手の拳をきゅっと握った。

「私の両親は、私が『市邨屋』を継ぐことを願っています。私もそのつもりでおりました。だから……ご自分の進退をかけて挑んでこられる宗亰様の待つ御城将棋に、私は挑めなくて……。両親からここに、御城将棋のその日まで身を隠せと言われて従ったんです」

 膝に置かれた拳はそのまま、善太郎は言い終わると唇を噛んだ。

「そうか……じゃあ、俺がここに来たのは無駄足だったんだな。別に誰も悪いことをしてるわけじゃない……」
「風見様……お待ちください」

 余計なお世話だったかと膝を立てたところで、善太郎が慌てて口をはさんだ。壮真は再び胡坐になる。

「ここで七日間、じっと私は将棋を指していました。たった一人、お腹が減るのも忘れて、ただひたすら、ずっとやってみたいと思っていた戦法を試したり、長手数の詰みを考えたり。こんな暗くて寂しい場所なのに、全然苦にならなくて、時間もあっという間に過ぎていきました」

 いつの間にか、善太郎の目に涙が浮かんでいる。それがもう堤を越えるほど溢れ、今にも流れ出しそうになっている。

「私には将棋しかないのだと、ここでつくづく悟りました。この道を……私は捨てきれません。父と母には申し訳ないけれど、市邨屋は弟の庸二郎に継がせてほしい。私は……私はどのような試練があろうとも、将棋の道を極めたいのです……」

 堰切れて頬に流れる涙は、善太郎のここに至るまでの葛藤と、そのうえで得た強い思いを言葉よりも如実に表していた。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

保健室の秘密...

とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。 吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。 吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。 僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。 そんな吉田さんには、ある噂があった。 「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」 それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。

忠義の方法

春想亭 桜木春緒
歴史・時代
冬木丈次郎は二十歳。うらなりと評判の頼りないひよっこ与力。ある日、旗本の屋敷で娘が死んだが、屋敷のほうで理由も言わないから調べてくれという訴えがあった。短編。完結済。

東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?

晩夏の蝉

紫乃森統子
歴史・時代
当たり前の日々が崩れた、その日があった──。 まだほんの14歳の少年たちの日常を変えたのは、戊辰の戦火であった。 後に二本松少年隊と呼ばれた二本松藩の幼年兵、堀良輔と成田才次郎、木村丈太郎の三人の終着点。 ※本作品は昭和16年発行の「二本松少年隊秘話」を主な参考にした史実ベースの創作作品です。  

空蝉

横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。 二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~

裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか ――― 将軍?捨て子? 貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。 その暮らしは長く続かない。兄の不審死。 呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。 次第に明らかになる不審死の謎。 運命に導かれるようになりあがる吉宗。 将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。 ※※ 暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。 低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。 民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。 徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。 本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。 数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。 本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか…… 突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。 そして御三家を模倣した御三卿を作る。 決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。 彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。 そして独自の政策や改革を断行した。 いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。 破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。 おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。 その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。 本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

あやかし吉原 弐 ~隠し神~

菱沼あゆ
歴史・時代
「近頃、江戸に『隠し神』というのが出るのをご存知ですかな?」  吉原と江戸。  夜の町と昼の町。  賑やかなふたつの町に、新たなる事件の影が――。

処理中です...