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壱の三
しおりを挟む「市邨屋の息子が行方不明になったのはいつからだ?」
事件は江戸で一、二を争う呉服問屋、『市邨屋』に端を発する。そこの長男、善太郎が行方不明になった。いまから七日前のことだ。市邨屋は蔵をいくつも持つ大商家だ。金目当ての誘拐かと思われたが、それから何の音沙汰もない。
まだ十かそこらの子供だから、川にでも流されたのかと、普通ならそんなところで終わりだろう。親は金に飽かせて探させているようだが。
「今日で七日目かな? でもね。それだけではないんじゃないかって話になってる」
「ああ、そうみたいだな」
時の将軍、家勝は、平和な時代の為政者としてはまずまず。権力を振りかざしたり、殊更に浪費したりせず、平均点の政を行っていた。
その家勝の一番の趣味が『将棋』だ。将軍が将棋好きとなれば文化として華が咲く。老中たち直属の家臣はもとより、江戸詰めの大名もこぞって将棋に熱を上げる。その熱は家臣へ伝わり、国に帰ればそこでもと、今までにない将棋の流行が起こっていた。
江戸には幕府が認めた将棋家があり、将棋指しを生業にすることで俸禄が与えられた。彼らは江戸城や大名屋敷で対局したり、指導したりと日々研鑽している。
なかでも、最も大事とされたのは『御城将棋』。時の名人とそれに次ぐ実力の者が江戸城、将軍の前で将棋を指すことだ。家勝の治世になり、今まで以上に注目されるようになったこの催しは、今秋に開催されることが決まっている。
家勝の先代、家哉はあまり熱心でなく、御城将棋もただ棋譜を並べるだけになっていたと聞くので、現在の隆盛に、御三家と呼ばれる将棋家も湧いていることだろう。因みにその将棋御三家とは、大橋家本家と分家、それに伊藤家のことをいう。
「今年の御城将棋はさらに盛り上がってるんだよ。善太郎は町人でありながら、将棋の天才と呼ばれているんだ」
「うーむ。善太郎は十一歳か。それで天才とは凄えな……」
「あれ、壮真は根付を駒にしてるくらいだから、将棋は詳しんじゃないの?」
涼やかな双眸を飾り棚に置かれた小銭入れに流す。その視線を壮真も追った。
「あれはもらいもんだよ。俺の幼馴染が将棋好きでね。俺も少しは指せるが……」
「多分、僕の方が強いね」
将棋や囲碁も幕府お墨付きの技芸だ。けれど、所詮は勝負事。御法度にはなっていたが、当然賭け将棋、賭け碁は存在した。それを取り締まる役所も奉行所内にある。翔一郎はふらふらしていた時、あらかたの賭け事を経験済みだ。そしてどれも強い。
「けっ。高尚な技芸に戯言言ってんじゃない。で、おまえの知ってるのはどこまでだ。父上が言うには、善太郎が御城将棋の対局者に選ばれたのが原因でかどわかされた。て噂があるそうだが」
離れの居間で作戦会議。壮真は胡坐を組みなおす。本音ではまた一杯やりたいとこだが、仕事が始まったのでそうもいかない。なんだか右手が手持無沙汰だ。
「御城将棋まであとひと月。御法度とはいえ、その界隈では既に値踏みが始まってる頃だよ。善太郎がいなければ、名人の本家当主、大橋宗亰に勝てる奴はいないだろうね」
「善太郎が出なければ、誰が名人と対局するんだ?」
「多分、三家の一つ、伊藤家の正安じゃないかな。ま、盛り上がらないよね。やっぱり御城将棋は、御三家対在野じゃないと。まだ少年の善太郎が今が指し盛りと言われる宗亰をひいひい言わせる絵。誰だって見たいよ」
それには応じることなく、壮真は腕を組んで顎を上げる。二重瞼をじっと閉じれば、長いまつ毛がかすかに震えていた。
「そうかあ。では、いなくなったのは、やはりそのあたりが怪しいってわけか」
「まさかと思うけど、負けを恐れた将棋家の大橋本家が一番。それから本家に賭けてる連中かな。名人位を虎視眈々と狙う伊藤家も怪しいって言えば怪しいけれど」
ううむ、と唸り声をあげると、壮真は首を捻る。
「宗亰や本家がなあ。そりゃ、負ければ名折れだろうが……それより気になってんだが、市邨屋はどうなんだ。善太郎を将棋指しにしたいのか? それだけ将棋が強いなら、相当賢いだろうに」
父の頼政からそのあたりは聞いていない。親は息子を必死に探してるようだが。
「うん、それね。両親とも、あまり前向きじゃないみたい。ほら、あれも勝負事だから。命がけだよね」
この時代の将棋は持ち時間がない。つまり、考えたいだけ考え、相手を詰ますか必至に追い込むまで続けられる。一局だけならまだしも、何番勝負もある。
何代か前の御城将棋では、命を落とした者までいるという。家元である将棋家は、伝統と強さを守るためにのほほんと駒を指してるわけではないのだ。加えて家内や御三家の中での勢力争いもある。そこは弱肉強食の世界だから、研鑽を怠ることはできない。将棋や囲碁は早熟の天才が生まれるというが、幼い者は体力もなく、若くして亡くなる者も少なからずいたようだ。
「盤の前で、唸ってるだけじゃない……駒は刃より険しか」
「平穏な時代で二刀を腰にぶら下げてるだけのお侍さんより、命の危険あるかもね」
「うるせえな。平和で結構じゃねえか」
それもそうだ。と翔一郎が肩を竦める。事件の輪郭は見えてきた。それではそろそろ調べに行くか。ここで相方とだべっていても仕方あるまい。壮真はやおら立ち上がる。
「話だけじゃどうにもできんな。市邨屋に出かけてくるか」
「じゃあ、僕は賭け将棋やってる連中に話を聞いてくるよ」
壮真は二本差しを腰に、小銭入れを帯に差し込み黒羽織を羽織った。朱色の房を揺らす十手を手に八丁堀の屋敷を後にする。翔一郎もそれに続いた。ちらりと視線を交わしてから、二手に分かれる。口に出さずともお互いの役割を理解し信頼している。そんな視線かどうかは知らない。
――――お奉行直々か。つまりは上様からのご指示ってわけだ。家勝様は将棋好きだからなあ。単純に勝負が観たいのか。それとも、才ある善太郎が気になるのか。上様のご意向に沿わない結果となれば、ただじゃすまないかもな。なるほど成親には任せられんてことだ。
八丁堀から商人街へと抜ける。江戸城下町で最も賑やかな場所だ。呉服屋を始めとする大店や口入屋、宿屋に食事処と行き交う人が足を止める場所がいくつも軒を並べている。大通りはいつもたくさんの人で賑わっていた。収穫の便りが人を笑顔にする秋の日、祭りも近いのかその足取りはみな軽かった。
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