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壱の一
しおりを挟む「父上、何か御用でしょうか」
母屋に向かい、父親が待つ居間へと足を進ませた壮真は、閉じられた襖の前に正座して声をかけた。
「ああ、休みのところ悪いな。入れ」
待っていたのだろう、間髪入れず返答がある。壮真はふすまを開け、一礼して部屋に入る。半身になり丁寧に閉めた。
父の頼政は落ち着いた色の着流しを身に着け、床の間を背にぴしりと座っていた。床の間には父直筆の掛け軸が飾られ、母が生けた白い菊がしんと静まった場を作っている。壮真は父の前に進むと、神妙な態で膝を折り座した。壮真を見る父の眼光は常に鋭い。壮真は顔を上げるのもはばかられ、膝の少し前、畳の縁に視線を定めた。
「少し奇妙な事件が起こってな。おまえに任すことになった」
「はい。承知いたしました」
視線はそのまま、腰から体を折る。
「奉行直々から頼まれた件だ。心してかかるように」
「はい……お奉行殿直々とは……それならば定町廻りのほうがよろしいのでは? 成親には話されたのでしょうか」
首を上げ、やや傾げながら壮真は尋ねる。別に不満はないのだが、奉行直々となれば大きな手柄にもなる。そういうのは大体、表がやりたがるのだが……。
「馬鹿者っ!」
だが、それは父親の逆鱗に触れたようだ。何となく思ったことを口にしてはならなかった。
「成親は表の仕事で手一杯だ。奴には風見家当主として危ない仕事はさせられん。おまえはそういう時のために離れにいると、わかっているだろうっ」
――――そういうことだったか。これは俺も間抜けだな。
「はっ。失礼いたしました」
再び頭を、しかし今度は深く下げた。
風見成親。彼は風見家の次期当主である。嫡男の壮真を跡継ぎにはさせられない。そう知った時、父の仕事は早かった。唯一風見家に残っていた末娘、壮真の妹、鈴に婿を取ることにしたのだ。それが成親。
さる関東在藩の旗本三男坊だが、礼儀正しく頭も良い。父に気に入られ、晴れて婿入りとなった。現在町奉行所の吟味方同心。ゆくゆくは頼政の跡を継ぐ。今現在は父の元、その責を全うできるよう日々努力している。
壮真は成親と距離を置いてはいたが、嫌いではなかった。気持ちのいい男だったし、なにより自分が放棄した重荷を背負ってくれたのだ。感謝こそすれ憎む筋合いはない。妹とも仲良くやっているようで安堵しているところだ。
というより、成親は元々、鈴が見初めた相手だった。壮真が優勝した撃剣試合で、三番手になった成親に鈴が一目ぼれした。
しかし、成親の実家は旗本と言っても名ばかりの貧乏旗本。しかも三男坊では嫁に行けないだろうと諦めていたところに、出来の悪い兄のおかげで婿取りの機会に恵まれた。鈴は、母を使って上手に成親との縁談を進めさせたのである。
さて、風見家の居間。父、頼政の小言は続く。
「おまえが臨時同心として残れたのは、奉行殿のお力添えあってのことだ。それを努々忘れるでない」
「仰せの通り、精進いたします」
壮真は元々定町廻り同心だった。成親を同心として奉行所にねじ込んだことで、壮真ははみ出した格好になったのだ。壮真としてはそれも覚悟のうえで父親に歯向かったのだから、さもありなんと諦念の心境。
だが、本来同心としての手腕を高く評価されていた彼は、奉行らの計らいで臨時同心の任に就くことを許された。臨時といっても忙しい時だけ駆り出されるばかりではない。表では探れない厄介な事件を密命として預かるのが本来の職務だ。
命の危険もあるが、壮真はありがたく受け取った。彼もまた、この仕事が好きだったのだ。裏の仕事は、闇に蠢く猛者たちと刃を突きつけ合うも珍しくない。一刀流の使い手でもある壮真は、そんなヒリヒリした現場を実は求めていた。
「ところで、翔一郎とはうまくいってるのか」
一通り、事件について説明した頼政は、退室しようとした壮真に声をかけた。地声がでかい頼政にしては遠慮がちな声だ。
「ああ、はい。お陰様で。ありがとうございます」
襖の後ろで壮真は笑みを作る。それから一礼し、引き手に手をかけ静かに敷居の上を滑らした。閉じるや否や、壮真は自分の父親が深くため息を吐くのを襖越しに聞いた。
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