偽夫婦お家騒動始末記

紫紺

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最終章

その1

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 擦れた畳の上を、固く絞ったぞうきんで丁寧に拭き上げる。力を入れすぎると、ささくれた畳がぞうきんにくっついて具合が悪い。縁側も小縁も既に拭き終わっている。障子も張り替えたし、古い長屋にしては小綺麗になった。あの別邸での大捕り物からひと月が経ち、季節はいつのまにやら晩秋の気配だ。

 ――――一年とふた月か……あっという間だったな。

 ふうっと、大きく息を吐き縁側から猫の額ほどの庭を眺める。庭の畑は既に収穫を終え更地に戻している。自分の着物がぶら下がっていた竿竹も、今は手持無沙汰、秋の空に静かに横たわっていた。
 既に常陸に帰るための荷物は風呂敷に包まれ、小縁に置かれている。中身に大したものはない。書物と衣服が少し、そして佳乃の位牌。それだけだ。

「ああ、ようやく解放されたよ。あ、掃除終わった?」

 陽気な声とともに障子戸が勢いよく開けられた。長屋ではいまだに若奥様気取りの紫音が、旅装姿で帰ってきた。

「終わったよ。全く、なぜ私が……」
「ご近所挨拶よりそっちがいいって、ハヤさんが言ったんじゃないか」

 長屋を去るにあたり、黙って出ていくわけにもいかない。採れたての野菜と子供らのお菓子を持って紫音は挨拶回りをしていた。それももう終わった。猫の餌も追加して持参したご隠居には、『なんだまだ女の姿か』なんて言われたけれど。

「まあ、そうだが……じゃあ、行くか」
「うん。日が高くなる前に出発しないと、もう日が短くなってるから」
「わかっている」

 二人はこれから、坂上政永の息がかかった商家、『三坂屋』に向かう。そこには二人の着替えと、二頭の馬が待っている。荷物を背負い、外へと出た。

「おまえ、本当に常陸に来るのか?」

 女ものの編み笠をかぶり、後ろに続こうとした紫音に、隼は今一度尋ねる。

「なんだよ。だって、ハヤさんのせいで俺はクビになったんだ。後の面倒は見るって約束だよ」

 何を今更、と唇を尖らせる。

「嘘をつけ、クビなんてなってないだろ。それに、私はそんな約束をしていない」
「またそんなこと言って。ちゃんと言ったよ。『私が責任を持つ』って」

 声真似をしながら、さっさと隼の前を歩く。外では長屋の住人が見送りに出てくれていた。ここで喧嘩しては間が悪い。隼はかしこまった表情で頭を下げ、皆の前を足早に通り過ぎた。

 ――――それは確かに言った。あの時は、そう言うしかなかったんだ。

「ハヤさん、往生際が悪いな」
「何を言うか。私はおまえの身を案じて……。わかってると思うが、もう偽の夫婦は解散だ。おまえがどうしても前田藩に来るというなら、男としてだと……私の家臣としてしか受け入れることはできない。そう言っただろう」

 賑わいにはまだ早い、静かな朝の街並みを歩く。いつもはごった返している大通りも、人が少なかった。紫音は、黙って隼の言葉を聞く。

「わかってるよ……それでいいって言ったろ。ほら、でもさ。かの信長公も美少年をそばに置いて……」
「だから、そういうのではないっ。おまえにはちゃんと武士としての仕事をしてもらう。ま、私は前田藩の剣術指南というお役目をいただいている。おまえは筋はいいが、我が流派の剣ではない。まずは修行からだな」
「ふうん、ほんっとにめんどくさいな、ハヤさんは」
「なんだと」
「いいよ、もうわかってるから。でも俺、言っておくけどそんなのすぐ習得しちゃうからね。伊達に闇稼業してないよ」

 ふふんと軽口をたたく。紫音はそれでも生半可な思いで隼にくっついて行くわけではない。これでも大目付直々の家臣として、それなりの地位と稼ぎはあった。それを全て捨てて隼について行こうと決意したのだから。

 ――――ハヤさんが素直になるには、まだ時間がかかりそうだね。仕方ないって思ってるよ。あんなふうに、最愛
の人を失ったんだもの。

 だけど、諦めるつもりはない。いつかまた、自分を見てくれる日が来る。それはそんなに遠くないはず。と、紫音は楽観していた。

 何度も洗って干した小袖と袴。浪人となった隼の『衣装』だ。それも今日、三坂屋で脱ぎ捨てる。そこで前田藩に仕える指南役に相応しい、仕立てのよい衣装が用意されているのだ。紫音は何気なく袖を指で触れる。

「どうした? 虫でもついてたか?」

 隼が視線をよこした。はっきりとした二重の双眸と高い鼻。精悍な顔立ちでありながら眼差しは優しい。

「ううん。もうこの着物も見納めかと思って」
「そうだな。私も着慣れて楽だったが。まあ、このような格好では城はおろか、篠宮の屋敷でもいられない」

 唇を緩ませたその笑顔に紫音の胸がきゅんと鳴る。だが、そんなこと気付きもしない隼は、つい先日のことを思い出していた。故郷に帰ると駒井に伝えたときの寂しそうな、でも無理やり作ってくれた笑顔。急に去りがたく思えた学びの場。子供たちに別れも言わずに来たことを少し後悔した。

「いつまで掴んでるんだ?」
「いいじゃない、もう少し。俺がずっと洗って干して、繕いしてたんだ」
「何を言ってるのか……おまえは……」

 紫音に袖を掴まれた隼は、なぜかその手を無下に払うことができなかった。『俺が洗って繕いして』。紫音の言ってることは嘘じゃない。ふた月にも満たない日々だったが、紫音は隼の妻を見事に演じていた。

 ――――演じていた。そうだ。演じていたのだ。それを……おまえはもう演技でなく私のところに来ると決めた……。

 華やかな江戸の町、大目付の家臣という地位を捨て、自分とともに田舎の小さな藩に来るという。本当にこれでよいのか、隼が迷わなかったわけではない。



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