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第8章
その4
しおりを挟む隼は微動だにせず、紫音と向かい合う。だが、凝視する隼の視線を避けるように紫音の視線は庭にあった。
「紫音」
急かす気持ちがこみ上げるが、あえてゆっくりと、重く呼びかけた。
「ハヤさん、本当に聞くの?」
庭に向けていた顔を隼に向ける。今まで見たこともないような苦し気な視線にたじろぐが、隼はすぐに応じた。
「当たり前だ。何を馬鹿な……」
「これはね。奥方も一条様も墓場まで持ってくつもりだったんだよ。それでも聞くの? ハヤさんに知られたくなくて、命まで……」
「墓場までだと……要も? まさか」
紫音は大きく首を振る。
「変なこと思ってるならそれは違う。奥方も要さんもハヤさんの信頼を裏切ってないよ。ハヤさんを苦しめたくないから……」
隼は立ち上がり掛けた膝を再び折った。そして厳ついばかりの肩を音もなく落とし、大きな右手で顔を覆った。
「もう十二分に苦しんでいる……もし、私の知らないことがあるのなら、それこそおまえが想像している以上の苦しみだ。佳乃が墓場まで持っていこうとしたのが事実であっても、それは変わらない。知らなくてもいい話にはならないんだ」
隼にも、薄々に気付いていることはあった。これは答え合わせに過ぎない。そしてそれを知って、自分がどんな行動に出るのか。それもわかっていた。
――――もう、仕方ないよね。佳乃さん、一条様。俺にはもう、隠せないよ。
紫音は覚悟を決めた。
その日、佳乃は一枚の文を懐に忍ばせ、急ぎ足である場所に向かっていた。胸の中では心臓が今にも踊りだすんじゃないかと思うほど飛び跳ね、頬は隠せないほど朱に染まっている。
今朝早く、夫の隼は何も言わずに屋敷を出て行った。今日もお城で頭の痛い合議があるのだろう。普段は剣を自在に振るい、学問に勤しむ質実剛健を絵に描いたような人。不器用で愛情表現もぎこちなかったけど、そこも好きだった。早く今のような慣れない騒動に振り回されない日常が戻ればいいのに。実の父親である藤十郎が隼をこの任につけたことに、佳乃は腹立たしく感じていたほどだ。
それが、午後の陽に照らされて隼の着物を縫っていた時、文が届いた。見慣れぬ使いだったが、身なりのきちんとした男に佳乃は不審に思わず文を受け取る。
『本日は少し早く終わった。これから外で会わないか。『花吹雪』で待っている』
隼の書だった。でも隼らしくないと二度見するが、間違いないと思う。
――――花吹雪って……あの、『花吹雪』……。
言わずと知れた出会い茶屋だ。男女が密会する秘密の場所。その中では値の張る高級茶屋だったが。佳乃はもちろん、行ったことなどない。けど、年頃のころには他のご息女と同様、その場所に興味津々でもあった。
――――でも、隼様がなぜ。こんなところに私をお誘いに?
首をひねる佳乃だが思い当たることもあった。
『お子を授かるには、場所を変えるのも一つと聞きました。この騒動が終わりましたら、どこか温泉などつかりに行きませんか?』
なかなか子が授からない。いや、それよりも二人でのんびりしたかった。気苦労で辛そうな隼をねぎらいたくて言った言葉だ。
――――隼様、もしかしたら真に受けて……。
そうかもしれない。いや、きっとそうだ。佳乃は慌てて支度をする。いつもより若く見える小紋の着物を着、可愛らしい簪を指し、文を胸に抱いて茶屋へと急いだ。
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