偽夫婦お家騒動始末記

紫紺

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第8章

その2

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「じゃあ、行くか」

 翌日、二人は早朝長屋を後にした。衣装は政永の使いが持参した小袖と袴、羽織を着用した。隼も常陸に残した屋敷には裃まで持っていたが、全ておいてきた。

「わあ。やっぱり正装すると男ぶりが上がるね」

 紫音がはしゃぐ。深い緑の璧緑色の小袖に濃藍色の袴は確かに趣味がいい。自分でも引き締まった気分ではあっ
た。

「うるさいな。おまえもそうやってみれば、立派な男だな」

 今日ばかりは紫音も隼の妻ではない。紫音は女姿で行きたかったようだが、そうもいかない。政永から指定された衣装は、隼と同じ小袖と袴。小袖には若者らしい瑞雲の柄の入ったこちらも趣味がいい。髪をつむじの辺りで束ね、若侍らしく結っていた。

「この姿も悪くない……でしょ?」

 こんな時でも懲りずに上目遣いで見上げてくる。隼は紫音の額を指で弾き、長屋の門をくぐった。早朝を選んだのは、当然長屋の連中に捕まることを恐れたからだ。早起きの女たちに見つかると面倒だ。二人は足早に寺町長屋を後にした。
 坂上の屋敷は、多くの大名たちが屋敷を構える武家屋敷街にある。その中でも城のようなたたずまいで他の屋敷とは一線を画していた。約束の時間までまだあるが、どうせ待たされる。門番に中に入れてもらうと、まずはその広さに驚いた。御殿までの間にも家臣たちの居住区や蔵が左右に置かれ、それを眺めながら石畳を進む。そしてようやく眼前に、主殿の玄関が見えてきた。
 そこで案内の者は去り、勝手知ったるであろう紫音が引き継ぐ。紫音は隼を屋敷の中ではなく、壁を回るように導いていく。着いた先は、今泉の別邸で見た庭(あれも相当な広さだった)よりも更に大きな庭、それに面した広縁だった。

「ここで待つようにって。ほら、上がろう」
「上がろうって。いいのか勝手に」
「大丈夫だよ。ほら、早く」

 一間(百八十センチ)はあろうかと思う立派な沓脱石にささっと草履を脱ぎ、紫音は上がっていく。ここは紫音に従うか、と下駄を預けた格好の隼は下駄ならぬ草履を同じように置くと広縁に腰を下ろし胡坐になる。謁見の間というわけでないから、どのみち非公式なご対面だ。堅苦しく思うことはないのだろう。
 続きの部屋は何十もの目新しい畳が敷かれた広々としたものだ。襖絵も春夏秋月を表した風景画が三面に描かれていた。

 ――――ここで殿様は、庭を眺めながら宴会でもするのか。いや、静かに歌でも詠むのかね。

 自分たちとは違う世界。隼の知る前田藩では、派手な宴や祭りが城内で行われることはほとんどなかった。直親の意志で、祭りは城下で庶民たちのものとの考え方があったからだ。
 隼は剣術指南であり、前田城で行われる行事では御前試合しか知らない。城にも美しい庭園があったが、ゆっくりと眺めることもなく、想像できなかった。

「待たせたな」

 小一時間も経っただろうか。紫音のそばにやってきたお庭番が何かを囁いてまもなく、背後の襖、春爛漫の桜が描かれた箇所が開いた。
 隼も紫音もさっと威儀を正し、深々と頭を下げる。共の者が後に続き、座布団を敷くとその上に声の主は静かに座った。

「二人とも、いつまでも床を見ていることはないぞ」

 驚くほど政永は砕けた言い方をした。隼はおずおずと顔を上げる。

 ――――これが……坂上政永……。

 弟の祥永には既に会っていたので予想はついていたが、やはりかなりの男前だ。年齢も思った以上に若い。それとも若く見えるだけか。
 弟の癖のある感じがない分、洗練された大人の落ち着きが際立つ。整った顔立ちは彫りが深く、さすがに気品があった。ついでに言うと、纏っている着物も一級品。白を基調にしたそれは高級絹特有の光沢があり、織りも見事だった。


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