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第5章
その4
しおりを挟む紫音は老中矢代宗右衛門直下の大目付、『坂上政永』の配下。武士というわけではないが、お抱えの間者とでも言うのか、所謂御庭番だ。
大目付は旗本の最上位の一つ、老中直下の役職で、大名や旗本等高家を監視、監察する職務を持つ。大きな藩であっても、彼らに目を付けられるのは避けたいところだ。
尤も幕府、将軍側に付いてる以上、正義というより彼らの思惑で動くことは自明の理である。
「政永様が懸念してるのは、前田藩の民じゃないよ。それは藩の責務だし関係ない。だけど、江戸城に納める年貢を誤魔化されるのは許さない」
炊き上がっていた米をおにぎりにし、味噌汁とともに二人で食べる。ゆらゆらと揺れる灯りを背に紫音が話す。やはり美しいと思う。だが、事は前田藩の大事だ。隼は紫音の話を集中して聞こうと、消え残る情念に蓋をした。
「ああ。なるほどな。それで手が入ったってわけか」
「俺達も分業だから、詳しいことは知らないんだけど、家老の今泉ってのが実権を握ったのがお気に召さなかったみたい」
今泉があの例の豪邸、江戸別邸を紀州の大金持ち大名、梅津藩から借り入れたのが一年以上前と言う。尚次殿が藩主となる以前の話だ。既に前田藩乗っ取りの策を練っていたということか。隼は愕然とする。
「でも、なぜ私に? おまえがここに来た理由は……」
「ああ……それは」
紫音はそこで何やら言い淀む。先ほどまでの軽口がつと止まった。
「なんだ。早く言え」
「ま、そのなんだ。こんなふうに一緒に暮らすみたいなのは、俺が勝手にしたことだよ。俺が言われたのは、ハヤさんと今泉の関わりを調べろってことで……」
「関わり? どういうことだ」
「ハヤさんが前田藩の『剣術指南役』で、腕が相当立つことを政永様はご存じだった。それが何故、脱藩したのか知りたかったんだ。脱藩は本当は表向きで、今泉の手先になってんじゃないかって。そのために江戸に出て来たんじゃないか」
「何を馬鹿なっ。そんなわけない。なんで……」
自分が今泉派と思われたことに隼は本気で憤る。食べ終えた味噌汁の椀を膳に叩きつけた。
「まあまあ。逆に尚次殿に謀反を起こすつもりとかもね。こっちだって情報ないんだ。だから俺達がいるんだよ。今泉の周辺を洗う奴、前田藩の本丸を洗う奴」
「じゃあ、おまえ、俺のことは全部知ってたのか……」
「うーーん。俺が聞いたのは、旦那が前田藩の剣術指南役で、次男の尚次殿が藩主になったと同時に脱藩し、江戸に出て来たってことだけ。俺は自分の目と足で探るのが信条だから、奥方がどうして亡くなったかとか知らなかったんだ。それは本当だよ」
こいつから本当だよと言われても、簡単に信じられるものではない。だが、重要なのはそこじゃないと思いなおす。
「それで、おまえはどう報告したんだ。その、政永様に。それと、他の連中が探ったこともわかるのか? 特に、今泉の周辺」
今泉があの別邸で何事かをしているのは明白だ。それを政永の配下の者、つまり紫音の同僚が調べているのなら手っ取り早い。つい乗り出す隼に紫音はやや後ろに身を引いた。
「焦んないで。まずハヤさんのことは、今泉の配下じゃないことは言明したよ。それどころか、なにか探っているようだって。多分、政永様と気が合うんじゃないかってさ」
「気楽に言うな。何が気が合うだ」
紫音にとっては戯言に過ぎないのか。いや、この『政永様』にだって、一大事な案件じゃないのかもしれない。前田藩の民も、今泉に相反する同僚も、殺された人夫たちのことだってこいつらには些細なことなのだ。それどころか、松元家はさっさとお払い箱にして、前田藩を将軍家直下に置くことだって有り得る。隼は苦々しい思いになった。
「私が今泉を探ってるのはいつ知ったんだ」
「つい最近だよ。ハヤさんが筆学問所がお休みのとき、どこ行ってんのかなあって……」
紫音は馬鹿じゃない。学問所が開かないときがいつかくらいは見当がついていた。それでも真面目な顔して出かけていく隼の行き先を探らないわけはなかった。隼は何も言わず、下唇を突き出すと横目でにらんだ。
「で……今泉のことだけど。俺も奴が何してんのかは知らないんだ。もちろん、つかんでるんだろ? そこんとこ」
いよいよ交換条件か。隼は口を真一文字に結びなおす。紫音は黒目勝ちの瞳で隼をじっと見つめた。
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