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第5章
その3
しおりを挟むどこからか虫の声が聞こえる。この長屋に来て、二度目の秋が訪れたのだと隼はぼんやりと思う。
どれくらい経ったのだろう。暗闇にふと目を覚ますと、隼の胸の上に紫音が覆いかぶさっていた。思わず艶のある黒髪に触れる。そうしてから我に返った。
「痛……」
無造作に頭を畳みの上に落とす。起きていたのか、それとも目覚めたのか、紫音が小声で異を唱えた。それを無視して、隼は箪笥の置かれた方に目を向けた。
雨戸を閉めていないので、障子戸から月明かりが漏れている。それでも箪笥の上に置かれた位牌は捉えることはできなかった。
「次からは後ろ向きにしてからにしよう」
隼の視線の先に気付いた紫音が言う。
「次なんかあるかっ」
自分の考えていることを知られた。恥ずかしくもあり悔しくもある。隼は突き放したように吐いた。
「あるよ……だって、俺、またねだるもの」
言いながら衣服が乱れたままの隼に体を寄せる。腕枕のような恰好になってしまった。
「おまえ……私の質問に答えてないな。それ次第では、これが人生最後の慰みになるぞ」
言葉とは裏腹に、隼は肩口に乗せられた紫音の頭に触れる。先ほどの続きのように下ろされた髪を指で梳いた。
「うーん。俺の正体ねえ。軽々しく言えないけど、バレちゃったら仕方ないね」
甘えるように、人差し指で隼の胸の辺りに字を書いてみせる。その腕をそっと攫う隼。紫音はそれを逃さず指を絡めた。参ったなと言わんばかりに、隼はため息をつく。
「今、なんて書いたかわかった?」
「ああ……全く……冗談じゃない」
絡められた指を、隼は敢えて外さなかった。男にしては細い、女にしては節が太い指の感触が何故か離れがたく、隼の心にまで絡みついていた。
――――大目……
紫音の人差し指はそう動いた。そこまで書けば、それが何を意味するかは馬鹿でもわかる。しかし、と、隼は考える。なぜ自分に目を付けて、しかも紫音のような者を遣わすまでしたのだ。人手が余ってるわけでもないだろう。
「藩でなにか起こっているのか?」
自分に監視が付いたとは思えない。彼らが追っているのは……。
「前田藩は海の幸にも野の幸にも恵まれた藩。小さい国ながらも民は飢えることなく教育も広く与えられてきた。でも、それは土地柄だけじゃない。正しい治世が為されなければ、結局は絵に描いた餅にしかならない。お家騒動の末に藩主となった尚次の治世から一年。前田藩に昔の面影はなくなってるよ」
「なんだと……それは本当かっ?」
予想しなかったわけではない。今泉が良からぬことを企んでる限り、治世は乱れていくだろうと。だが、僅か一年でそのようなことになるとは、さすがに考えていなかった。尚次自身は清廉潔白な方だし、要もいる。その他にも隼が信頼するに足る同胞も思い浮かぶ。
「何か知ってるのか? 紫音、教えてくれ。おまえの知ってること、全部だ」
やにわに体を起こす。こんなところで寝そべってる場合じゃないと絡めた指を解き放った。
「あん……。じゃあさ、一つ教えるごとにお情け一回ってどう?」
半身を起こし、紫音が甘えた声を出す。
「な、おまえはっ!」
「あ、嘘、冗談だよ」
拳を振り上げそうな気配に気づいた紫音は慌てて取り消した。それからゆっくりと起き上がるとはだけた着物を手早く直す。
「慌てないで。ちゃんと話すから。旦那もホントのこと教えてよ。隠してるでしょ。色々と」
「あ……まあ、そっちの交換条件なら飲まないこともない」
「うーん、魅力的じゃないけど、まあいいや。遅くなったけど、何か食べよう。それからでも遅くないだろ?」
行燈に灯りを灯す。ぼんやりと部屋の輪郭が浮かび上がる。隼はもう一度箪笥の上を見上げた。佳乃の位牌は日が落ちる前と変わりなく、何事もなかったようにそこにあった。
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