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第5章
その1
しおりを挟む「おかえり。お疲れ様」
長屋の腰高障子を引くと、いつの間にか紫音は戻っていた。袖を襷でたくし上げ、前掛けを付けて夕餉の支度の真っ最中だ。その姿を見て、隼はさらに憮然とする。無言で土間を抜け、小縁に腰を置いた。
「あ、たらい。どうぞ」
「ん……」
紫音の顔をわざと見ず、これまた無言で足を拭く。そのまま部屋へと入った。
「あの……ハヤさん、どうしたの? なんか様子が変なんだけど……」
どう切り出していいのかわからない。何も考えずに言葉にすれば、恐らく隼は感情のまま怒鳴ってしまいそうだ。
しかし、ここは長屋。大声を出せば長屋じゅうに筒抜けだ。そんなこと気にもせず、夫婦喧嘩を披露する連中も多い(時には妖しい声も聞こえてくる)が、隼はそれを避けたかった。いつものように文机の前に座り呼吸を整える。
文机は部屋の奥、土間からは横顔が見える位置だ。隼は壁を向いたまま、絞り出すような声で、ようやく一言放った。
「おまえは何者だ」
「え……」
一瞬、何を聞かれたのかわからなかったのか。紫音は息を呑んだ。
「な、何言ってんの。ハヤさんの妻、と言いたいとこだけど、実は足抜けしたか……」
「嘘を吐けっ」
ふざけた応答が我慢ならない。大声にならぬよう気を付けるが、感情を殺すのはもはや無理だ。腰から上の半身を向け、土間から顔を出す紫音を睨みつける。
「嘘って……ハヤさん……」
「先ほど大通りで、あの夜おまえを追っていたちんぴらに会った。いや、ちんぴらの格好などせず、立派な武士の姿だったがな」
不自然な間。睨まれた紫音は、自然と目をそらした。
「あ……ああ、そうなんだ……でも、大通りなんて学問所からの帰り道じゃないじゃん」
紫音は俯いたまま、前掛けで手を拭く仕草をする。
「帰ったらおまえが居なかったのでね。探しに行った。で? 私がいない間、おまえはいったい何をしてたんだ? 今まで、ずっと……」
「俺のこと、心配してくれたんだ……」
「そうだ。まんまとおまえに騙されてな。お目出度いと思って……」
「そんなことない。本当に嬉しいんだよ。俺……」
誰かに心配されるようなこと、なかったから……随分と小声で紫音は続けた。
「はんっ……全く嘘ばかりだな。抜けたのが偽りなら、陰間ってのも嘘だ。一体なんの目的で私に近づいたっ!」
握った拳を、隼は文机に叩きつけた。ガンっという硯が跳ねる重い音が鳴りひびく。
「陰間ってのは嘘じゃないよ。ま、客を取る前に商売替えしたんだけど……」
「なんだそれは……おまえ、まさか、今泉の……」
ハタと隼は思い付いた。こいつは今泉が放った間者なのか。あいつらにとって自分が危険人物になってるとは思えないが、それでも近づくのはそうとしか思い当たらない。何故それに今まで気が付かなかったのか。
「そうか。だから要が。あいつともグル……」
「違うっ。それは違うよ、ハヤさん」
紫音は必死に首を振る。そして、下駄を脱ぎ捨て部屋へと上がり、隼の横に正座した。
「前田藩とは関係ない。本当だよ……」
媚びを売るつもりはないが、体で覚えて来た技だ。上目遣いで隼を見る。その様を、隼は汚らわしいものでも見るように口をへの字にして視線を投げた。
「やめないか。ああ、おまえを抱かずに良かったよ。そのおかしな色気に迷わされていたら、今頃どうなってたか」
「おかしなって、酷いよ。俺、俺はハヤさんのこと……」
「なんのつもりだ……なにを言うつもりだ、貴様っ!」
衣擦れの音と共に隼が動いた。膝を立て、正座する紫音の胸倉をつかむ。まるで羽のように軽い。何の手応えもなく、紫音は膝から体を浮かせた。苦し紛れに隼の二の腕を掴むがちからが入らない。
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