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第4章
その7
しおりを挟む隼が紫音に会ったのは、それから七日ほど経った夜だった。男だと知っていても、それを信じるのは俄かには無理だった。美しいと言うにも語弊があると思うほど、別物の美だった。
月の光に照らされたこの世と思えぬほどの姿。一瞬、物の怪かと思ったぐらいだ。それなのに何の躊躇もなく彼を家に連れて帰ったのは何故だろう。隼は自分でのその行動に理由をつけがたかった。
『男と女、どちらの姿がいいのだ?』
追手がいなくなるまで、しばらくかくまうことにした隼。男装女装のどちらでも良さそうな紫音に尋ねる。
『女で。隼様の奥方ではいけませんか?』
思いも寄らないと言ったら嘘になる。紫音をかくまうと決めたとき、どこかで隼の脳裏に今泉の別邸で佐々木とした会話が過ぎっていた。
――――前田藩の連中に、篠宮隼はもう侍を捨てた。今の寺子屋の雇われ先生に満足している。そう思われるには格好の隠れ蓑だ。
そう思えば、紫音の提案は渡りに船であった。それだけだのことだ。と隼は思おうとうする。邪な想いは何もないのだと。
一緒に暮らしていて、思った以上に紫音が何でも出来ることに驚いた。売れっ妓陰間だったころは、それこそ箸より重いものを持たなかったのではないか。修行時代にしても、家の仕事などはしていなかっただろう。尤もそれよりも辛い日々を過ごしていたのは想像に難くないが。
『田舎にいたころは、なんでもやってたから』
陰間として売られるまでの話だ。まだ年端もいかない頃は、有無もなく家の労働力となっていたのだ。そうして懸命に働いても、身売りさせられる。親もどうしようもないのだろうが……。
前田藩では、恵まれている土地柄もあるが、領民たちにそのような苦しい暮らしはさせていないと自負している。紫音が前田藩の民でないのは残念だが、どのような藩でも領民を飢えさせてどうする。そんな憤りも隼にはあった。
――――同情だ。同情してるだけだ。そして、利用価値もあった。
今泉の別邸に運び込まれたものが何かを薄々わかっていても、確たる証拠を握れない。やはり館に忍び込むしかないのかと、隼は思案していた。二日前、遠巻きに屋敷を見て回ったが、付け入る隙はなさそうだ。
ぐったりして帰ると、紫音がいつものように笑顔で迎えてくれた。足を洗う桶を用意し、心配そうに隼の顔を見上げている。
『どうしたの? 疲れてるみたいだけど』
そんなふうに聞く紫音に、在りし日の佳乃を思い出す。そう言えば少し前、一条要がこの長屋を訪れたという。一体今更何の用だ。
――――私が新たな所帯を持ったこと。驚いただろうな……呆れたか。いや、あいつだって味方じゃない。それどころか、佐々木たちと同様、今泉の手足になっているのかもしれない。騙せたのならそれでいい。
『顔も態度も男前だよね』
軽い気持ちで言っただけだ。だが、紫音がそう言った途端、隼の胸は騒ぎ、頭に血が上った。
『何も知らんくせに』
勢い毒づいてしまった。一瞬にして隼の胸に去来したのは。
――――おまえまで、要に思いを寄せるな。
佳乃がそうだったわけじゃない。そんなはずはない。疑いを胸の奥にしまって閉じ込めていたはずなのに、からくり箱のように突然顔を出した。おまけに要が以前にも長屋に来ていたと知り、益々混乱した。
――――あいつは一体、何を考えている。
別邸に忍び込むこともままならず、歯痒い思いをしているのに、これ以上思い悩む話は止めて欲しい。それが隼の正直な想いだった。紫音に対するおのれの気持ちも、誤魔化してるようでどうにも座りが悪い。
そう願ったのも束の間、隼はさらに悩むことに遭遇してしまった。その日、いつも通り長屋に戻ると、どういうわけか紫音の姿がない。きちんと整えられた部屋には人気がなかった。
――――まさか……。連れ去られたのではないだろうな。
隼は腰を落ち着けることもなく、長屋を飛び出す。紫音が籤を納めている寺やたまに行くと聞いていた市場に走るが姿がない。
――――どこへ行ったのだ。本当に連中に見つかったのか?
変な汗が額に滲む。大通り、紫音と出会ったあたりまで足を延ばすが、彼の姿はなかった。だが……そこで隼が目にしたのは意外な光景だった。
「え……そんなはずは……嘘だろ」
大通り、何人かのしっかりとした身なりの武士達が歩いているのが目に入った。五人ほど、集団になって歩いているので同じ藩の者なのだろう。いや、藩士というか、江戸城に仕える上級武士ではないか。そう思えるほど、仕立てのいい着物に袴。そして二本差しもひと目で銘入りとわかるものだった。
――――あいつは……。
その中の一人に隼の目は釘付けになった。体格が良く、先頭を歩くのは一番の上位者なのだろう。太い眉に細い目のその男。間違いなく見覚えのある野郎だった。その時は上級武士などではなく、茶屋街が雇ったチンピラ風情だったが。
――――どういうことだ。これは……。
人の行き交う大通りで、隼の足が止まる。先ほどまでの汗が冷えていく。忙しなく歩みを進める人々のなか、完全に浮いている一団の背中を見送る隼、いつしか両のこぶしをぎゅっと握っていた。
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