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第4章
その6
しおりを挟む隼は日の明るいうちに確かめようと、再び今泉の別邸を訪れた。その日は筆学問所に行く道すがらであったため、いつもの着流し姿だった。それが後悔することとなる。
「おお、貴殿は……篠宮殿ではないか」
運河を覗き込みながら歩いている隼の背中に、野太い声が被さってきた。ぎくりと後ろを振り返る。好奇心と優越感を混ぜ合わせたような、不快な笑みを浮かべる身なりのいい武士が立っていた。
佐々木勇悦、今泉の家臣で隼とは同年代の藩士だ。あの暗がりで見かけた顔見知りの一人だった。
「おや……佐々木殿か。こんなところで何をしているのだ?」
「いや、それはそっくりこっちの台詞だよ。私はここ、今泉邸で江戸詰めのお役に付いている」
そうだろうよ。おまえの昨夜の凶行、この目で見たからな。隼は心の中で毒づく。だが、そんなことはおくびにも出さず。
「おお、そうか。ここは今泉殿の江戸邸であったか」
と驚いた様子を見せた。
「それで? 貴殿は何をしておったのだ? なにか銭でも落としたか?」
人を小馬鹿にしたいやらしい笑みで佐々木はなおも尋ねてきた。よっぽど自分を馬鹿にしたいのだろうな。隼は貼り付けた笑顔で応じた。
「そうなんだ。この運河に……でも見つかりそうにない」
「ははっ。天下の指南役も、お役がなくなれば惨めなものだな」
悔しい思いがないわけではない。だが、今の段階で敗者は間違いなく隼の方だ。今泉邸を見張っているなどと勘ぐられても困る。
「いやあ。まあなあ。でも、宮仕えも無くなれば気楽なものだ」
などと言って、踵を返そうとした。
「まあそう急ぐなよ」
さっと手を肩に触れられる。貴様の小汚い手に触れられるなど我慢ならない。今までならそう思うより早く、体が動いてこいつの背後に回り込み、動きを封じただろう。だが、隼は耐えた。耐えて甘んじてその手を受け入れ振り向く。
「なんだ? まだ用があるのか?」
「いや、なんだ。貴殿、守親殿の失墜とともに脱藩したが、まだ尚次殿や今泉殿に恨みでもあるのかとな。こんなところをうろついているからさ」
正直ぎくりとした。間抜け面しながらも、馬鹿ではないらしい。だが、恐らく隼に難癖をつけたいだけだ。そんなこと本気で思ってやしない。
「まさか。私はもう江戸での生活を楽しんでいるんだ。暮らしに事欠かない給金もいただいておるし、それなりにやりがいもある」
「へええ。まさか、もう所帯を持っているわけじゃないだろうな? あの美しい奥方が亡くなってまだ一年だぞ?」
隼は口の中に、苦いものが上がってくるのを感じた。既に肩から奴の手は外されているが、今にも眼光鋭く睨みつけ、閃光一瞬ぶん投げそうだ。
「いやあ、ははっ。実はそういう話もある。一人では不便でな」
嘘を吐く自分に反吐が出た。けれど、今はこいつに微塵の疑いも持たせてはならない。そう心に決めた隼は不本意ながら嘯いた。この時はまだ、紫音と出会ってはいない。
「え……そうか。それは驚いたな。まあ……生き方はそれぞれだな」
呆れたのか、あまりにもクズ過ぎて馬鹿にするにも足らぬと白けたのか、佐々木はそれだけ言うと今度は逆に踵を返そうとした。
「そうだ。佐々木殿。貴殿は将棋が得意であったな。またどこかで指そう」
「あ、ああ。そうだな、じゃあな。貴殿ももう行け。他の連中に見つかるとまた面倒だぞ」
別に悪いことをしたわけでもないのに(実際はしてるのだが)、佐々木は優しそうな言葉をかけ、そそくさと別邸へと戻っていった。その後ろ姿を見ながら、へらへらとした表情は険しいものへと変わる。
――――なんというざまだ。しかし、今は耐えるしかない。
あの男がウロウロしている浪人に気付いて声をかけたのは、やはりここをうろつかれたくない理由があるのだろう。運河の岸には、船が乗り付けた跡がいくつも残っていた。目を凝らしてみれば、錆色が混ざった土も見える。確かにおかしな浪人に嗅ぎつけられたくはないはずだ。
佐々木が言うように、また他の藩士に見咎められてはたまらない。後ろ髪を引かれる思いではあったが、隼はその場を立ち去った。
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