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171 『穴』にて(3)
しおりを挟む怜の読み通りだった。
高遠はしばらく無言で怜のかたわらに突っ立っていた。薄目で様子を伺う。青白い顔だった。手に取るようにわかる。頭の中で、高遠は抑えられない衝動を抑えようと足掻いている。
無駄だよ。あんたは抵抗できない。
怜は顔を精一杯動かした。
「窓がないってことは、ここは……『穴』の底だ。誰もいないとこで王様気取り。それが誰にでも通用するっていう発想自体が、ごほっ、妄想でしかない」
高遠の顔が、今度はみるみるうちに赤くなっていく。脳の血管が切れるかと思うほどの怒りが全身を震わせ、目を血走らせる。
唐突に、高遠は怜のシャツを掴んで引きずろうとした。足が繋がれているのに舌打ちし、銃で鎖を撃つ。跳弾が飛んだのも気にせず、高遠は怜をむんずと掴んだ。
「何すんだ!」
怜の抵抗を無視し、高遠はひたすら怜を引きずり始めた。半端な鎖が床でジャラジャラ鳴り、手錠のせいで肩が外れそうだ。何よりも、肋骨や腹、それに頭が痛すぎる。
高遠は部屋の外に出ても、スピードを緩めなかった。怒りに任せて段差も何もかもお構いなしだ。怜は痛みで気絶しそうになりながら、成すすべもなく引きずられていく。
一体どこへ連れて行かれるんだろう。不安と一緒にエレベーターに放り込まれ、怜は朦朧と高遠を見る。怒りのあまり無表情になった顔で、高遠は階数パネルをじっと見ていた。階数が……なんだか多い。一体いくつあるんだろう。
エレベーターはどんどん上がっている。『穴』の底から果てしなく天へ向かうその長さに、怜は微かに恐怖した。どれだけ深い場所に高遠は自分の本拠地を作ったのだろう。黒く重い感情を満々と湛えた沼の底に潜み続け、高遠は確かに狂ったのだ。
場にそぐわない軽やかな音と一緒に、エレベーターは止まった。
広い空間に引きずり出されると、怜はポカンと口を開いた。
そこは……そこは光があふれる空間だった。ほとんど全面がガラスになっていて、色あせた人工芝の向こうに空が広がっている。昇り始めた太陽の光が左から射し込んでいて、そのあっけらかんとした明るさに、怜は混乱した。
高遠はそんな怜に構わず、窓際へ引きずっていくと怒鳴った。
「見ろ。私が今から手に入れるものを。これこそ、我が国の人間が取り戻したいと望んでいるもの。私はこの場所を足掛かりに、この光景を作り替えるのだ。お前は見たくないのか。ここに人が戻ってくるのを」
怜はさっきより、さらに驚愕して外を眺めた。
見たことはなかった。でも、それが何か怜には直感でわかった。
『穴』だ。戦争で開いた『穴』の縁に、今自分はいる。数多の人間の悲しみを呑み込んだ巨大な深淵が、目の前に広がっている。
しかし、怜が驚愕したのは『穴』ではなかった。
想像していたのと全く違うものに、怜は驚いたのだ。
そこは、一面の緑だった。よく見れば瓦礫が延々と続いていることはわかる。あちこちに高いビルが突っ立っているし、うねる波のような隆起は道路と建物とが織りなすリズムだ。なのに、最初の印象はすべてを覆い尽くす緑だった。
遠く霞む南の方には、一際濃い緑が広がっている。おそらくあれが中心だと怜は思った。空気は澄んでいて、鳥が羽ばたいている。中心の向こう側には水が広がっていた。人間が管理しなくなった川や海が街を浸している。
半減した人間たちをよそに、自然は『穴』をいつの間にか塞いでいたのだ。
床に転がされたまま、怜は唖然として眼下の光景を眺めていた。怜のイメージでは、『穴』は深く黒々とした底なしの空間だったのに、実際は正反対だった。
「私はここに都市を作り直す。インフラを復活させ、国家の中枢機関を建てる。戦前と同じような……」
怜は高遠の演説を聞いていなかった。
心が凪いでいく。
自分が抜け出そうともがき続けた『穴』は、いつの間にか緑に塞がれていたのだ。春の朝の太陽に照らされた『穴』は、穏やかな風に吹かれ、あくびをするように波打っている。
微笑みを口元に浮かべて、怜は目を閉じた。
優しくて、でも強引でしたたかな緑は、思いのままに人間の過ちの上に君臨し、自分たちの王国を築く。物言わぬ草花こそが廃墟の王なのだ。
同時に、怜は自分と高遠との愚かさを想った。いつまでも深い場所に潜って、泥にまみれているなんて。高遠はこれを見て気づかないんだろうか。時折浮かび上がり、窓のない穴底からこれを見るだけの人生が、いかに空疎なのかを。
「高遠」
怜は目を閉じたまま、静かに口を開いた。何かしゃべっていた高遠が、怜の呼びかけに黙り込む。
「世界は弱いものでできている。あんたも……もう少し自分の弱さを認めてやることができていたら、もしかしたら……」
沈黙が流れた。
もうそんな日は来ない。来ないんだ。
遥か遠くから、キィィィィンと空気を切り裂く音が聞こえ始めていた。
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