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169 『穴』にて(1)
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「本当の……地獄?」
「ああ。考えたことがないなら、あんたはよっぽどの間抜けだ。薫さんは気づいてくれたけどな。元凶のあんたがわかってないなんて、オレは最近まで思いもしなかった」
「私が、ごほっ、何を」
怜は静かに言った。
「そう、あんたは自分に都合が悪いことは、きれいに忘れる。……なぁ、一番根っこの部分だよ。どうしてオレが、あんたに連れられてノコノコ『東京』に来たのか」
高遠の目が見開かれた。
「あんた、自分が母さんとばあちゃんと、もうひとりを殺したのを忘れてるわけじゃないだろうな。オレが気づいてないと思っていたとしても、あるいはオレが知っていて反抗できない弱い奴だと思っていたとしても、どっちにしても、あんたは最初からズレたこと考えてたってことだ。
鎮静剤を打って車で連れ出すとこまではまぁ、あんたはオレの抵抗を奪っていた。でもさ、その後は別に逃げ出すことは可能だったんだ。オレがあんたの支配下にとどまった理由は何か、あんた一度も疑問に思ったことないのか」
怜はテーブルの天板に載せた足を緩めなかった。銃声がしたのに誰も来ないところを見ると、高遠が呼ぶまで人払いがしてあるのだろう。
どこまで粘れるか、怜は冷静に計算していた。薫さんにこの場所を知らせるには、もう少し手順が要る。
高遠は苦しそうな息を漏らし、目をつぶった。怜は冷ややかにそれを観察する。殺さず、生かさず、苦痛を引き延ばす角度を考える。
「オレはずっと、あんたに復讐できる最高のタイミングを狙い続けていた。最初の『政府』の奴から解放された後、オレは自分の外見に見合った清純なイメージが、周囲の人間だけでなく、あんたにも通用することを理解した。
だから、オレは自分に暗示をかけたのさ。演技じゃなく、本当に自分は心の底から清楚で純粋で、父親に操られる弱い人間なんだって信じ込んだ。
そして……薫さんに会った。
薫さんは他の誰とも違った。冷静で頭が良くて、たくさんの人を束ねるリーダーシップとカリスマ性があった。一目でオレたちは惹かれ合った。オレは思ったんだ。この人と一緒なら、どんな目的も達成できるって。
おまけに偶然だけど、オレは薫さんがあんたを憎んでいることも知った。夢でうなされるぐらいね。
オレは生まれて初めて、自分から薫さんを誘惑しに行った。戦闘で高ぶって我慢できなかったと自分に信じ込ませて。あんたの真似して都合よく自分に暗示をかけて、オレは何も知らない間抜けであり続けた」
くすりと笑う。高遠は今や、怜の雰囲気に呑み込まれ、黙って話を聞いていた。
「薫さんは気づいたんだ。清楚で純粋なオレの下に、そういうオレを利用しているオレが潜んでいるって。そして、びっくりしたことに……したたかなオレの方も愛してくれた。オレが自分の本性を出して生きることを、薫さんは望んでくれた。まぁオレの暗示も大したことなかったのかも。江藤さんも一発でオレの本性を見破ったからね。
……それはいいとして、オレは自分で思っている以上に、あんたに似てる。あんたに踊らされたのは、そういう部分だ。2年前の抗争の時にオレが焦ったのは、抗争後に薫さんに捨てられるかもしれないってことだった。
なんだかんだ。オレは薫さんに依存しようとしていた。神経をすり減らして生きるのに、オレは疲れていたんだ。疲れて、何が自分の本性なのかわからなくなって、もう、弱い自分が本当の自分なんだって心の底から感じてた。
だから焦ったんだ。薫さんがいなくなったら、オレは何もできなくなる。その時には、復讐がどうこうよりも薫さんに愛されることに必死だった。薫さんの役に立ちたくて、薫さんのことばかり考えて。そして……あんたの言葉にオレは踊らされた。
薫さんを失うことに耐えられず、オレは薫さんを撃った」
声が喉に引っかかり、掠れた。自分は確かに弱かったのだ。自分のすべてを否定してしまうほどに。薫と自分との間にできた、確かな繋がりを断ち切ってしまうほどに。
嗚咽を呑み込むと、喉が鳴った。
オレはあの時、確かに自分を殺した。
目を上げ、もう一度足を踏みしめる。踏みつぶされた蛙のような声を高遠に上げさせてから、怜は静かに続けた。
「オレはあんたに似てる。相手が振り向いてくれなくなると思ったら、すべてを破壊してしまうところとか。そういう、子供っぽいとこが共通してる。
あんた、オレが知らないと思ってるんだろ? 母さんとばあちゃんの他に、あんたが長野で誰を殺したのか」
高遠は無言だったが、視線を逸らした。
「しらばっくれたって、無駄だよ。母さんは弱くなかったし、あんたを追い出す計画もしてた。勤め先の人に相談してたし、その人のことを信頼して、愛して、あんたを追い出したら再婚しようと思ってた。自分が薫さんのお母さんの時と同じことをされるってわかったから、あんたはその人と母さんを殺した。おまけに邪魔だからって、ばあちゃんも殺した。みんな……オレの大事な人たちだったのに」
涙が一筋、怜の頬を流れ落ちた。冷たい憎しみの目から生まれた涙は怜の頬を焼き、天板にぽたりと零れた。
「薫さんのお母さんの話、オレ薫さんから聞いたんだ。あんたがどれだけ酷いことをしたのかもね」
体重をかけると、高遠が呻く。重心をかけて、怜は顔を近づける。
「薫さんのお母さんは、すごい人だった。何よりすごかったのは、ちゃんと自分が好きな人の方を向いて、しっかりその人を愛することで人生を立て直したことだ。オレの母さんも同じことをしようとしていた。
わかる? あんたは何回も同じことを繰り返してる。学習能力なんか全然ない。そうやって、自分が欲しい人に嫌われたら、相手を殺して、いい気になってる。
次は薫さん? オレを人質にして言うことを聞かせて、ダメなら殺し合いを楽しむ?
オレを誘拐したのだって、どうせチンケなこと考えてるんだろ。『東京』は自分のもので、オレが全体をまとめたから、その結果を横取りすれば簡単に『東京』全体を手に入れられるって。小さいんだよ、あんた。ほんとに、嫌になるほど、小さい」
横取りするという言葉に、高遠が反応した。
「横取り……ではない、私の……ものだ。だからお前を……隅に置いて」
ガン!と天板を打ち付ける。ぐぇ、という声を上げて高遠が黙る。
「認めろよ。あんたとオレは似ている。でもあんたは薫さんに憎まれて、息子のオレは薫さんに愛されてる。対等にひとりの人間の愛を争って、あんたは負けてオレは勝った。その事実を認めたくないから、オレの地位を丸ごと手に入れてオレだけを排除したいんだって。そうだよな。息子に負けたなんて、情けなくてしょうがないよな」
怜は耳を澄ませた。
複数の人間の足音がする。ここまでか……。
「日本全体のリーダーなんか、お前がなれるわけない。『東京』でさえ、オレにやらせることでしか、統一できなかったんだ。
自分がどういう人間か、本当はわかってるから、あんたはオレ相手に偉そうな態度をしたかったし、絶対に自分の手でオレの息の根を止めようと考えた。でも人前でオレを殺せば、惨めな自分の本性が他人に知られてしまう。誰もいないとこで、こっそり、オレを殺したいんだ。あんたはそういう奴さ」
高遠をせせら笑うと同時に、部屋のドアが開く音が聞こえた。天板から離れ、ドアに向かって走る。入ってきた奴がアサルトライフルを突き出す。さっと間合いを詰め、銃身を掴んでそいつをひっくり返す。
乱闘になだれ込む寸前、ガァン!と銃声が響き、怜は後ろを向いた。高遠は細い煙の上がる銃口の奥で、怜を見つめていた。怖ろしいものを見る目つきだ。撃たずにいられなかったという茫然とした顔だった。ホラー映画の登場人物が最悪のものを見た時の目で、高遠は自分の息子を見ていた。
「で? ひとりじゃオレを跳ね除けられなかったっていう事実を、あんたは認められる?」
冷静に言われた言葉に、高遠は再び銃口を上げた。
「……跪け。お前の望みどおり、殺してやる」
「ああ。考えたことがないなら、あんたはよっぽどの間抜けだ。薫さんは気づいてくれたけどな。元凶のあんたがわかってないなんて、オレは最近まで思いもしなかった」
「私が、ごほっ、何を」
怜は静かに言った。
「そう、あんたは自分に都合が悪いことは、きれいに忘れる。……なぁ、一番根っこの部分だよ。どうしてオレが、あんたに連れられてノコノコ『東京』に来たのか」
高遠の目が見開かれた。
「あんた、自分が母さんとばあちゃんと、もうひとりを殺したのを忘れてるわけじゃないだろうな。オレが気づいてないと思っていたとしても、あるいはオレが知っていて反抗できない弱い奴だと思っていたとしても、どっちにしても、あんたは最初からズレたこと考えてたってことだ。
鎮静剤を打って車で連れ出すとこまではまぁ、あんたはオレの抵抗を奪っていた。でもさ、その後は別に逃げ出すことは可能だったんだ。オレがあんたの支配下にとどまった理由は何か、あんた一度も疑問に思ったことないのか」
怜はテーブルの天板に載せた足を緩めなかった。銃声がしたのに誰も来ないところを見ると、高遠が呼ぶまで人払いがしてあるのだろう。
どこまで粘れるか、怜は冷静に計算していた。薫さんにこの場所を知らせるには、もう少し手順が要る。
高遠は苦しそうな息を漏らし、目をつぶった。怜は冷ややかにそれを観察する。殺さず、生かさず、苦痛を引き延ばす角度を考える。
「オレはずっと、あんたに復讐できる最高のタイミングを狙い続けていた。最初の『政府』の奴から解放された後、オレは自分の外見に見合った清純なイメージが、周囲の人間だけでなく、あんたにも通用することを理解した。
だから、オレは自分に暗示をかけたのさ。演技じゃなく、本当に自分は心の底から清楚で純粋で、父親に操られる弱い人間なんだって信じ込んだ。
そして……薫さんに会った。
薫さんは他の誰とも違った。冷静で頭が良くて、たくさんの人を束ねるリーダーシップとカリスマ性があった。一目でオレたちは惹かれ合った。オレは思ったんだ。この人と一緒なら、どんな目的も達成できるって。
おまけに偶然だけど、オレは薫さんがあんたを憎んでいることも知った。夢でうなされるぐらいね。
オレは生まれて初めて、自分から薫さんを誘惑しに行った。戦闘で高ぶって我慢できなかったと自分に信じ込ませて。あんたの真似して都合よく自分に暗示をかけて、オレは何も知らない間抜けであり続けた」
くすりと笑う。高遠は今や、怜の雰囲気に呑み込まれ、黙って話を聞いていた。
「薫さんは気づいたんだ。清楚で純粋なオレの下に、そういうオレを利用しているオレが潜んでいるって。そして、びっくりしたことに……したたかなオレの方も愛してくれた。オレが自分の本性を出して生きることを、薫さんは望んでくれた。まぁオレの暗示も大したことなかったのかも。江藤さんも一発でオレの本性を見破ったからね。
……それはいいとして、オレは自分で思っている以上に、あんたに似てる。あんたに踊らされたのは、そういう部分だ。2年前の抗争の時にオレが焦ったのは、抗争後に薫さんに捨てられるかもしれないってことだった。
なんだかんだ。オレは薫さんに依存しようとしていた。神経をすり減らして生きるのに、オレは疲れていたんだ。疲れて、何が自分の本性なのかわからなくなって、もう、弱い自分が本当の自分なんだって心の底から感じてた。
だから焦ったんだ。薫さんがいなくなったら、オレは何もできなくなる。その時には、復讐がどうこうよりも薫さんに愛されることに必死だった。薫さんの役に立ちたくて、薫さんのことばかり考えて。そして……あんたの言葉にオレは踊らされた。
薫さんを失うことに耐えられず、オレは薫さんを撃った」
声が喉に引っかかり、掠れた。自分は確かに弱かったのだ。自分のすべてを否定してしまうほどに。薫と自分との間にできた、確かな繋がりを断ち切ってしまうほどに。
嗚咽を呑み込むと、喉が鳴った。
オレはあの時、確かに自分を殺した。
目を上げ、もう一度足を踏みしめる。踏みつぶされた蛙のような声を高遠に上げさせてから、怜は静かに続けた。
「オレはあんたに似てる。相手が振り向いてくれなくなると思ったら、すべてを破壊してしまうところとか。そういう、子供っぽいとこが共通してる。
あんた、オレが知らないと思ってるんだろ? 母さんとばあちゃんの他に、あんたが長野で誰を殺したのか」
高遠は無言だったが、視線を逸らした。
「しらばっくれたって、無駄だよ。母さんは弱くなかったし、あんたを追い出す計画もしてた。勤め先の人に相談してたし、その人のことを信頼して、愛して、あんたを追い出したら再婚しようと思ってた。自分が薫さんのお母さんの時と同じことをされるってわかったから、あんたはその人と母さんを殺した。おまけに邪魔だからって、ばあちゃんも殺した。みんな……オレの大事な人たちだったのに」
涙が一筋、怜の頬を流れ落ちた。冷たい憎しみの目から生まれた涙は怜の頬を焼き、天板にぽたりと零れた。
「薫さんのお母さんの話、オレ薫さんから聞いたんだ。あんたがどれだけ酷いことをしたのかもね」
体重をかけると、高遠が呻く。重心をかけて、怜は顔を近づける。
「薫さんのお母さんは、すごい人だった。何よりすごかったのは、ちゃんと自分が好きな人の方を向いて、しっかりその人を愛することで人生を立て直したことだ。オレの母さんも同じことをしようとしていた。
わかる? あんたは何回も同じことを繰り返してる。学習能力なんか全然ない。そうやって、自分が欲しい人に嫌われたら、相手を殺して、いい気になってる。
次は薫さん? オレを人質にして言うことを聞かせて、ダメなら殺し合いを楽しむ?
オレを誘拐したのだって、どうせチンケなこと考えてるんだろ。『東京』は自分のもので、オレが全体をまとめたから、その結果を横取りすれば簡単に『東京』全体を手に入れられるって。小さいんだよ、あんた。ほんとに、嫌になるほど、小さい」
横取りするという言葉に、高遠が反応した。
「横取り……ではない、私の……ものだ。だからお前を……隅に置いて」
ガン!と天板を打ち付ける。ぐぇ、という声を上げて高遠が黙る。
「認めろよ。あんたとオレは似ている。でもあんたは薫さんに憎まれて、息子のオレは薫さんに愛されてる。対等にひとりの人間の愛を争って、あんたは負けてオレは勝った。その事実を認めたくないから、オレの地位を丸ごと手に入れてオレだけを排除したいんだって。そうだよな。息子に負けたなんて、情けなくてしょうがないよな」
怜は耳を澄ませた。
複数の人間の足音がする。ここまでか……。
「日本全体のリーダーなんか、お前がなれるわけない。『東京』でさえ、オレにやらせることでしか、統一できなかったんだ。
自分がどういう人間か、本当はわかってるから、あんたはオレ相手に偉そうな態度をしたかったし、絶対に自分の手でオレの息の根を止めようと考えた。でも人前でオレを殺せば、惨めな自分の本性が他人に知られてしまう。誰もいないとこで、こっそり、オレを殺したいんだ。あんたはそういう奴さ」
高遠をせせら笑うと同時に、部屋のドアが開く音が聞こえた。天板から離れ、ドアに向かって走る。入ってきた奴がアサルトライフルを突き出す。さっと間合いを詰め、銃身を掴んでそいつをひっくり返す。
乱闘になだれ込む寸前、ガァン!と銃声が響き、怜は後ろを向いた。高遠は細い煙の上がる銃口の奥で、怜を見つめていた。怖ろしいものを見る目つきだ。撃たずにいられなかったという茫然とした顔だった。ホラー映画の登場人物が最悪のものを見た時の目で、高遠は自分の息子を見ていた。
「で? ひとりじゃオレを跳ね除けられなかったっていう事実を、あんたは認められる?」
冷静に言われた言葉に、高遠は再び銃口を上げた。
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