127 / 181
127 【2年前】(73)
しおりを挟む
「何読んでるんだ」
ぼそっと投げかけられた質問に、江藤は顔を上げた。
薫が首だけ動かし、こちらを見ている。怜に撃たれ、ここに運び込まれてから10日以上経っていた。
薫の両目は薄い膜がかかったように光がなかったが、それでも、薫が人間を認識したこと自体が大きな進歩だった。その人間が江藤だと気づき、意味のある言葉を発したのなら尚更だ。数日前に意識が戻ってから誰の問いかけにも無反応で、薫はただ眠ったり起きたりを繰り返していた。
銃弾は、紙一重で急所を逸れていた。それ自体が奇跡のように江藤には思えた。あるいは撃った者の最後の良心だったのだろうか。
江藤は本を閉じ、膝に置いて薫と視線を合わせた。視界の隅で、点滴がぽたん、ぽたんと小さく落ちる。ずっと天井を眺めてほとんど動かなかったくせに、突然どういう心境の変化だろう。無表情な顔からは、薫が何を考えているのかは窺えなかった。
「『白鯨』だよ。読んだことがなかったからな。暇つぶしに読みたいって言ったら、田嶋が文庫本を調達してくれた」
「そうか」
薫の顔を眺めながら、江藤は腕を組む。遮光カーテンが夏の日差しを遮っていて、病室の中は落ち着いた明るさだ。広めの個室には外の音がほとんど入ってこず、ピッピッという規則正しいモニター音だけが部屋の静けさを深めていた。
「……どこまで読んだんだ?」
「鯨のステーキを食べてるとこまで。この話、筋ってもんがないんだが、ほんとに名作なのか?」
薫はそこで初めて、我に返ったように含み笑いをした。
「面食らう話だろう? ただひたすら、どうでもいいことばかり。たいした筋なんかない。でもそれが……面白い」
最後はかすれた声だった。
こいつは本当にこの本を面白いと思ったのだろうか。江藤はそんなことを考えていた。脱線ばかりの人生。生き抜くためには、それをなんとか笑ってやり過ごすしかない。人生は何ひとつ思い通りにはいかない。薫は物語の中に、そうした人生の隠喩そのものを読み取っていたのだろうか。
「スターバック。イシュマエルはどこに行った」
ぼやけた目のまま、薫が続けた。イシュマエル? スターバックが一等航海士の名前で、イシュマエルが主人公である語り手の名前であることはわかる。だが、質問の意味はわからなかった。
そういうやりとりが作品の中にあるのだろうか。
「……まだ最後まで読んでないんだが」
薫の目に陰がさした。瞼が力なく閉じ、吐息のように薫の口から声が漏れる。
「そうか」
それは『最後まで読んでいない』ということへの返事なのか、変な質問をした自分に気づいた独り言だったのか、なんとも判断がつかなかった。江藤は腕を組んだまま薫の顔をのぞきこむ。
疲れたように、薫は寝息を立てていた。
ぼそっと投げかけられた質問に、江藤は顔を上げた。
薫が首だけ動かし、こちらを見ている。怜に撃たれ、ここに運び込まれてから10日以上経っていた。
薫の両目は薄い膜がかかったように光がなかったが、それでも、薫が人間を認識したこと自体が大きな進歩だった。その人間が江藤だと気づき、意味のある言葉を発したのなら尚更だ。数日前に意識が戻ってから誰の問いかけにも無反応で、薫はただ眠ったり起きたりを繰り返していた。
銃弾は、紙一重で急所を逸れていた。それ自体が奇跡のように江藤には思えた。あるいは撃った者の最後の良心だったのだろうか。
江藤は本を閉じ、膝に置いて薫と視線を合わせた。視界の隅で、点滴がぽたん、ぽたんと小さく落ちる。ずっと天井を眺めてほとんど動かなかったくせに、突然どういう心境の変化だろう。無表情な顔からは、薫が何を考えているのかは窺えなかった。
「『白鯨』だよ。読んだことがなかったからな。暇つぶしに読みたいって言ったら、田嶋が文庫本を調達してくれた」
「そうか」
薫の顔を眺めながら、江藤は腕を組む。遮光カーテンが夏の日差しを遮っていて、病室の中は落ち着いた明るさだ。広めの個室には外の音がほとんど入ってこず、ピッピッという規則正しいモニター音だけが部屋の静けさを深めていた。
「……どこまで読んだんだ?」
「鯨のステーキを食べてるとこまで。この話、筋ってもんがないんだが、ほんとに名作なのか?」
薫はそこで初めて、我に返ったように含み笑いをした。
「面食らう話だろう? ただひたすら、どうでもいいことばかり。たいした筋なんかない。でもそれが……面白い」
最後はかすれた声だった。
こいつは本当にこの本を面白いと思ったのだろうか。江藤はそんなことを考えていた。脱線ばかりの人生。生き抜くためには、それをなんとか笑ってやり過ごすしかない。人生は何ひとつ思い通りにはいかない。薫は物語の中に、そうした人生の隠喩そのものを読み取っていたのだろうか。
「スターバック。イシュマエルはどこに行った」
ぼやけた目のまま、薫が続けた。イシュマエル? スターバックが一等航海士の名前で、イシュマエルが主人公である語り手の名前であることはわかる。だが、質問の意味はわからなかった。
そういうやりとりが作品の中にあるのだろうか。
「……まだ最後まで読んでないんだが」
薫の目に陰がさした。瞼が力なく閉じ、吐息のように薫の口から声が漏れる。
「そうか」
それは『最後まで読んでいない』ということへの返事なのか、変な質問をした自分に気づいた独り言だったのか、なんとも判断がつかなかった。江藤は腕を組んだまま薫の顔をのぞきこむ。
疲れたように、薫は寝息を立てていた。
0
お気に入りに追加
45
あなたにおすすめの小説


鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。


サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

寮生活のイジメ【社会人版】
ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説
【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】
全四話
毎週日曜日の正午に一話ずつ公開
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる