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109 蒲田にて(29)
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薫が素顔をさらしても、怜は動じなかった。
ただ、にこりと笑って手を伸ばし、顔の素肌に触れた。
「……薫さん、痩せた?」
「かもしれない。……俺だと、気づいてたのか?」
「うん。本当に気づいたのは、さっき。薫さんが生きてるってオレが言った時、ものすごく怒ったでしょ? 異常なぐらい。江藤さんに腹を立てた?」
「あぁ……あいつが俺を裏切ったのかと」
「最後まで人の話を聞かないから」
楽しそうに微笑むと、怜は顔を寄せ薫に軽いくちづけを落とした。
「薫さんは、しょうがないなぁ」
ふわりとした穏やかな声だった。怜は薫の鼻の先をちょんとつつくと、愛しそうに髪を撫でた。
「悪かった。ずっと隠していて」
「オレが薫さんを撃ったのは、オレが弱かったから。謝りたかったのはオレでしょ。もう死んだ人には謝れなくて、ずっと苦しかった。……そして多分、オレは食堂の部屋に木島さんが来た、あの最初の時に、薫さんだと体では気づいていた。でも頭の中では一生懸命否定していた。もし木島さんが薫さんだったらって考えるのは怖かった。正体を明かしてくれないのは、もうオレを愛していなくて、仕事のためにオレを利用するだけで近づいたからなんじゃないかって。それなのに優しくされるから、どういうふうにすればいいのか、全然わからなくて」
「……本当に、すまない」
「怒ってるわけじゃないってば。薫さんは、オレにもう一度チャンスをくれた。ちゃんと謝らせて?」
うつむく薫の目を、怜は下から覗き込むように見つめた。
「ごめんなさい。あの時……オレは薫さんも、オレ自身も信じられなくなった。弱くて、逃げた」
「そうじゃない。高遠のコントロールと張り合った俺が、お前を潰した」
「……こうやってお互いに言ってても、終わらないっぽいなぁ」
怜はヘッドボードに寄りかかると、気が抜けたように息を吐いた。薫も肩をくっつけるように座り、溜息をつく。
「だな」
「卒倒するほど怒るなんて、相当だなぁ。江藤さんって信頼されてるんだ」
「あ~、まぁ。高校時代から迷惑かけっぱなしだから、ついに愛想を尽かされたのかと」
「そんなわけないでしょ。大学でも、戦後でも、離れるチャンスなんかいくらでもあったのに、こんなに長い間近くにいてくれるなんて、よっぽどだよ。ちょっと嫉妬するぐらい」
「あいつはノンケで、最近成田にちょっと気になる女性ができたらしい」
「へぇ~。じゃあ全部決着つけて、江藤さんが心置きなく成田に行けるようにしてあげないと」
「そうだな……」
電話しないと。まぁ……明日でいいか。今は怜と話したい。怜は面白そうに含み笑いをしている。
「実は、薫さんがぶっ倒れてる間に確認したんだ」
「何をだ?」
「ワイシャツ開いて、胸に傷痕があるかなって」
思わず胸を見下ろす。
「見たのか?」
「うん」
怜は薫に向き直り、ワイシャツに包まれた胸を見つめた。ネクタイを肩に持ち上げ、ひとつひとつボタンを外していく。胸がむき出しになると、怜は傷痕をそっと指先でなぞった。
「木島さんが服を絶対に脱がなかったのは、この傷痕があるからだった」
「まぁ、そうだな」
「半端に手を出してきて途中でやめちゃうから、なんなんだろうって」
「いくら抱きたくても……お前にバレたら計画がダメになると思って……その、ずっと我慢して……我慢して」
「で? オレに東京を獲ると言わせるためだけに、2年もかけて準備したわけ?」
「……」
怜は、薫のぶすっとした顔をしばらく呆れて眺めていた。やがて堪えきれないように噴き出す。
「薫さんって、こっちが思うより100倍ぐらい考えすぎるよね」
「うるさい」
「頭の血管が切れそうにならない?」
「……まぁ」
あはは、と怜は笑った。
「笑うな。俺は本気だったんだ。お前が自分の本当の価値に気づいてくれたらいいと思って。お前には東京を仕切るだけの、桁違いの才能があると俺は2年前から感じていた。あんな父親なんか簡単に踏みつぶせるのに。足りないのは自信だけだ、だから……」
「全部準備してオレに自信を持たせようって? 全部準備しちゃったら逆にオレが自信をなくすとは思わなかったの?」
「…………まぁ、少し」
怜は本当に楽しそうだった。
「薫さんって割と空回りしてるよね」
「否定は……しない。盛大に空回りしたことは認める」
「しょうがないなぁ」
怜の笑い声は温かく部屋に響く。
「薫さんは、なにもかも自分で計画して動かそうとするから、そうなるんじゃない? あんなバカみたいな高遠なんか放っておけばいい。江藤さんが切った期限は今度の金曜日だから、そこで一斉に警察機構を入れて、全員押さえてしまえば?」
「お前、面倒になったな?」
「だって薫さんとこうやってまた普通に一緒に話せるなんて、嬉しくてしょうがないから。他のことはどうでもいい。でも蒲田だけは絶対に守り切らないとなぁって、それだけ」
薫は手を伸ばして、怜の頭を抱き込んだ。
じっとそのぬくもりを感じる。
怜は薫を丸ごと受け入れてくれる。どうにもならない部分も、醜い部分も。
「怜……」
両手で怜の顔を包む。じっと見上げる素直な瞳。
あぁ、それはもう湖じゃない。どこまでも広がる大海のような、穏やかで大きなうねりが薫を包む。
薫はその瞼に唇を当てた。真実を見通す瞳に、知性を宿す額に敬意を記す。
「怜。頼みがある」
「何?」
「お前を洗わせてくれ」
今度こそ、怜は盛大に噴き出した。
ただ、にこりと笑って手を伸ばし、顔の素肌に触れた。
「……薫さん、痩せた?」
「かもしれない。……俺だと、気づいてたのか?」
「うん。本当に気づいたのは、さっき。薫さんが生きてるってオレが言った時、ものすごく怒ったでしょ? 異常なぐらい。江藤さんに腹を立てた?」
「あぁ……あいつが俺を裏切ったのかと」
「最後まで人の話を聞かないから」
楽しそうに微笑むと、怜は顔を寄せ薫に軽いくちづけを落とした。
「薫さんは、しょうがないなぁ」
ふわりとした穏やかな声だった。怜は薫の鼻の先をちょんとつつくと、愛しそうに髪を撫でた。
「悪かった。ずっと隠していて」
「オレが薫さんを撃ったのは、オレが弱かったから。謝りたかったのはオレでしょ。もう死んだ人には謝れなくて、ずっと苦しかった。……そして多分、オレは食堂の部屋に木島さんが来た、あの最初の時に、薫さんだと体では気づいていた。でも頭の中では一生懸命否定していた。もし木島さんが薫さんだったらって考えるのは怖かった。正体を明かしてくれないのは、もうオレを愛していなくて、仕事のためにオレを利用するだけで近づいたからなんじゃないかって。それなのに優しくされるから、どういうふうにすればいいのか、全然わからなくて」
「……本当に、すまない」
「怒ってるわけじゃないってば。薫さんは、オレにもう一度チャンスをくれた。ちゃんと謝らせて?」
うつむく薫の目を、怜は下から覗き込むように見つめた。
「ごめんなさい。あの時……オレは薫さんも、オレ自身も信じられなくなった。弱くて、逃げた」
「そうじゃない。高遠のコントロールと張り合った俺が、お前を潰した」
「……こうやってお互いに言ってても、終わらないっぽいなぁ」
怜はヘッドボードに寄りかかると、気が抜けたように息を吐いた。薫も肩をくっつけるように座り、溜息をつく。
「だな」
「卒倒するほど怒るなんて、相当だなぁ。江藤さんって信頼されてるんだ」
「あ~、まぁ。高校時代から迷惑かけっぱなしだから、ついに愛想を尽かされたのかと」
「そんなわけないでしょ。大学でも、戦後でも、離れるチャンスなんかいくらでもあったのに、こんなに長い間近くにいてくれるなんて、よっぽどだよ。ちょっと嫉妬するぐらい」
「あいつはノンケで、最近成田にちょっと気になる女性ができたらしい」
「へぇ~。じゃあ全部決着つけて、江藤さんが心置きなく成田に行けるようにしてあげないと」
「そうだな……」
電話しないと。まぁ……明日でいいか。今は怜と話したい。怜は面白そうに含み笑いをしている。
「実は、薫さんがぶっ倒れてる間に確認したんだ」
「何をだ?」
「ワイシャツ開いて、胸に傷痕があるかなって」
思わず胸を見下ろす。
「見たのか?」
「うん」
怜は薫に向き直り、ワイシャツに包まれた胸を見つめた。ネクタイを肩に持ち上げ、ひとつひとつボタンを外していく。胸がむき出しになると、怜は傷痕をそっと指先でなぞった。
「木島さんが服を絶対に脱がなかったのは、この傷痕があるからだった」
「まぁ、そうだな」
「半端に手を出してきて途中でやめちゃうから、なんなんだろうって」
「いくら抱きたくても……お前にバレたら計画がダメになると思って……その、ずっと我慢して……我慢して」
「で? オレに東京を獲ると言わせるためだけに、2年もかけて準備したわけ?」
「……」
怜は、薫のぶすっとした顔をしばらく呆れて眺めていた。やがて堪えきれないように噴き出す。
「薫さんって、こっちが思うより100倍ぐらい考えすぎるよね」
「うるさい」
「頭の血管が切れそうにならない?」
「……まぁ」
あはは、と怜は笑った。
「笑うな。俺は本気だったんだ。お前が自分の本当の価値に気づいてくれたらいいと思って。お前には東京を仕切るだけの、桁違いの才能があると俺は2年前から感じていた。あんな父親なんか簡単に踏みつぶせるのに。足りないのは自信だけだ、だから……」
「全部準備してオレに自信を持たせようって? 全部準備しちゃったら逆にオレが自信をなくすとは思わなかったの?」
「…………まぁ、少し」
怜は本当に楽しそうだった。
「薫さんって割と空回りしてるよね」
「否定は……しない。盛大に空回りしたことは認める」
「しょうがないなぁ」
怜の笑い声は温かく部屋に響く。
「薫さんは、なにもかも自分で計画して動かそうとするから、そうなるんじゃない? あんなバカみたいな高遠なんか放っておけばいい。江藤さんが切った期限は今度の金曜日だから、そこで一斉に警察機構を入れて、全員押さえてしまえば?」
「お前、面倒になったな?」
「だって薫さんとこうやってまた普通に一緒に話せるなんて、嬉しくてしょうがないから。他のことはどうでもいい。でも蒲田だけは絶対に守り切らないとなぁって、それだけ」
薫は手を伸ばして、怜の頭を抱き込んだ。
じっとそのぬくもりを感じる。
怜は薫を丸ごと受け入れてくれる。どうにもならない部分も、醜い部分も。
「怜……」
両手で怜の顔を包む。じっと見上げる素直な瞳。
あぁ、それはもう湖じゃない。どこまでも広がる大海のような、穏やかで大きなうねりが薫を包む。
薫はその瞼に唇を当てた。真実を見通す瞳に、知性を宿す額に敬意を記す。
「怜。頼みがある」
「何?」
「お前を洗わせてくれ」
今度こそ、怜は盛大に噴き出した。
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