そして悲しみは夜を穿つ

夜野綾

文字の大きさ
上 下
57 / 181

57 【2年前】(34)

しおりを挟む
 夜が明けると、部屋は暑くなった。
 2人はほとんど同時に起き出し、サーキュレーターを回して風を吹かせた。どさくさに紛れて玄関ドアを閉めてあるので、風通しは悪かった。ついでにサキの首輪は天井に繋がっていない。恐れをなしたタカトオの部下たちは、あえて部屋に入ってこようとはしなかった。
 ずさんな警備を内心バカにしながら、サキはキッチンへ向かった。やることは多い。まずはパンをすべて平らげ、袋を空にする必要がある。電源の入っていない冷蔵庫には、なぜかオレンジジュースが入っていた。レンが持ってきたのか、消費期限は切れていない。冷えてはいないが飲めるはず。
 ぼけっとした顔のレンにパンを数個持たせ、サキはオレンジジュースと一緒に黙々とパンを胃に押し込んだ。キッチンに戻り、他にもちょっとした作業を終らせる。
 服を着替えることができないので、自分が汗臭い。顔をしかめながらトイレで用を済ませる。レンも、パンとオレンジジュースという食事を終らせる。2人で歯を磨き、リビングに戻り、助け合って傷のパッドを取り替える。さて。今日はどうなることやら。
 マットレスに座り天井を眺め、2人は気晴らしの会話を始めた。
「何日目でしたっけ?」
「3日目だな。暇かもしれない。本があるといいんだが」
「探してきましょうか?」
「いや、お前がここにいる方が安心だ」
 レンが微笑んだ。
「サキさんって……ほんとに本が好きなんですね」
「まぁ、そうだな。本を読んでると、他のことを考えなくていいから楽なんだ」
 レンのびっくりした顔が面白くて、サキは声を上げて笑った。
「難しい本を読むのって、それが理由?」
「ん~、他の理由もあるが」
「オレ、考えるために読むんだと思ってた。考えないために読むって、わからない……」
 穏やかな気分でレンを見つめる。肌理の細かい肌は、薄暗い室内でもほんのりと柔らかい色合いをしていた。優しそうな眉の下で、思慮深い目がサキを見ている。湖に射し込む日の光のような、あの茫漠とした眼差し。
 サキは手を伸ばし、レンの頬を包み込んだ。されるがままに仰向いて、レンが見つめ返す。
 過酷な人生を送ってきているのに、それはかけがえのない、素直な光を失っていない。
 魂を汚さないために、レンはどれだけの知恵を身につけ、どれだけのことを考え戦ってきたのだろう。真摯でしかも誠実であることは難しい。自分の人生がうまくいかないことを他人のせいにするのは簡単だ。
 考え込むサキに、レンが小首を傾げた。首筋がなめらかにTシャツの中へ続いている。
「……レン」
「何です?」
「そういえば、お前の名前って漢字でなんて書くんだ」
「あぁ……りっしんべんに、命令の『令』です」
 レンはサキの手の平を取り、そこに指先で書いて見せた。レンの名前がサキに直接書きこまれる。くすぐったい。さざ波のように繊細な刺激。
 書き終えると、レンはそっと指を離した。手の平を2人でじっと見る。そこに意味が貼りついているかのように。
「怜」
「はい」
「心が命ずるままに生きる……この名前をつけたのは誰だ」
「母です。母はいつも後悔しながら言ってた。『あんたは人に支配されずに生きなさい』って」
 手の平で意味を包み、サキは指の背でレンの唇をなぞった。
 ふっくらと色づく唇が、薄く開く。
「サキさん……」
「薫」
「薫さん」
 怜の顔を引き寄せ、薫はそっと唇を重ねた。互いの熱を分け合うように。これから起こる運命の一瞬に、たとえ生と死に引き裂かれようと心だけは離れないように。
 いつか、なにものにも押し留められることなく、真っすぐに笑い合うことができる日は来るのだろうか。
 未来を願うことに意味はあるんだろうか。
 それでも、その時2人は切ないほどの願いを込めて目を閉じた。

しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

ある少年の体調不良について

雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。 BLもしくはブロマンス小説。 体調不良描写があります。

【完結】嘘はBLの始まり

紫紺
BL
現在売り出し中の若手俳優、三條伊織。 突然のオファーは、話題のBL小説『最初で最後のボーイズラブ』の主演!しかもW主演の相手役は彼がずっと憧れていたイケメン俳優の越前享祐だった! 衝撃のBLドラマと現実が同時進行! 俳優同士、秘密のBLストーリーが始まった♡ ※番外編を追加しました!(1/3)  4話追加しますのでよろしくお願いします。

さよならの合図は、

15
BL
君の声。

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

処理中です...