そして悲しみは夜を穿つ

夜野綾

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36 蒲田にて(17)

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 一週間後。それは穏やかな午後だった。広々とした元レストランを利用した食堂に、人はまばらだ。客はほぼおらず、従業員は暇を持て余し、休憩をとりながら雑談をしたり、仮眠室に行っている。数人が夜の仕込みを黙々とこなしているものの、全員気が抜けていた。
 れんはタブレットを持ち、レジで売上などのチェックをしているところだった。眠くて時折手が止まる。一段落ついたら10分ぐらい寝てこよう。それから発注の作業をして……そう思っていた。
 怜がレジを出て食堂の奥へ向かおうとしたその時。
 轟音と共に、入口の引き戸が凄まじい勢いで吹っ飛んだ。
 嵐のような殺気。
 相手の姿が見える前に、怜の体は反応していた。
 身を伏せろ、グロックを抜け、ナイフをかざせ!
 渇いた発砲音が食堂に響く。銃弾を紙一重でかわし、煌めくナイフを殺気の中心に投げながら、次のナイフを抜く。
 左手にナイフ、右手にグロック。
 とんでもないスピードの蹴りが、薙ぎ払うように怜の頭をかすめる。間髪入れず次の銃弾が来る。身をかわし、テーブルを蹴り倒す。その陰を走り抜ける。凄まじい音でテーブルに穴が開く。
 一歩、二歩! 椅子に足をかけ、鮮やかに飛ぶ。
 ダァン!という着地音と、耳をつんざく銃声。
 怜のグロックは相手の顎を下から突き上げ、相手の銃は怜の額に当たっていた。ナイフの刃の陰から敵の目を見る。
「!」
 その顔に息を呑んだ瞬間、相手の蹴りが怜の腹に綺麗に決まった。
 ふっ飛ばされ、もんどりうって床に転がる。相手は容赦しなかった。あっという間に胸倉が掴まれ、壁に叩きつけられる。そのまま腕で首を押さえ込まれ、怜は咳き込んだ。
「久しぶりだなぁ。こんなところでのんびり飯屋とは、お前もいいご身分になったもんだ」
 ギラつく目が、怜を見据えている。居合わせた全員がテーブルの陰から恐る恐る2人を見る中、襲撃者は190を越える長身で怜を壁に押しつけていた。怜の足は床についていない。
「いずれ挨拶させてもらおうとは思っていたが、思ったより遅くなった。最近、『政府』と組んで何か企んでるっていう報告が上がってきたんだが、お前は次に何をするつもりだ」
「な……ごほっ、なに、も……」
 江藤はにぃぃと口角を上げた。
「もう裏切る相手もいなくて寂しくなったか? ん?」
「ちが」
 突然腕を離され、怜は床に転げ落ちた。痛みで丸くなる体をなんとか伸ばし、這いつくばって長身を見上げる。
 江藤はひょいと身を屈め、怜の手から飛んだグロックを拾い上げた。
「これは……なくなったと思ったら、てめぇが持ってやがったのか」
 冷たい目が怜を射抜く。
「お前が『これ』を持つ資格はない。わかってんだろう?」
「……わかって……るけど。ごほっ」
「戦闘能力が思ったより衰えてないのは、俺の訪問を待ってたからだろ。違うか? 忘れたとは言わせない。俺は誰だっけ?」
「え……江藤さ……」
 食堂の中がざわめいた。2年前の抗争で主役のひとりを務め、今も2大勢力の片方を担っている男。それが境界線を越えて襲撃してきたのだ。
「ふん、上出来だ。で? ここにいるのは何のためだ。律儀に前線でも守ってるつもりかよ?」
 黙ったまま、怜は江藤の顔を見た。殺気が収まっていない。虎の気分次第で踏みつぶされる。
「図々しいにもほどがあるな。このグロック……佐木の形見だろう。それとも何か? 戦利品のつもりか?」
「そんなつもりじゃない!」
 佐木さんは、と言おうとして、怜は凍り付いた。名前は決して喉を通り抜けてくれない。かひゅ、という変な息が喉から漏れ、怜は再び黙り込んだ。
「ふん、お前もあの男の息子だな。佐木の銃で佐木自身を撃ち殺しておいて、その銃を2年経ってもまだ使ってるなんて」
 えぐるような断罪に、怜は気絶しそうになっていた。江藤はゆっくりとしゃがみこみ、怜の胸倉をつかんで上半身をずるりと持ち上げた。グロックで怜の頬をつつく。
「佐木を殺した罪は、お前が償え。猶予は一週間。その間にお前がここを出ていけば、この食堂は破壊せずに残してやる。一週間経ってもお前がここに陣取ってるなら、次はあの時のように、この食堂に火をつけてやる。佐木が守った本は燃え尽きたんだ。佐木と一緒に」
 怜は朦朧と江藤の顔を見上げた。灼けるように鋭い目。苛烈な報復を、江藤は成し遂げるだろう。そしてそれに値することを自分はやった。
「一週間だ。その間に身辺整理をするんだな。蒲田をあの時と同じ戦場にするかどうかは、お前次第だ。惨めったらしく父親に泣きついてもいいぞ。どうせ『政府』に枕を仕掛けて根回しもしてるんだろ。逃げてみろ。俺は優しくはないからな。一番屈辱的な場所で、お前は這いつくばって死んだ佐木に赦しを乞うんだ」
 ぜぇ、と怜は息を吐いた。手酷い宣戦布告は、わずかに残っていた怜の正気をすべて砕き、すがりついていた最後のプライドまで叩き潰した。
「返事はしなくていい。一週間後にこの俺が、この場所を獲りにくる。父親に言って陣を張るか、無血で明け渡すか、お前が選べ。俺としては、二度とお前のツラを見なくて済む方がいいがな。よく考えろ。高遠怜」
 びくっと怜の肩が震えた。食堂にいる全員の前で、江藤は怜の正体を明かしたのだ。
 江藤はそのまま食堂をずかずか突っ切り、来た時と同じように唐突に去っていった。
 食堂中が呆然と怜を眺めている。
 咳き込み、えずきながら、怜はのろのろと身を起こした。
 体中が痛い。そしてそれ以上に。
 心の中には何も残っていなかった。


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