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11 蒲田にて(10)
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ぱちっと目を覚まし、怜は顔を上げた。目の前に置時計のデジタル表示が見える。12時を回ったところだった。数時間眠ったことになる。置時計の横に、木島の背中が見えた。ノートパソコンを開いて仕事をしているようだった。
怜が寝ている間に、木島はバスルームを使ってきたらしい。部屋の電気は落とされ、木島のいる執務デスクの灯りだけが、彼の手元を照らしている。コットンシャツの背中は、ワイシャツよりもなぜか広く感じられた。
その背中を、怜は見つめた。妙な疑問が頭に浮かぶ。なんというか、その背中に見覚えがある気がしたのだ。違う人間なのに、彼はもういないのに。
名前を呼びたかった。
もしかしたら。
あの人の名前で呼んだら、振り向く顔はあの人かもしれない。そしてぞっとする。あの人の最後の瞬間の顔だったら?
ごくりと唾を飲みこむ。死者を呼び出してはいけない。あれから一度も声に出していない名前を呼べば、きっと自分は気が狂う。
身じろぎした衣擦れの音に気付き、木島がノートパソコンを閉じて振り向いた。
「起きたのか?」
問いを無視して丸くなる。この男にあの人の名前を知られるわけにはいかない。こいつの真意がどこにあろうと、信用は無意味だ。たとえ体を明け渡しても、叫び声で喉が灼けても、あの人の名前だけはこの喉を通さない。
「私も寝たいんだが、場所を空けてもらえるかな?」
もぞもぞと動き、掛け布団ごとベッドの反対端まで撤退する。この男にこれ以上失態を見せるのは嫌だった。
「私はそこまで大きくはないんだが」
木島は苦笑すると、デスクの電気を消し、ヘッドボードの幽かな灯りを頼りにベッドに上がってきた。わずかな傾きに怜は怯える。腕に包まれるのは避けたいし、なんなら帰りたい。
「やれやれ。私に歯磨きまでさせておいて、君はティーンの少女みたいに、一晩そこで布団を独占して丸くなっているつもりか?」
怜はしぶしぶ布団を広げた。腹を出して寝るには寒すぎる季節だ。木島はそれをめくり、ゆっくりと下に入った。
「本当に君は面白いな」
「何がです」
「わからないか?」
ほのかな灯りの中で、木島の目が光った。手が伸ばされ、怜の目の下をゆっくりとなぞる。
「君は熾烈な権力闘争の中で、実の父親に人間としての意志を否定されて生きてきたのに、私の言うことにいつも素直に反応する」
「別に……オレの思い通りにならないなら、言われた通りにしておけば、物事は早く終わる」
「そうかな? 君の反応は、そうした投げやりなものとは少し違う。ちゃんと私の言うことを聞いて、内容を判断して動いている。昨日のトラブルもそうだ。君は階段を下りてくるなり、その場の人間全員の配置と関係性をつかんだ。そして一瞬で相手を押さえ込み、追い払った」
「慣れてるだけです」
見ていたのか、と怜は思った。
怜はあの時、木島の存在に気付かなかった。改めて、油断ならない男だ。なぜなら、木島の言葉は矛盾しているから。
怜があの場の全員を把握できていたのなら、木島のことに気付いたはずだ。食堂を出入りしている者とはまったく違う雰囲気、身なり。いるだけで漂うオーラと風格のようなものが木島にはある。
つまり、木島は怜を観察するために、一瞬で自分の存在を消した。もしあれが怜と木島との勝負なら、怜の負けだ。『政府』の人間のくせに、戦闘慣れしている。
くすりと木島が笑う。
「ほら。君は気付いた。全部顔に出ている。思慮深く、よく人を見て、素直に反応する」
すっと木島の雰囲気が変わった。考えるより先に怜の体が反応する。敵だ。逃げろ! 瞬時に体が跳ね上がり、ベッドの向こうに足を落とす。
だが、足は宙を蹴った。掛布団が消えて肩が引き倒され、怜の背中がベッドに叩きつけられる。
息を詰めた怜に、木島の顔が覆いかぶさった。
「さて、本当の自己紹介が済んだところで、本題に移ろう」
ついさっきまでとは全く違う男がそこにいた。目的のためなら容赦なく障害物を排除する、壮絶な意志と実行力を持った男。獰猛な光を湛えて、木島の目が怜の目を覗き込む。
「高遠の一番の切り札は君だ。奴はまだそう信じている。だがそれは間違いだ。君にはこれから『私の』切り札になってもらう」
「い、いやだ……」
怜は木島の腕の中でもがいたが、木島は微動だにしなかった。その目を睨みあげる。
「たとえオレが奴を憎んでても、あんたの道具になる義理はない。高遠を追い出したいなら自分でやれよ」
木島の眼差しが更に色を変えた。紛れもない殺意が、怜の瞳に突き刺さる。
「奴を殺すのは私だ。他の者にやらせる気はない」
その目を見た時、怜は悟った。木島の狙いは、怜が思っているより遥かに激しく、遥かに深いものだった。
高遠の息の根を止める。
木島はそのためにここへ怜を呼び出したのだ。
不意に木島が動いた。怜の胸を押さえ込み、耳元に口を近づける。
宣戦布告は、とびきり甘い囁きだった。
「君には別なことをやってもらう」
「な、何を」
耳の奥に木島の吐息が忍び込む。それは快楽の芯より深く、怜の心を支配する。決して答えてはいけない問いが、怜の頭に刻まれる。怜が殺した男の匂いをまとい、怜が愛した男によく似た声で。
「怜。君にやってもらうのは、私のすべての疑問に答えることだ。
さぁ答えろ。2年前、君はあの夜、誰に何をした?」
逃げられない。戦いから、あの夜から、怜は決して逃げることはできない。
強烈な槌音が響く。心臓を穿ち、悲しみの底を穿つ音。決定的な楔は、その瞬間に打ちこまれたのだ。
怜が寝ている間に、木島はバスルームを使ってきたらしい。部屋の電気は落とされ、木島のいる執務デスクの灯りだけが、彼の手元を照らしている。コットンシャツの背中は、ワイシャツよりもなぜか広く感じられた。
その背中を、怜は見つめた。妙な疑問が頭に浮かぶ。なんというか、その背中に見覚えがある気がしたのだ。違う人間なのに、彼はもういないのに。
名前を呼びたかった。
もしかしたら。
あの人の名前で呼んだら、振り向く顔はあの人かもしれない。そしてぞっとする。あの人の最後の瞬間の顔だったら?
ごくりと唾を飲みこむ。死者を呼び出してはいけない。あれから一度も声に出していない名前を呼べば、きっと自分は気が狂う。
身じろぎした衣擦れの音に気付き、木島がノートパソコンを閉じて振り向いた。
「起きたのか?」
問いを無視して丸くなる。この男にあの人の名前を知られるわけにはいかない。こいつの真意がどこにあろうと、信用は無意味だ。たとえ体を明け渡しても、叫び声で喉が灼けても、あの人の名前だけはこの喉を通さない。
「私も寝たいんだが、場所を空けてもらえるかな?」
もぞもぞと動き、掛け布団ごとベッドの反対端まで撤退する。この男にこれ以上失態を見せるのは嫌だった。
「私はそこまで大きくはないんだが」
木島は苦笑すると、デスクの電気を消し、ヘッドボードの幽かな灯りを頼りにベッドに上がってきた。わずかな傾きに怜は怯える。腕に包まれるのは避けたいし、なんなら帰りたい。
「やれやれ。私に歯磨きまでさせておいて、君はティーンの少女みたいに、一晩そこで布団を独占して丸くなっているつもりか?」
怜はしぶしぶ布団を広げた。腹を出して寝るには寒すぎる季節だ。木島はそれをめくり、ゆっくりと下に入った。
「本当に君は面白いな」
「何がです」
「わからないか?」
ほのかな灯りの中で、木島の目が光った。手が伸ばされ、怜の目の下をゆっくりとなぞる。
「君は熾烈な権力闘争の中で、実の父親に人間としての意志を否定されて生きてきたのに、私の言うことにいつも素直に反応する」
「別に……オレの思い通りにならないなら、言われた通りにしておけば、物事は早く終わる」
「そうかな? 君の反応は、そうした投げやりなものとは少し違う。ちゃんと私の言うことを聞いて、内容を判断して動いている。昨日のトラブルもそうだ。君は階段を下りてくるなり、その場の人間全員の配置と関係性をつかんだ。そして一瞬で相手を押さえ込み、追い払った」
「慣れてるだけです」
見ていたのか、と怜は思った。
怜はあの時、木島の存在に気付かなかった。改めて、油断ならない男だ。なぜなら、木島の言葉は矛盾しているから。
怜があの場の全員を把握できていたのなら、木島のことに気付いたはずだ。食堂を出入りしている者とはまったく違う雰囲気、身なり。いるだけで漂うオーラと風格のようなものが木島にはある。
つまり、木島は怜を観察するために、一瞬で自分の存在を消した。もしあれが怜と木島との勝負なら、怜の負けだ。『政府』の人間のくせに、戦闘慣れしている。
くすりと木島が笑う。
「ほら。君は気付いた。全部顔に出ている。思慮深く、よく人を見て、素直に反応する」
すっと木島の雰囲気が変わった。考えるより先に怜の体が反応する。敵だ。逃げろ! 瞬時に体が跳ね上がり、ベッドの向こうに足を落とす。
だが、足は宙を蹴った。掛布団が消えて肩が引き倒され、怜の背中がベッドに叩きつけられる。
息を詰めた怜に、木島の顔が覆いかぶさった。
「さて、本当の自己紹介が済んだところで、本題に移ろう」
ついさっきまでとは全く違う男がそこにいた。目的のためなら容赦なく障害物を排除する、壮絶な意志と実行力を持った男。獰猛な光を湛えて、木島の目が怜の目を覗き込む。
「高遠の一番の切り札は君だ。奴はまだそう信じている。だがそれは間違いだ。君にはこれから『私の』切り札になってもらう」
「い、いやだ……」
怜は木島の腕の中でもがいたが、木島は微動だにしなかった。その目を睨みあげる。
「たとえオレが奴を憎んでても、あんたの道具になる義理はない。高遠を追い出したいなら自分でやれよ」
木島の眼差しが更に色を変えた。紛れもない殺意が、怜の瞳に突き刺さる。
「奴を殺すのは私だ。他の者にやらせる気はない」
その目を見た時、怜は悟った。木島の狙いは、怜が思っているより遥かに激しく、遥かに深いものだった。
高遠の息の根を止める。
木島はそのためにここへ怜を呼び出したのだ。
不意に木島が動いた。怜の胸を押さえ込み、耳元に口を近づける。
宣戦布告は、とびきり甘い囁きだった。
「君には別なことをやってもらう」
「な、何を」
耳の奥に木島の吐息が忍び込む。それは快楽の芯より深く、怜の心を支配する。決して答えてはいけない問いが、怜の頭に刻まれる。怜が殺した男の匂いをまとい、怜が愛した男によく似た声で。
「怜。君にやってもらうのは、私のすべての疑問に答えることだ。
さぁ答えろ。2年前、君はあの夜、誰に何をした?」
逃げられない。戦いから、あの夜から、怜は決して逃げることはできない。
強烈な槌音が響く。心臓を穿ち、悲しみの底を穿つ音。決定的な楔は、その瞬間に打ちこまれたのだ。
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