8 / 181
8 蒲田にて(7)
しおりを挟む
フィルターマスクを外し服の埃を軽く落とすと、怜は息を整え805号室のドアを控えめにノックした。中からくぐもった声が返ってくる。
ドアが開けられる前に、怜は深呼吸をした。
父に売り飛ばされるのは初めてじゃない。もう正直どうでもいいと思っていた。自分の権力や支配欲以外に興味のない男は、使える道具をすべて使う。悪いのは、あの時死ななかった自分なのだ。
問題は木島という男だった。突如として怜の前に現れた男。彼は高遠の差し出した最低の条件を、怜の意志を無視して承諾した。怜にも人権があるとはついぞ思っていないような態度だ。だが冷たいやり方とは裏腹に、木島は弱っている怜を犯そうとはしなかった。
そして──
あの時、木島は怜の名前を呼んだ。愛おしそうに。懐かしそうに。あれは確かに夢だったと思うけれど、もしかしたら、夢ではなかったのかもしれない。確信はない。あの人によく似た声だった。
しかも自分の体が、彼を拒絶しなかった。彼の匂いに包まれて安心して眠り、泣きたいほどあの人の存在を感じた自分の体が、怜には信じられなかった。
木島はあの人じゃない。それは確かだ。年齢が遥かに上だし、話し方も言葉遣いも違う。声だって、あの人はもう少し高く艶があった。
それに何より、怜は自分が撃った銃弾が彼に食い込む光景を見ている。膝を突き、倒れ込む彼を。哀しみに満ちた最後の眼差しは、銃口の向こうからいつも怜を追い詰めている。
混乱した頭のまま、怜は目の前のドアが開くのを見た。木島が顔を出す。
「ようこそ」
怜を迎え入れた木島は、今日もスーツ姿だった。落ち着いた雰囲気の木島には、スーツがよく似合う。この埃っぽい汚染周辺地域に来ていながら、スーツにもワイシャツにも汚れはなかった。
「おつかれ。風呂に入るかい?」
怜が部屋に入るなり、木島は労わるように言った。怜の選択肢をすべて塞いだくせに、まるで怜が自分で友人を訪ねてきたような対応だった。
「そう……ですね。入ります」
エレベーターは整備されておらず、8階まで階段で上るのは疲れる。汗と粉塵が体にまとわりついて気持ちが悪かった。
木島はジャケットを脱ぎ、ネクタイを引き抜いてからバスルームに入っていった。蛇口をひねる音。お湯が注がれる低い水音が響き始める。
部屋の真ん中に突っ立ったまま、怜は辺りを見渡していた。広い部屋だ。右の壁に頭をつけてダブルベッドが置かれ、その横には、ベッドに背中を向けて座る形で、大きな執務デスクがあった。ダブルベッドから目を逸らし、部屋の左側を見る。ダイニングテーブルの上には、小さな文庫本が無造作に置かれていた。怜は本の表紙を見下ろした。
後ろで、木島がバスルームを出てくる気配がする。
「……何を読んでいたんですか」
「あぁ、ハイデッガーだ」
怜には、それが著者の名前なのか、それとも本のタイトルなのかさえわからなかった。
難しい本。
あの人も、いつも本を読んでいた。最後に抱かれた夜も、サイドテーブルには読みかけの本が置かれていた。四つん這いで彼に貫かれながら、怜は本を眺めていた。かすむ意識の向こうにタイトルはおぼろだ。覚えておけばよかった。
怜が覚えているのは、体の奥で感じる彼の熱と、うなじに跡を残す彼の唇だった。
お湯の音がする。自分はどうしてここに立っているんだろう。
「風呂に入っておいで。あぁ、そこにある袋を持って行って、脱いだ服を入れてこちらに出してくれ。洗濯機に入れてくるから。銃などの武器は……悪いが金庫に入れさせてくれ。帰る時に返そう」
木島はどうして、自分をここへ来させたのだろう? 妙に面倒見のいい男は、ワイシャツの腕をまくると、入口横の流しに置いてあったマグカップとスポンジを手に取りながら、怜に笑いかけていた。
ドアが開けられる前に、怜は深呼吸をした。
父に売り飛ばされるのは初めてじゃない。もう正直どうでもいいと思っていた。自分の権力や支配欲以外に興味のない男は、使える道具をすべて使う。悪いのは、あの時死ななかった自分なのだ。
問題は木島という男だった。突如として怜の前に現れた男。彼は高遠の差し出した最低の条件を、怜の意志を無視して承諾した。怜にも人権があるとはついぞ思っていないような態度だ。だが冷たいやり方とは裏腹に、木島は弱っている怜を犯そうとはしなかった。
そして──
あの時、木島は怜の名前を呼んだ。愛おしそうに。懐かしそうに。あれは確かに夢だったと思うけれど、もしかしたら、夢ではなかったのかもしれない。確信はない。あの人によく似た声だった。
しかも自分の体が、彼を拒絶しなかった。彼の匂いに包まれて安心して眠り、泣きたいほどあの人の存在を感じた自分の体が、怜には信じられなかった。
木島はあの人じゃない。それは確かだ。年齢が遥かに上だし、話し方も言葉遣いも違う。声だって、あの人はもう少し高く艶があった。
それに何より、怜は自分が撃った銃弾が彼に食い込む光景を見ている。膝を突き、倒れ込む彼を。哀しみに満ちた最後の眼差しは、銃口の向こうからいつも怜を追い詰めている。
混乱した頭のまま、怜は目の前のドアが開くのを見た。木島が顔を出す。
「ようこそ」
怜を迎え入れた木島は、今日もスーツ姿だった。落ち着いた雰囲気の木島には、スーツがよく似合う。この埃っぽい汚染周辺地域に来ていながら、スーツにもワイシャツにも汚れはなかった。
「おつかれ。風呂に入るかい?」
怜が部屋に入るなり、木島は労わるように言った。怜の選択肢をすべて塞いだくせに、まるで怜が自分で友人を訪ねてきたような対応だった。
「そう……ですね。入ります」
エレベーターは整備されておらず、8階まで階段で上るのは疲れる。汗と粉塵が体にまとわりついて気持ちが悪かった。
木島はジャケットを脱ぎ、ネクタイを引き抜いてからバスルームに入っていった。蛇口をひねる音。お湯が注がれる低い水音が響き始める。
部屋の真ん中に突っ立ったまま、怜は辺りを見渡していた。広い部屋だ。右の壁に頭をつけてダブルベッドが置かれ、その横には、ベッドに背中を向けて座る形で、大きな執務デスクがあった。ダブルベッドから目を逸らし、部屋の左側を見る。ダイニングテーブルの上には、小さな文庫本が無造作に置かれていた。怜は本の表紙を見下ろした。
後ろで、木島がバスルームを出てくる気配がする。
「……何を読んでいたんですか」
「あぁ、ハイデッガーだ」
怜には、それが著者の名前なのか、それとも本のタイトルなのかさえわからなかった。
難しい本。
あの人も、いつも本を読んでいた。最後に抱かれた夜も、サイドテーブルには読みかけの本が置かれていた。四つん這いで彼に貫かれながら、怜は本を眺めていた。かすむ意識の向こうにタイトルはおぼろだ。覚えておけばよかった。
怜が覚えているのは、体の奥で感じる彼の熱と、うなじに跡を残す彼の唇だった。
お湯の音がする。自分はどうしてここに立っているんだろう。
「風呂に入っておいで。あぁ、そこにある袋を持って行って、脱いだ服を入れてこちらに出してくれ。洗濯機に入れてくるから。銃などの武器は……悪いが金庫に入れさせてくれ。帰る時に返そう」
木島はどうして、自分をここへ来させたのだろう? 妙に面倒見のいい男は、ワイシャツの腕をまくると、入口横の流しに置いてあったマグカップとスポンジを手に取りながら、怜に笑いかけていた。
0
お気に入りに追加
44
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
獣人の里の仕置き小屋
真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。
獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。
今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。
仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる