腐れ外道の城

詠野ごりら

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1章

黒田三郎衛兵 1

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   2 黒田三郎兵衛則久

 数日前まで井藤砦と呼ばれていた砦には、藍色に白抜きで「手」と書かれた黒田家の旗が棚引いている。
 舞う旗を見上げ、甲四郎はふとよぎった疑問を口にした。
「前々から不思議だったのだが、なぜ黒田の旗印は「手」なのだ?甚六わかるか」
 甲四郎は、麦と米が半々に入った固い飯を、具の無い味噌汁で流し込みながら、丁寧に飯を咀嚼している甚六の方をみた。
 素直な疑問であろう、黒田家の旗なのだから「黒田」の文字を図式化したものや、「黒」と白抜きされた旗ならば意味は解る。
 だが何故、藍色に白抜きで「手」の文字なのか。
「そのようなことは、努々三郎兵衛様の前では語ってはなりませぬぞ」
 元々苦虫をかみ潰したような面構えの甚六が、渋い顔で眉間に皺をよせた。
「何故じゃ」
 甲四郎の興味はその表情を見て尚更膨らんだ。
「何故かと申されましても・・・三郎兵衛様がその由来を嫌っているからです」
「で、その由来とはどのような話じゃ」
「もうその話はよろしいでしょう」
「いや、聞いたからには気になる。すべて聞き納得せねば、儂は三郎兵衛様の前で旗の由来について口を滑らせてしまうかもしれん」
 甚六は深いため息を吐くと、一度しか言いませぬぞ、と念を押し、渋々話し始めた。
 樋野と呼ばれるこの狭い盆地を、本田正信が治めたのが、今から百数十年前。現領主本田忠康より数えて七代前にあたる。
 その初代本田正信が、樋野荘の国衆をまとめる存在となりえたのには、二人の家臣とその一族の働きがあったればこそなのである。
 一つは三郎兵衛の家系である「黒田家」、もう一つが、多くの武人を輩出した「半田一族」であった。
 この両家は「智の黒田」「武の半田」と呼ばれ、その特質を生かし、樋野荘のほとんどの土地を手中に収め、抵抗勢力であった他の国衆も味方に引き入れることに成功したのである。
 本田正信は両一族の働きを褒め称え、両家は我が本田家の両手であるとし、半田一族には朱色に白抜きの「手」の旗を、黒田一族には藍色に白抜きで「手」の旗を与え、その後両家は「本田の両腕」と呼ばれ、尊敬の対象とされたのである。
「そのような由来により、手の旗印となったのです」
 甚六は簡潔に由来について語ると、早々に話題を切り上げようとした。が、甲四郎は納得がゆかない。
「その噺では、なぜ三郎兵衛様が旗の由来を嫌うのかが解らんではないか」
「もう旗の由来は申しました故、これ以上はよろいしいでしょう」
「よろしくはないわい、儂の興味はすでにそこにはないわい、何故に三郎兵衛様は旗の由来を嫌うのか、そこが知りたい、なっ甚六よ申せ申せ、もうそこまで聞いて引くなど出来るか」
 甚六は頑なにそれ以上を語ろうとはしなかったため、暫く二人の押し問答が続いたが、ある瞬間を境に固かった甚六の表情が引きつり、俯いてしまった。
 いつの間にか三郎兵衛が、聞かせろ聞かせろと強請る甲四郎のすぐ後ろに立って居たのである。
「くっ、栗原様・・・三郎兵衛様がいらしておられまする」
 甲四郎は驚き、口に入れていた飯の大半を吐き出し、振り返ると、そこには戦場にいたときとは別人のような穏やかな表情を浮かべた三郎兵衛がこちらを見て立っていた。
 甲四郎は急ぎ姿勢を正し、地面と一体化するかのように土下座をすると、三郎兵衛は、よいよい顔をあげよ、と微笑み、その場に膝を突き、甲四郎達と同じ位置にまで顔を下ろしてきた。
 戦国初期は主従の上下関係は甘く、甲四郎もそれ以上の平服はしなかったが、聞かれた話題が話題であるため、甲四郎と甚六の躯の固まりようは尋常ではなかった。
 しかし三郎兵衛の表情は穏やかであり、子供にお伽噺でも聞かせるように甲四郎の疑問に答え始める。
「甲四郎、儂はな、この世とは、外道界に落とされた者が住む世なのではないかと思うことがある。誰も皆善人の顔だけでは生きられぬように、一族の系譜にも善もあれば悪もある」
 そういって話し始めたのは、黒田一族の闇の歴史である。
 本田家が三代永信になった時、半田家に重大な危機が迫っていた。
 一族の中に跡継ぎとなる男児が無いまま、頭首は老齢に差し掛かっていた。
 半田家の内部では遠縁の若者を呼び寄せ、新たな頭首に据えようという意見も出たが、他国に住む遙か遠縁の者を呼び寄せ代替わりさせた所で、それはもうすでに半田家では無くなってしまう。
 そんな時に助け船を出したのが、その当時の黒田家頭首である。
 幸い黒田本家には男児が多く、半田の末娘と年齢も近い男児もあったため、その子を婿養子に迎えてはどうだ、と持ちかけてきたのだ。 
 その時点で両家に何の他意もなく、純粋に家同士の友好的繋がりによる婚姻関係でしかなかった。
 黒田家から半田家へ行くことになった男児は五歳、必然的に黒田家から世話役の者が数人付けられることとなり、その世話役は黒田家から出された五歳の婿が正式に婚姻関係を結べる年齢になるまで、教育係も兼ねることとなる。
 高齢であった半田家頭首は、我が娘と黒田からの婿との正式な婚姻と、時期頭首指名を急いだ為、黒田から来た子は八歳の若年で十四歳の半田家三女と祝言を迎え、正式な後継者となった。
 その祝言のちょうど二年後、高齢の頭首が急逝し、十歳になった黒田からの婿は半田家三代当主半田公高と名乗り、半田家の実権を握る事となる。
 だが、僅か十歳の公高に一家を率いて行く力なとあるはずも無く、公高の婿入りの際世話役として入った者達が実務の全てを引き受けることとなり、謂わば傀儡当主の形となっていった。
 もちろん元々半田の家臣だった者がそれを許すはずもなく、半田家家臣と黒田から来た世話役との間に衝突が起こる。
 しかし、十歳とはいえ公高は正式な当主であり、その幼い当主は、幼い頃から面倒を見てくれた相談役の意見しか耳に入れない。
 やがて公高は、世話役の全てを重臣の座に付け、それに従わない者を降格させ始めた。
 勿論、排斥された所謂「保守一派」は密かに集結し、公高を亡き者として、新たな半田家を再興しようと、団結し武装化を進めた。
 その動きが起こる前から、それを見越していた公高の世話役であり、重臣となっていた者達は、黒田本家と早い段階から連携を取っていたのである。
 初代樋野領主、本田正信の代から言われてきた「智の黒田」「武の半田」の血筋は代が変わっても引き継がれており、その両家の特徴が、両家の運命を大きく分岐させることとなる。
 半田家の重臣の座から追い落とされた「保守一派」は、武装決起し、半田家当主の屋敷からほど近い寺に集結し、「公高一派」を牽制した。
 「保守一派」からすれば、この威嚇は有効的であった。
 何故なら、強引で狡猾な「公高一派」を指示する者は少なく、武装決起した「保守一派」の方が圧倒的に人数で勝っていたので、「保守一派」からすれば、この人数を見せつければ「公高一派」は恐れをなして、「保守一派」の意見を聞くようになるだろう、それでも駄目なら、この人数で屋敷を取り囲めばよい。
 それでも聞かないようであれば、武力で駆逐するまでの話だ。いかにも武力でのし上がった家の考えだが、勝算は十分に見込めていた。
 だが、一枚も二枚も上手であったのが「智の黒田」の者達であった。
 公高の重臣達は、「保守一派」排斥を本格化する前から、黒田本家と連絡を密に取りあい、本田家に「まだ幼い公高様の体制を盤石なものとする為には、信頼のあつい者を側近としておくことが重要であり、水面下では他家から来た公高様を追い落とそうという動きも見受けられ、その動きは他ならぬ本田家を支えてきた半田家をなきものとする愚行であると考えます」と、平たく言えばそのような内容の文面を何度か本田家に送っていたのである。
 「保守一派」の武装決起は「公高一派」からすれば好都合だったのである。
 ここぞとばかりに、「公高一派」の使者は黒田本家と、本田家に奔り「半田に対する反逆は、本田家および樋野の土地に対する反逆である」と、支援を呼びかけ、たちまち黒田と本田の両軍が援軍に駆けつける事となった。 しかも、援軍要請は、「保守一派」からの再三にわたる降伏要請の後に行ったので、黒田本田両軍が駆けつけた時には、保守一派が半田家屋敷を取り囲み始めていたときとあたってしまった。
 何から何まで保守一派の計算外であった。
 数的優位により、圧力をかけようとしていた「保守一派」の先陣は、運悪く、黒田からの第一陣と出くわしてしまう。
 しかも、黒田の第一陣が少数であったため保守派の先陣は、敵は援軍を合わせても少数であると見くびっり、前戦の者同士が小競り合いを初めてしまったのである。
 そこまでなら内輪もめの騒動や、小規模な戦でありがちな光景であった。だが、その小競り合いの最中に、本田黒田連合の援軍が到着してしまったので、瞬く間に「保守一派」は、自軍を上回る援軍に取り囲まれる格好となってしまった。
 そうなってしまえば「保守一派」は降伏せざるおえない。
 その後、保守派を先導した者は追放や出家をさせられ、半田家に残された者達も二度と公高派に逆らうことはなかった。
 その後青年となった公高は、朱色に「手」の旗を廃し、自らも半田姓を名乗ることをやめ、名を黒田隆竜と改め、正式に黒田の分家となっていったのである。
 そこまで話すと、三郎兵衛は深くため息を吐き、険しい目をみせた。
「話はそれまでだ」
 三郎兵衛は話を締め、「では、井藤十兵衛からの使者が来るまで、いつでも動けるようにしておくのだぞ」と言い残し、その場を立ち去った。
 三郎兵衛の後ろ姿を見送ると、甚六は言葉少なに三郎兵衛が黒田の家を背負うまでの苦悩を、断片的に語り始めた。
 三郎兵衛が少年時代の頃まで、黒田家の反映を「本田の右手は左手を飲み込んで大きくなった」と皮肉に言う者も少なくは無く。
 三郎兵衛少年は深く傷つき、その反動で、少年は、素直で実直であることを使命とするような青年へと育っていった。
 青年はやがて、小さな国衆の共同体である樋野荘が、国衆どうしのいざこざで乱れていては隣国に付け狙われ、やがて他国に支配権もろとも奪われてしまうと考える。
 黒田家の当主を継ぐのは、三郎兵衛の兄道晴と決まっていたのも彼にとっては幸いであった。
 実直で策を嫌った青年は、樋野や隣国山名を奔走し、あらゆる立場の意見に耳を傾ける「奔走家」となっていった。
 やがてその行動が本田家の目にとまり、当時の領主、本田忠信との面会を許される。
 しかし、この面会は本田家の重臣たちが怪しい動きをする若者を捕らえ、亡き者にするか、投獄するかを吟味する場であった。
 本田忠信をはじめ、並み居る重臣たちが居並ぶ樋野城の大広間に呼ばれた三郎兵衛は、その場の異様な雰囲気に死を覚悟した。
 本田家の重臣の大半が、策士である黒田家が国衆や隣国山名と繋がり、半田家を乗っ取ったように本田家を丸呑みする計画を立てているのではないかと疑っていたのだ。
 だがしかし、大広間の中でただひとり穏やかな表情で三郎兵衛を見る者がいた。
 本田忠信である。
 忠信は、重臣等の厳しい調べを退屈そうに聞き、その問いかけが一時やんだ所を見計らい。
「黒田三郎兵衛則久、ここにおる者等はな、お前を殺してしまえといいおる。だから、お前を殺すことにする」
 三郎兵衛はただ反問することも無く、頭を深々と下げ、忠信の言葉を受け入れた。
 この時代の主従関係は後のそれとは違い、すべて言われるままに従う必要も無ければ、意に沿わなければ他の主に付けばいいだけの事なのである。
 なので、三郎兵衛がとった行動は、この時代の常識敵観念から見ると、異常な行動とも取れた。
「そこじゃ!三郎兵衛!お前は黒田の血が入っているにしては青臭く、心根に撓りというものがない、ただちにそこを殺すのじゃ」
「はっ?」
 三郎兵衛は目の前の領主が何を言いたいのか判断に苦しんだ。
「そのように莫迦正直な黒田三郎兵衛はここで殺せ。以後その方は、儂の間者として、儂の見聞き出来ない者を見て、儂に知らせるのだ、いいな」
 重臣達は皆息を止めた。
「忠信様何を申される!この者は黒田の息子ですぞ!何を考えておるかわかったものでは御座らん」
「そなた等は阿呆か!その黒田の子を訳も無く切り伏せたとなれば、黒田の者どもはたちまち山名につくぞ、そうなれば本田、いや樋野の土地は山名に暮れてやったとおなじことになるぞ」
 重臣達は、忠信に反論できず、俯く事しか出来ないでいた。
「皆、三郎兵衛の面をよう見よ、この面は姑息な考えなど持たぬ者の面だ、毎日その真逆の面を見ておるからようわかる」
 忠信は豪快に笑った。
 その日から三郎兵衛は本田家の間者となり、奔走する日々を送った。
 三郎兵衛自信も元々、本田家のために奔走していたので、自分の行動が非公認であるか公認であるのかの違いがあるだけで、三郎兵衛の行動になんの変わりも無かったし、見聞きした事を忠信に聞かせることは、忠信にとっても、三郎兵衛にとっても得るものが多かった。
 各地に赴き、意見を交換するうちに三郎兵衛と忠信の間には、主従を越えた信頼が生まれ、忠信はやがて、この男を跡継ぎである忠康の相談役として側近に付けようと考えるようになる。
 二十一歳となっていた三郎兵衛は、三つ年下の次期領主、本田忠康の相談役となり、歳の近い忠康とも兄弟のような信頼関係を築き上げていった。
 だが、三郎兵衛の人生はその後急変する。忠康の相談役となってから二年後、三郎兵衛の兄、孫兵衛が領地を接する山名の者等との小競り合いで重傷を負い、その傷が原因で急死したのだ。
 黒田の跡取りは自然と三郎兵衛となり、三郎兵衛は領地である黒岩に帰らざるおえなくなった。
 三郎兵衛の父、源兵衛は孫兵衛を溺愛していたため、孫兵衛が死ぬと精神を病み、みるみる衰弱していった。
 黒田家や黒岩の土地を仕切れる能力のなくなった父、源兵衛に変わり、三郎兵衛が当主となり、黒岩の土地を任される立場となってしまった。
 何事にも縛られず、忠信や忠康の為に奔走し、見聞きしたことを伝える役目が何よりも性に合っていた三郎兵衛からすると、窮屈な日々であったが、当主の職も得るものがおおかった。
 黒岩の領民からの信頼である。
 しかし、黒田の当主となり一年半、衰弱し精神を病んでいた源兵衛がこの世を去った。
 三郎兵衛は、死の淵にある父の手を取り声をかけたが、父は孫兵衛の名を呼ぶばかりで、自らの枕元に座っている者が自分の息子だと気づくことはなかった。
 父が死んで三年、本田家から突然の悲報が届いた。忠信が亡くなったのである。
 父の喪が明けてからというもの、忠信の命を受け、樋野の土地に現れる反乱分子の排除にあたっていた三郎兵衛からすると寝耳に水であった。が、会うたびに年老いて行く忠信を想うと、寿命が突然途切れるのも仕方ない事ではある。
 そう割り切ると、何故か三郎兵衛の目から涙があふれ出した。
 その涙はまるで関が崩壊したかのようで、三郎兵衛は人目を憚らず嗚咽したという。
 それは、父の死の時にもあふれ出なかった感情であり、自らを認めてくれた存在がこの世から消えてしまったことに対する精神の決壊だったのかもしれない。
 その日から、三郎兵衛は戦場での振る舞いを変え、まるで鬼が取り憑いたかのような形相で、敵に罵声を挙げつつ突進する鬼神へと変貌した。

「わたしは三郎兵衛様ほど芯のある強者を知りませぬ」
 甚六は、珍しく多弁に三郎兵衛の話をした後に呟いた。
 それを聞き、甲四郎もただ頷いた。
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