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1章
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黒岩という土地の大半は険しい斜面で締められている。
その勾配の険しい土地には岩石が露出した部分も多く、農作物の栽培に適した土地ではなかった。
三郎兵衛の祖先がこの黒岩の地を与えられた時には、野山をゆく獣を捕獲するか、山に自生する木の実を口にして凌ぐしかなかったが、根気強い開拓により、蕎麦の栽培を初め、やがて畑にてきした土地を造りあげると、大根やカブなどの根菜類、茄子や胡瓜などの果野菜やフキなどを栽培し、三郎兵衛の代になると、日本に渡って来たばかりのジャガイモの種芋を手に入れ、それなりの収穫を見込めるようになっていた。
黒岩という険しい土地は正に、黒田一族が何代にも渡り育て上げたといえよう。
その田畑越しに麓を見下ろすと、青々とした平地に水田が犇めき、その向こう側に僅か、樋野城の姿を確認することが出来る。
三郎兵衛はその光景を目に焼き付けるように、暫く見ていると、目を細めた。
「三郎兵衛様・・・」
何度目かのその問いかけに、三郎兵衛はやっと反応した。
横には十吉が立っていた。
「おぉ・・・十吉、いかがした」
「ついに、お城からお呼びがかかり申しました」
「左様か・・・では、ここに若い衆を集めてくれんか」
「今ですか?」
十吉は三郎兵衛のただならぬ様子をみて、いつもはしないような問い直しをしてしまった。
「そうだ、すぐにでも発たなければならん、土地の若い者をここへ・・・」
十吉はそれに対し咳払いのような返事を返すと、走り出した。
黒岩の若者達は、峠道に面した広場に集められた。
そこで集落の若者を前に、三郎兵衛は遺言ともとれる演説をうつこととなる。
「儂は樋野城へ発つ!」
若者の中に僅かな響めきが起こる。
それは、三郎兵衛が樋野城へ上る先に待ち受ける運命を察している者が大半を占めていたからである。
「儂は本来、この黒岩を継ぐ者ではなかった。それは、兄が継ぐべき土地をもらい受けたというだけではなく、儂は民や配下を従える技量に欠けた人間である」
三郎兵衛は若者たちを見渡した。
「この前に突き進むことしか知らぬ猪武者を、侍大将に仕立ててくれたのは、ここにおる者どもだ・・・そして儂は、今から土地を守る者として許されざることを語る!」
そこまで云うと、三郎兵衛は奥歯を噛みしめ、拳をきつく握ると、瞳を見開いた。
「儂の家は代々本田家に仕えてきたが、伝え聞く噺にも、本田清親に勝る愚者な下郎な当主はおらん!清親はあらゆる手を使い、儂を汚し貶め、命を狙うであろう!」
再び若者たちに響めきが起こる。
「静まれ!静まれぇい!」
三郎兵衛の横に控えていた十吉が何度か吠えると、細波のように若者達の動揺が収まりはじめた。
「儂の身に大事がおこり、黒岩を他の者が治める事態になったらば、この地を放棄し、平野に走れ!その際、田畑や住まいは全て焼き払うのじゃ!」
「なにをおっしゃるじゃ!そげな簡単に先祖伝来の土地を捨てぃと申すじゃか!」
流石にこれには声を上げる若者が多かった。
中には「三郎兵衛様!気が触れたか」と三郎兵衛に掴みかからん勢いの者もいた。
そこで三郎兵衛は、先ほどにも勝る、雷のような、まるで咆哮するような声を発した。
「儂には我が命より大事な者がある!」
三郎兵衛はこれと全く同じ文言をもう一度、少し落ち着いた口調で吠えた。
と、若者たちは戦慄くように口を閉ざした。
「それは!この黒岩の民じゃ!その民であるそち等が、我が生命と同等に祖先から受け継いだ田畑を想っておることは身に染みておるが!・・・新たな領主に土地を奪われ!黒田の配下だと蔑まれ!生きて行かなければならんなど・・・儂は耐えられぬ!」
三郎兵衛は荒れた地面に膝を突き、土下座をするような姿勢になると「儂は耐えられぬのじゃ」と、もう一度いった。
戦国初期に限らず、その後の時代に至っても、農民達は土地を治める者がいかなる悪政を布こうとも、その土地を離れようとはしなかった。
それには幾つかの要因があっただろうが、人々を同じ土地に止めさせたのは、土地に対する執着がそうさせていたのかもしれない。
先祖が開墾し、代々受け継いだ土地は、只単に「地面」ではなく、子孫に受け継ぐべき「生命」であったのだ。
その「生命」である土地を捨てろと、三郎兵衛はいう、しかも、精魂込めて育てた作物や、家族を育んだ家を焼き払って逃げろと、この領主は涙ながらに、更に獣のように吠えながら訴えるのである。
なんなんだこの領主は!
若者の中には唖然とするしか無かった者もいただろう。
この御方こそ真の領主様だ!
そう心に誓い、土地を捨てる決心をここで決めた者もいたかもしれない。
だがこの時点で、三郎兵衛の云うような事態が起こるわけが無い、と高をくくっている者の方が多かったのかもしれない。
「三郎兵衛様、お立ち下さいませ」
十吉は三郎兵衛の腕を取り、必死に立ち上がらせようとするのだが、三郎兵衛はそれを振り払った。
「儂には云わねばならぬ事があるのだ」
十吉にだけ聞こえるようにいうと、三郎兵衛は又声をを張り上げた。
「儂は!樋野城へ死にに行く!もうそち等には会えぬ!儂の最後の願い!どうか!胸にだけは納めておいてくれ!」
三郎兵衛は、スッと立ち上がり、晴れやかな顔で、若者たちに頭を下げると、その場を立ち去った。
「三郎兵衛様!」
峠道を下りかけた時、甲四郎と市蔵がそれを追ってきた。
「この栗原幸四郎が、きっと皆を説得してみせます」
甲四郎の澄んだ目を見て、三郎兵衛は小さく頷いた。
「甲四郎と市蔵は、皆と共に行くな」
「は?私が先導して平野へ行くのでは?」
「そち等二人は、山内に走り、八山と申す僧を探すのじゃ」
「ヤザン!」
「八山坊主を知っておるのか?」
「イヤ・・・以前足軽からその名を聞いたことがあります故」
「左様か・・・では、頼んだぞ」
そういうと、三郎兵衛は十吉と共の者一人の三人で峠を下った。
「儂も真の外道になったのかもしれぬな」
三郎兵衛は峠を下りながら突然口にした。
「何をおっしゃいます、三郎兵衛様」
「八山坊主の名を久々に口にしてつくづくそうおもった。儂こそが外道じゃと・・・」
「三郎兵衛様が外道ならば、世の全てが外道で御座いましょう」
「何をいう、十吉、儂は、民の命が大事などといったくせに、その民を大戦(おおいくさ)に追いやろうとしておるのじゃ・・・これを外道と呼ばずして何を外道と呼ぶ」
それだけいうと、三郎兵衛は黙々と歩を進めた。
三刻ほどで一行は樋野城下へと着いた。
城下といっても樋野ほどの田舎であると、城の周りに城下町があるわけでは無く、水田の真ん中に平城を置いたような印象で、城は田畑の水路をそのまま堀に利用しており、あぜ道を行くと、農耕地では無い平地に辿り着き広場になっている。
その広場で週に一度ほど市が開かれ、僻地の領地は僅かに賑わう。
広場を抜けると、城付きの家臣の家が数件あり、その先に人の背丈にして二人分ほどの堀があり、堀を渡ると樋野城の正門となる。
「十吉、ここまでご苦労であった。二人は黒田家の屋敷で休んでおれ」
「なにを仰います三郎兵衛様、拙者も付いてゆきまする」
「いや、それには及ばん、これからは儂一人で」
「なりませぬ!」
十吉は三郎兵衛のことばを割るように叫んだ。
「この栗原十吉、死ぬも生きるも三郎兵衛様と共にと誓ったのです、ここで引いてはご先祖に顔向けが出来ませなんだ」
「手前勝手な誓いをされても困るわい、清親とは儂のみで話しをつける」
それに対し十吉が怒りにもにた眼で三郎兵衛を睨み返した。
「手前勝手はどちらです!あなたが手前勝手なことをせぬように、この栗原十吉がおるのです!十吉はここで斬り倒され骸になっても三郎兵衛様と共に登城いたしますぞ!」
「まったくなんという頑固な爺じゃ」
いいながらも三郎兵衛の口元は緩んでいた。
さもすると、三郎兵衛は十吉のこの答えを何処かで望んでいたのかもしれない。
三郎兵衛は共にここまで来た共の者に、なにかあったら黒岩に伝えるのだ、と伝え、十吉と共に堀を渡った。
三郎兵衛と十吉は、板敷きの大広間に通され、そこで暫く待たされた。
スルスルと戸が開き、ゆっくりとした足取りで本田清親と、その家臣二人が現れた。
三郎兵衛は平伏する前に清親を一瞥した。 その顔は、人の噂に聞くような「蛇のような男」といった印象ではなく、多少ひ弱さの残る何処にでもいる青年のように感じた。
だが、三郎兵衛はその一瞬で、青年の冷えた眼差しの奥に異常性が隠されている事も読み取っていた。
「この度は、平野における戦勝の報告が遅れまして誠に申し訳なく・・・」
「よいよい!ワシは回りくどい話しは好かぬのじゃ」
清親の声はか細いが、良く通る不思議な周波の声であった。
「此度、平野よりそちを呼び、登城を許すまで日が開いたのは、そちの処分をどうしたものかと、考え倦ねたけっかじゃ」
「処分・・・ですと・・・」
十吉が平伏しながらも怒りに震え呟く。
「左様!黒田よ、まさか平野を攻め落とした褒美があるとでもおもうておったのではあるまいなぁ」
「して、その処分に至った道理をお聞かせ願いたのだが」
三郎兵衛は云いながらゆっくり姿勢を起こすと、清親を睨んだ。
戦国期には主従関係は厳格ではないので、三郎兵衛の態度を咎める者もいなかったが、この時の眼差しには反抗心が露わであり、清親の横に控える家臣もつい身構えるほどであった。
「井藤十兵衛が平野との境に設けた砦を落とす際、そのような砦わしらがぶんどって、黒田砦にしてやる、と叫びながら砦をせめたとか?」
「それは、砦を落とすため鼓舞するために申したまで」
三郎兵衛は兵の中で勝手に云ったこととはいわなかった。
「では・・・砦を落とした後、砦を三郎兵衛砦と呼んだことはどう釈明する?」
「それも、その時に、井藤の物ではなくなっておった砦を便宜上そう呼んだだけです」
そこでも三郎兵衛は、部下達が勝手に僧呼び、自分はその呼び名はやめろと言ったなどと言い訳しなかった。
「平野城を落とした後も、畠中信義と、まるで自らが城主であるかのように、平野の治政を勝手に変えたとか」
「それは、井藤十兵衛が布いた悪政だけを排除しただけで、悪政により餓えていた一部の者に、年貢の免除をしただけであります」
「左様か・・・」
清親の陰湿な眼光が鈍く輝く。
「忠康が甘やかすものだから、このような家臣が出来上がるのだろうのぉ」
三郎兵衛はその冷ややかな言葉を、唇を噛みしめ耐えきると、清親を憤激の眼差しで睨んだ。
「私は、ここへ申し開きに来たのではありませぬ・・・我が主、忠康様について誠のことを伺いにまいったのです・・・忠康様は如何様にして亡くなられたのでありましょうか」
清親は何一つ表情を変えることのない口調で、その時に城にいなかったので詳しくは解らないが、疲労を訴え寝込むとそのまま眠るように息を引き取ったそうだ、と、淡々と説明した。
「よう様はいかがなされております、一度お目にかかり、お悔やみを申し上げたいのですが」
「あの女か」
あの女だと!
前城主の奥方を、あの女呼ばわりするなどとは、許せん!
三郎兵衛の脳内は沸点に達しており、怒りで発声することも出来ずにいた。
「あの女は、ワシの側室になることを拒んだので・・・犯して・・・殺してやったわい」
三郎兵衛は憤怒のあまり前進に震えが走り、獣のごとく唸ることしか出来ずにいた。
怒りとは、頂点を遙かに越えると、思考の全てを奪う者なのだ。
「あの女とは前々よりまぐあいたいとおもうておったのじゃ・・・あの切れ長の目、鋭い頬骨、それでいておおらかな女であった」
「このぉ!腐れ外道がぁ!」
叫んだのは平伏していた十吉であった。
十吉は大らかで優しい城主の妻を、まるで菩薩を信仰するかのように慕っていた。
その菩薩を、目の前の腐れきった蛇が汚したのだ。
ここでこの蛇と刺し違えてもいい、十吉だけでなく、同時に三郎兵衛も思った。
だが、広間に入る前に刀は預けている。
十吉は、この蛇の首をへし折ってやると決め、立ち上がったが、廊下で控えていた護衛が飛んで入り、十吉を木の棒で打ち払ってしまった。
十吉は床に突っ伏し、三郎兵衛は他の護衛に棒を突き立てられ、片膝立ちのまま、怒りに震えている。
清親は、そんな状態の三郎兵衛に近づいて行き、更に挑発を続けた。
「あの女はこの部屋で殺した・・・床に押し倒し、下帯を剥がすと、あの女は覚悟したように又を広げたまま動かなんだ・・・三郎兵衛、そちも男ならわかろう、欲していた女が突如拒むことを止めたとき、ふっと萎えてしまう・・・だが!ワシの一部分は「この女を抱け」といって聞かぬ・・・」
聞くに堪えない言葉に、三郎兵衛は眼をグッと瞑った。
しかし、清親はケダモノのような話しを止めようとはしなかった。
「ワシは、それに従いあの女を貪った、だがあの女は天上を見詰めたきり、吐息すら漏らさぬ!なんという女だ!ワシはやがてあの女の体内で果てた!そして!持っていた短刀であの女の胸を突き刺した!ワシの一部はまだあの女と繋がったままじゃ・・・息絶えた女の体内が冷たくなって行くのがよぉわかった・・・あれは絵にも言われぬ悦楽であったのぉ」
「おのれぇ!」
「ワシが何故あの女を刺したのか、そちにわかるか?・・・」
「知りたくもないわ!」
「いいや!そちにも関係のある話しじゃ」
清親は一拍おくと、低い声を出した。
「世継ぎじゃよ・・・忠康はワシが何度進言しても、側室をもうけようとはせなんだ、たった一人の女に拘り、疎ましいワシに家を継がせることになってしもうた」
「世継ぎを産まなかったからよう様を殺めたと申すのか!」
「疑念じゃよ・・・三郎兵衛」
「ワシはなぁ、ようを抱くうちに疑念が産まれる予兆がしたのだ」
それは要するに、今後無理矢理にようを側室にしたとしても「これは忠康の子種なのではないか」と、疑念を抱き続けるのでなないか、その想いが自らの思考に芽生えた時、ようをこの場で殺めてしまおうと、清親は決心したのだ。
「そちもそうじゃ・・・「あや」と申したかな・・・そちの亡くした妻の名は」
清親の口からその名が発せられた途端、三郎兵衛の表情が明らかに変化した。
怒りと、悲しみと、無力感、三郎兵衛はその三者に支配された、表情を浮かべた。
「子をもうけるたび、そちの子は早死にしたのだそうだなぁ・・・そして何度目かの子を死産した後、そちの妻は崖から身を投げ命を絶った・・・であろう?」
「忠康にしてもそちにしても、何故世継ぎより妻などに重きをおくのじゃ、ワシにはわからぬわ」
そこで三郎兵衛は乱れる心の内から戻り、清親を憐れみと、蔑みの目で見た。
「わかろうはずがない!おのれのような外道に幾ら説いたところで、もはや人ではないおのれに解ろうはずがない!」
「なんと!」
無表情を決め込んでいた清親の眼差しに、怒りが浮かび始めた。
「三郎兵衛ワシが憎いか?斬り捨てないか?だがのぉ三郎兵衛、この情況を見てみよ、そちにもう勝ち目はない、それどころか、ワシに指一本触れることすら叶わぬのじゃ!」
すると、三郎兵衛は突然笑いはじめた。
「なんと、気が触れたか」
清親が罵るように三郎兵衛をみると、更に笑い声の調子が上がった。
「おのれはまだ自らが殺される価値のある男だと思っておるようだが、おのれのような人の形をしたウジなど、斬った刃が汚れるわ」「なんだと!」
「おのれは本田家の名を語る価値もないヘドじゃ!ヘドはヘドとして道端で枯れて腐って行くがよい!」
そこまで言われた時、清親の表情が初めて怒りに打ち震え崩れた。
「者共!この二人を牢に入れておけ!今言ったことばすぐに後悔させてやるからな!」
× × × × ×
広間での一件があってから数日後。
市蔵は樋野城下にいた。
城前の広場に人だかりがあり、それに吸い込まれるように歩を進めると、そこに大きな板が掲げられており、なにやら殴り書きの文字が書いてある。
市蔵は文字が読めない、だが、高札の下には城の役人らしき者がその内容を群衆達に口頭で伝えていた。
市蔵は役人の言葉に耳を傾け、その内容を理解すると、全身の血の気が引いていった。「なんとぉ・・・」
搾り出すようにいうと、市蔵は跪いてしまった。
「甲四郎様・・・」
その名を二度ほど口にすると、市蔵は自らを奮い立たせ、立ち上がり、走った。
樋野の城下を転がるように走り抜けると、すぐに田畑のあぜ道になり道幅は狭い、はやる気持ちで前のめりに走っていた市蔵は、何度か道を踏み外し、水路や田んぼに落ちそれでも構わず前進を続け、黒岩に続く峠道の麓でやっと立ち止まり、湧き水で顔を洗い、喉を潤すと、険しい峠道を一気に駆け上がっていった。
黒岩領内に入った時には、市蔵は土埃の固まりと化していた。
着衣はズタズタに破れ、髪はザンバラになり、草鞋など既に無く、足の裏は血だらけであった。
だが、今の市蔵にその痛みを感じていられる余裕はなかった。
ガガァンと戸を蹴破る音がすると、土埃の塊、市蔵が甲四郎の部屋に転がり入るなり。
「三郎兵衛様が!・・・・三郎兵衛様が」
急勾配を一気に駆け上って来た市蔵の呼吸は乱れに乱れ、まともに会話が出来る状態ではなかった。
「市蔵!落ち着け!息を整えよ!」
ハァハァハァ・・・はぁ・ふぅぅ・・・
息を整えると、市蔵は何度か咳払いをし。「甲四郎様・・・三郎兵衛様が・・・打ち首になっちまう!三郎兵衛様が!」
甲四郎は鼓動が止まりそうになる我が身を奮い立たせ、市蔵に擦り寄った。
「それは・・・いつじゃ!いつ三郎兵衛様がそうなる!」
「わからん・・・それだけ聞くとオイは走ったで・・・」
「行くぞ市蔵!着替えよ!」
甲四郎は家の者を呼び、市蔵の着物を用意させると、脇差しと刀も用意させ、市蔵にも侍の様相をさせると家を出た。
「何故オイもこのような格好を?」
「お前も三郎兵衛様の立派な家臣じゃ!何かあった時には、ワシと市蔵二人で斬り込む、よいな!」
「よいもなにも、オイははなっからそのつもりだで」
「だが、どうにもならない場合には、山名に逃げ込む、それが三郎兵衛様のご意志だ」
そのような会話をしていると、一人の中年男が二人を見つけ駆け寄ってきた。
男は甲四郎の一番上の兄、栗原基継(もとつぐ)であった。
基継は、三郎兵衛等が平野に攻めていた時も黒岩に残り、残された黒岩の住民をまとめていた人物であり、実直な正確が全身からわき出るような男で、その正確故、三郎兵衛が事あらば黒岩の地を捨て、平野へ奔れと言ったとき、その意見に真っ向から反論し、土地を守り抜くことを主張した。
だが現在では、甲四郎等の必死な説得により、その意見を覆し、黒岩の若者から長老までの意見をまとめ上げ、平野へ向かう際の先導役となっている。
基継は甲四郎の様子を見て、大体の情況を察し、甲四郎の近くまでくると、小さく頷いた。
「後は任せよ・・・だがな甲四郎、一時の気の迷いで行動を起こすでないぞ、引くときは引くのだぞ」
「わかっております兄上」
「藤吉も田之口の国衆を引き入れる為に奔走しておる。それを無駄にするでないぞ」
藤吉とは、栗原藤吉、つまり甲四郎のすぐ上の兄であり、田之口と呼ばれる平野に面した小領地の国衆を味方に引き入れる為に動いているのだ。
甲四郎は頷くと、それ以上の会話は無く、甲四郎と市蔵は基継に背を向け、足早に黒岩の峠道を下っていった。
数日間城内の牢に入れられていた三郎兵衛と十吉は、ある朝突然城内の一室に移動させられ、そこであてがわれた白装束に着替えるよう命じられた。
三郎兵衛も十吉もお互い何も言葉を発すること無く、黙々と着替えた。
着替え終えると、四人の役人が部屋に入ってきて「着いてこい」とだけいい、そのうちの二人が先導し、あとの二人は三郎兵衛達の後ろについて歩いた。
建物を出ると役人は、一人一人の前後に着くような格好になり、そのまま場外へと出た。
広場には畳二畳分の長方形の板が数枚重ねられ、舞台のようになっていて、その前には群衆が息を???んで見守っている。
三郎兵衛と十吉は、板の上に正座させられると、その左右にここまで連れてきた役人が立った。
暫くすると、清親とその重臣らしき男が現れ、板の敷かれた場所から少し離れた所にある床几に腰をかけた。
清親と重臣は数度言葉を交わすと、重臣がおもむろに立ち上がり、板の前までやってくると、群衆に演説をうちはじめた。
その内容は、城主の命により、平野を落とした三郎兵衛は、あろうことか命令に背き、落とした平野を我が物にしようとした反逆者である。
と、まぁ広間で清親がいったことに沿った内容をいうと、申し合わせたような頃合いで清親がそれに割って入ってきた。
「この罪人はまもなく落命する!それにあたり、黒岩領は治める者がいない空白地帯になってしまう、まず・・・黒田三郎兵衛の命があるうちに、自らの領地を治める後釜の面を見ておきたいのではと思うてな・・・」
そこまで冷たい口調でいうと、清親は大きな声で「こちらへ参れ!」と叫んだ。
「やはりな・・・」
清親に呼ばれ、広場に入ってきた鶏面の男を見上げると、三郎兵衛は乾いた口を開いた。
そこに居たのは、井藤十兵衛である。
三郎兵衛は平野が反乱をした時から、井藤十兵衛をそそのかした人物がいるのでは無いかと踏んでいた。
ここで十兵衛が現れたことによって、平野の反乱を指揮していた黒幕が清親であると、自白したようなものである。
だが清親は、皆の疑念を払拭するように、忠康が十兵衛を追い込み、三郎兵衛が十兵衛の降伏を受け入れず、城を攻め落としたという作られた物語を群衆に語り始めた。
三郎兵衛は、虚言に満ちた物語など意味がないことをしっていた。
三郎兵衛は、冷め切った目で新領主を見詰める群衆を見渡した。
甲四郎と市蔵が樋野城前の広場に着いた時には、三郎兵衛と十吉はすでに板のうえに正座させられており、役人が三郎兵衛の罪状を述べている所であった。
二人は群衆をかき分け、前へ進み、最前列まで辿り着いた時には、井藤十兵衛が呼ばれ開いていた床几に着席した後であった。
「アイツが井藤十兵衛か・・・三郎兵衛様の仰った通り、酷いヤツが黒岩に入るな」
そこまでいうと、甲四郎は板の上に座る十吉と目が合った。
「親父様・・・」
「さて、栗原十吉、最後に申したいことはあるか!」
先ほどまで罪状を述べていた重臣が声を張り上げた。
「御座らん!」
「本当によいのか、辞世の句なり、申し伝えたいことがあれば、伝えてもよいのだぞ」
「御座らん!」
十吉はもう一度強くいうと、目の前を強く見て開いた。
「拙者には三人の息子がおるが皆、拙者より切れ者であるが故、拙者の申したいことなどより既に先を見ておる。なので申す事は御座らん」
「左様か」
重臣が冷たく言うと、一瞬の閃光と共に、十吉の首は板の上から地面に転げ落ちた。
「親父様!」
甲四郎は震えるように叫んだ。
「黒田三郎兵衛則久」
名を呼ぶと、重臣はありもしない三郎兵衛の罪状を長々と並び連ね、群衆の心を清親側に引き込もうとしたが、群衆の心は離れる一方であった。
「では、最後に申したいことはあるか?」
三郎兵衛は群衆を見渡し、その中に甲四郎と市蔵が居ることを確認すると、通る声で語り始めた。
「皆の使えるべき家はすでに滅びた!」
三郎兵衛が、険しい表情でいうと、突如雲行きが暗くなり、弱い雨が降り始めた。
「共に土地を守るべき領主は、途絶え、樋野の地は汚れた盗人の手に落ちたのだ!」
すると、雨脚は次第に強くなり、激しく地面を叩くようになった。
「もうよい!刎ねよ」
役人の一人が刀を抜き、一度首を刎ねる位置に刃を置くと、清親がそれを止めに入った。
「待て!この者は首を刎ねるだけでは飽き足らぬ!右腕を刎ねよ!」
「右腕・・・で御座いますか?」
重臣は怪訝な表情で清親を見た。
「黒田の忌まわしい旗印、そして、黒田家は本田家の右腕と呼ばれた!その右腕を断ち切れと申しておるのじゃ!」
重臣はそれに答え、頷くと、刀を抜いた役人へ目配せをした。
激しい雨の中、刃が振り落とされ、三郎兵衛の右腕は板の上に落ち、夥しい血が三郎兵衛の右腕から吹き出し、激しさを増す雨に流され、一瞬にして板の舞台が赤く染まった。 それでも三郎兵衛は、意識を奮い立たせ、膝立ちで群衆を見て笑ってさえいた。
「黒田を滅ぼそうとも!新たな腕が己の息の根を止めに現れん!」
三郎兵衛の声は全ての群衆の胸を貫くように響き渡った。
「こんな領主に仕えていたら、我が身も滅ぼすことになるぞ!清親を倒せ!」
土砂降りの雨の中、甲四郎は咆哮した。
「殺せ!」
清親は自制心を失ったように叫ぶと、二度目の刃が振り下ろされ、三郎兵衛の首が飛んだ。
「三郎兵衛様ぁぁ!」
甲四郎と市蔵は声の限り叫んだ。
「あの者等を捕らえよ!」
清親が叫ぶと、樋野城の役人達が甲四郎と市蔵を捕らえようと、走り寄ってきた。
「市蔵!来い!」
甲四郎は群衆をかき分け、前へ前へと身を倒すように進んでいった。
群衆を抜けると、甲四郎は城の方へ走りはじめる。
「甲四郎・・様・・そっちは城だで!」
「わかっておる!市蔵、馬には乗れるか」
市蔵は頭を振った。
下級武士の子が乗馬など出来ようはずがない。
「乗ってから覚えよ」
「そんな無茶な」
そんなやり取りをしているうちに、城の馬小屋に辿り着いた。
三郎兵衛と十吉の処刑のせいか、この雨のせいかはわからないが、幸い馬の番をする者はいない、甲四郎は二頭の馬の縄を解くと、そのうちの一頭に跨がった。
「そっちの馬に乗れ!」
「そんな簡単にいいますが」
「乗らねば殺されるぞ!」
市蔵は見よう見まねで馬に乗り込むと、甲四郎は棒っきれで市蔵の乗る馬の尻を力任せに叩いた。
それから市蔵は必死に馬につかまり、ただ身を任せるしかなかった。
後方からは、樋野城の者達の叫び声が聞こえ、皆がこちらを追って来るのが見ていなくても察知できた。
「山名に行くんじゃないのですか?」
暫く馬に乗る内に、ある程度馬に慣れた市蔵が叫んだ。
「平地を行けば追っ手が優位になる」
「ですが・・・このまま行けば忍山(おしざん)です!土蜘蛛に見つかったら厄介なことになりますぞい」
忍山とは、樋野領と山名領のちょうど栄えにある小高い山のことで、その山には十二年前の対土蜘蛛戦で追われた土蜘蛛(ツチグモ)と呼ばれ忌み嫌われている種族が澄んでいる山でなのである。
その土蜘蛛に捕まれば、人の肉を喰らうと言われる者共になにをされるかわからない。 しかし、樋野城の追っ手も忍山に踏み入ることを躊躇するに違いない、甲四郎はそう考え、忍山の整備されていない獣道に馬で突き進んでいった。
だが、激しい雨で道が泥濘んでいる上に、道幅は狭く、一歩踏み外せば谷底に落ちる危うい道を行くことになった。
「こんな道、馬じゃ到底無理じゃ」
市蔵は情況に耐えかね、下馬しようとする。 と、市蔵の足が馬の腹に触れたのか、馬が突然暴れだし、市蔵はそのまま谷底へ落下していった。
あっという間の出来事であった。
「市蔵!市蔵!」
甲四郎が何度呼んでも、斜面の向こうから返事はない。
「すまぬ、市蔵」
甲四郎は深く目を瞑り、詫びるように谷底を見ると、馬を走らせた。
ガガァガァァ!
稲妻が一町ほど先の樹木を貫き、閃光と地響きが甲四郎を襲った。
それに激しく反応したのは、甲四郎の乗る馬であった。
元々馬は臆病な動物である上、そう簡単に初見の相手になつくものではない、それを無理に制してここまで乗ってきたのだが、馬の方が耐えかねて、甲四郎を振り落として走り去ってしまった。
馬上にいた甲四郎もたまった物ではない、馬の背から振り落とされ、そのまま滝のようになっていた斜面に投げ出され、一気に谷底へ落ちていった。
激しい雨は雷雨に変わり、叩き付ける雨粒は石礫のように地に降り注ぎ、一帯は雨音と雷鳴に支配されていった。
旗印
黒岩という土地の大半は険しい斜面で締められている。
その勾配の険しい土地には岩石が露出した部分も多く、農作物の栽培に適した土地ではなかった。
三郎兵衛の祖先がこの黒岩の地を与えられた時には、野山をゆく獣を捕獲するか、山に自生する木の実を口にして凌ぐしかなかったが、根気強い開拓により、蕎麦の栽培を初め、やがて畑にてきした土地を造りあげると、大根やカブなどの根菜類、茄子や胡瓜などの果野菜やフキなどを栽培し、三郎兵衛の代になると、日本に渡って来たばかりのジャガイモの種芋を手に入れ、それなりの収穫を見込めるようになっていた。
黒岩という険しい土地は正に、黒田一族が何代にも渡り育て上げたといえよう。
その田畑越しに麓を見下ろすと、青々とした平地に水田が犇めき、その向こう側に僅か、樋野城の姿を確認することが出来る。
三郎兵衛はその光景を目に焼き付けるように、暫く見ていると、目を細めた。
「三郎兵衛様・・・」
何度目かのその問いかけに、三郎兵衛はやっと反応した。
横には十吉が立っていた。
「おぉ・・・十吉、いかがした」
「ついに、お城からお呼びがかかり申しました」
「左様か・・・では、ここに若い衆を集めてくれんか」
「今ですか?」
十吉は三郎兵衛のただならぬ様子をみて、いつもはしないような問い直しをしてしまった。
「そうだ、すぐにでも発たなければならん、土地の若い者をここへ・・・」
十吉はそれに対し咳払いのような返事を返すと、走り出した。
黒岩の若者達は、峠道に面した広場に集められた。
そこで集落の若者を前に、三郎兵衛は遺言ともとれる演説をうつこととなる。
「儂は樋野城へ発つ!」
若者の中に僅かな響めきが起こる。
それは、三郎兵衛が樋野城へ上る先に待ち受ける運命を察している者が大半を占めていたからである。
「儂は本来、この黒岩を継ぐ者ではなかった。それは、兄が継ぐべき土地をもらい受けたというだけではなく、儂は民や配下を従える技量に欠けた人間である」
三郎兵衛は若者たちを見渡した。
「この前に突き進むことしか知らぬ猪武者を、侍大将に仕立ててくれたのは、ここにおる者どもだ・・・そして儂は、今から土地を守る者として許されざることを語る!」
そこまで云うと、三郎兵衛は奥歯を噛みしめ、拳をきつく握ると、瞳を見開いた。
「儂の家は代々本田家に仕えてきたが、伝え聞く噺にも、本田清親に勝る愚者な下郎な当主はおらん!清親はあらゆる手を使い、儂を汚し貶め、命を狙うであろう!」
再び若者たちに響めきが起こる。
「静まれ!静まれぇい!」
三郎兵衛の横に控えていた十吉が何度か吠えると、細波のように若者達の動揺が収まりはじめた。
「儂の身に大事がおこり、黒岩を他の者が治める事態になったらば、この地を放棄し、平野に走れ!その際、田畑や住まいは全て焼き払うのじゃ!」
「なにをおっしゃるじゃ!そげな簡単に先祖伝来の土地を捨てぃと申すじゃか!」
流石にこれには声を上げる若者が多かった。
中には「三郎兵衛様!気が触れたか」と三郎兵衛に掴みかからん勢いの者もいた。
そこで三郎兵衛は、先ほどにも勝る、雷のような、まるで咆哮するような声を発した。
「儂には我が命より大事な者がある!」
三郎兵衛はこれと全く同じ文言をもう一度、少し落ち着いた口調で吠えた。
と、若者たちは戦慄くように口を閉ざした。
「それは!この黒岩の民じゃ!その民であるそち等が、我が生命と同等に祖先から受け継いだ田畑を想っておることは身に染みておるが!・・・新たな領主に土地を奪われ!黒田の配下だと蔑まれ!生きて行かなければならんなど・・・儂は耐えられぬ!」
三郎兵衛は荒れた地面に膝を突き、土下座をするような姿勢になると「儂は耐えられぬのじゃ」と、もう一度いった。
戦国初期に限らず、その後の時代に至っても、農民達は土地を治める者がいかなる悪政を布こうとも、その土地を離れようとはしなかった。
それには幾つかの要因があっただろうが、人々を同じ土地に止めさせたのは、土地に対する執着がそうさせていたのかもしれない。
先祖が開墾し、代々受け継いだ土地は、只単に「地面」ではなく、子孫に受け継ぐべき「生命」であったのだ。
その「生命」である土地を捨てろと、三郎兵衛はいう、しかも、精魂込めて育てた作物や、家族を育んだ家を焼き払って逃げろと、この領主は涙ながらに、更に獣のように吠えながら訴えるのである。
なんなんだこの領主は!
若者の中には唖然とするしか無かった者もいただろう。
この御方こそ真の領主様だ!
そう心に誓い、土地を捨てる決心をここで決めた者もいたかもしれない。
だがこの時点で、三郎兵衛の云うような事態が起こるわけが無い、と高をくくっている者の方が多かったのかもしれない。
「三郎兵衛様、お立ち下さいませ」
十吉は三郎兵衛の腕を取り、必死に立ち上がらせようとするのだが、三郎兵衛はそれを振り払った。
「儂には云わねばならぬ事があるのだ」
十吉にだけ聞こえるようにいうと、三郎兵衛は又声をを張り上げた。
「儂は!樋野城へ死にに行く!もうそち等には会えぬ!儂の最後の願い!どうか!胸にだけは納めておいてくれ!」
三郎兵衛は、スッと立ち上がり、晴れやかな顔で、若者たちに頭を下げると、その場を立ち去った。
「三郎兵衛様!」
峠道を下りかけた時、甲四郎と市蔵がそれを追ってきた。
「この栗原幸四郎が、きっと皆を説得してみせます」
甲四郎の澄んだ目を見て、三郎兵衛は小さく頷いた。
「甲四郎と市蔵は、皆と共に行くな」
「は?私が先導して平野へ行くのでは?」
「そち等二人は、山内に走り、八山と申す僧を探すのじゃ」
「ヤザン!」
「八山坊主を知っておるのか?」
「イヤ・・・以前足軽からその名を聞いたことがあります故」
「左様か・・・では、頼んだぞ」
そういうと、三郎兵衛は十吉と共の者一人の三人で峠を下った。
「儂も真の外道になったのかもしれぬな」
三郎兵衛は峠を下りながら突然口にした。
「何をおっしゃいます、三郎兵衛様」
「八山坊主の名を久々に口にしてつくづくそうおもった。儂こそが外道じゃと・・・」
「三郎兵衛様が外道ならば、世の全てが外道で御座いましょう」
「何をいう、十吉、儂は、民の命が大事などといったくせに、その民を大戦(おおいくさ)に追いやろうとしておるのじゃ・・・これを外道と呼ばずして何を外道と呼ぶ」
それだけいうと、三郎兵衛は黙々と歩を進めた。
三刻ほどで一行は樋野城下へと着いた。
城下といっても樋野ほどの田舎であると、城の周りに城下町があるわけでは無く、水田の真ん中に平城を置いたような印象で、城は田畑の水路をそのまま堀に利用しており、あぜ道を行くと、農耕地では無い平地に辿り着き広場になっている。
その広場で週に一度ほど市が開かれ、僻地の領地は僅かに賑わう。
広場を抜けると、城付きの家臣の家が数件あり、その先に人の背丈にして二人分ほどの堀があり、堀を渡ると樋野城の正門となる。
「十吉、ここまでご苦労であった。二人は黒田家の屋敷で休んでおれ」
「なにを仰います三郎兵衛様、拙者も付いてゆきまする」
「いや、それには及ばん、これからは儂一人で」
「なりませぬ!」
十吉は三郎兵衛のことばを割るように叫んだ。
「この栗原十吉、死ぬも生きるも三郎兵衛様と共にと誓ったのです、ここで引いてはご先祖に顔向けが出来ませなんだ」
「手前勝手な誓いをされても困るわい、清親とは儂のみで話しをつける」
それに対し十吉が怒りにもにた眼で三郎兵衛を睨み返した。
「手前勝手はどちらです!あなたが手前勝手なことをせぬように、この栗原十吉がおるのです!十吉はここで斬り倒され骸になっても三郎兵衛様と共に登城いたしますぞ!」
「まったくなんという頑固な爺じゃ」
いいながらも三郎兵衛の口元は緩んでいた。
さもすると、三郎兵衛は十吉のこの答えを何処かで望んでいたのかもしれない。
三郎兵衛は共にここまで来た共の者に、なにかあったら黒岩に伝えるのだ、と伝え、十吉と共に堀を渡った。
三郎兵衛と十吉は、板敷きの大広間に通され、そこで暫く待たされた。
スルスルと戸が開き、ゆっくりとした足取りで本田清親と、その家臣二人が現れた。
三郎兵衛は平伏する前に清親を一瞥した。 その顔は、人の噂に聞くような「蛇のような男」といった印象ではなく、多少ひ弱さの残る何処にでもいる青年のように感じた。
だが、三郎兵衛はその一瞬で、青年の冷えた眼差しの奥に異常性が隠されている事も読み取っていた。
「この度は、平野における戦勝の報告が遅れまして誠に申し訳なく・・・」
「よいよい!ワシは回りくどい話しは好かぬのじゃ」
清親の声はか細いが、良く通る不思議な周波の声であった。
「此度、平野よりそちを呼び、登城を許すまで日が開いたのは、そちの処分をどうしたものかと、考え倦ねたけっかじゃ」
「処分・・・ですと・・・」
十吉が平伏しながらも怒りに震え呟く。
「左様!黒田よ、まさか平野を攻め落とした褒美があるとでもおもうておったのではあるまいなぁ」
「して、その処分に至った道理をお聞かせ願いたのだが」
三郎兵衛は云いながらゆっくり姿勢を起こすと、清親を睨んだ。
戦国期には主従関係は厳格ではないので、三郎兵衛の態度を咎める者もいなかったが、この時の眼差しには反抗心が露わであり、清親の横に控える家臣もつい身構えるほどであった。
「井藤十兵衛が平野との境に設けた砦を落とす際、そのような砦わしらがぶんどって、黒田砦にしてやる、と叫びながら砦をせめたとか?」
「それは、砦を落とすため鼓舞するために申したまで」
三郎兵衛は兵の中で勝手に云ったこととはいわなかった。
「では・・・砦を落とした後、砦を三郎兵衛砦と呼んだことはどう釈明する?」
「それも、その時に、井藤の物ではなくなっておった砦を便宜上そう呼んだだけです」
そこでも三郎兵衛は、部下達が勝手に僧呼び、自分はその呼び名はやめろと言ったなどと言い訳しなかった。
「平野城を落とした後も、畠中信義と、まるで自らが城主であるかのように、平野の治政を勝手に変えたとか」
「それは、井藤十兵衛が布いた悪政だけを排除しただけで、悪政により餓えていた一部の者に、年貢の免除をしただけであります」
「左様か・・・」
清親の陰湿な眼光が鈍く輝く。
「忠康が甘やかすものだから、このような家臣が出来上がるのだろうのぉ」
三郎兵衛はその冷ややかな言葉を、唇を噛みしめ耐えきると、清親を憤激の眼差しで睨んだ。
「私は、ここへ申し開きに来たのではありませぬ・・・我が主、忠康様について誠のことを伺いにまいったのです・・・忠康様は如何様にして亡くなられたのでありましょうか」
清親は何一つ表情を変えることのない口調で、その時に城にいなかったので詳しくは解らないが、疲労を訴え寝込むとそのまま眠るように息を引き取ったそうだ、と、淡々と説明した。
「よう様はいかがなされております、一度お目にかかり、お悔やみを申し上げたいのですが」
「あの女か」
あの女だと!
前城主の奥方を、あの女呼ばわりするなどとは、許せん!
三郎兵衛の脳内は沸点に達しており、怒りで発声することも出来ずにいた。
「あの女は、ワシの側室になることを拒んだので・・・犯して・・・殺してやったわい」
三郎兵衛は憤怒のあまり前進に震えが走り、獣のごとく唸ることしか出来ずにいた。
怒りとは、頂点を遙かに越えると、思考の全てを奪う者なのだ。
「あの女とは前々よりまぐあいたいとおもうておったのじゃ・・・あの切れ長の目、鋭い頬骨、それでいておおらかな女であった」
「このぉ!腐れ外道がぁ!」
叫んだのは平伏していた十吉であった。
十吉は大らかで優しい城主の妻を、まるで菩薩を信仰するかのように慕っていた。
その菩薩を、目の前の腐れきった蛇が汚したのだ。
ここでこの蛇と刺し違えてもいい、十吉だけでなく、同時に三郎兵衛も思った。
だが、広間に入る前に刀は預けている。
十吉は、この蛇の首をへし折ってやると決め、立ち上がったが、廊下で控えていた護衛が飛んで入り、十吉を木の棒で打ち払ってしまった。
十吉は床に突っ伏し、三郎兵衛は他の護衛に棒を突き立てられ、片膝立ちのまま、怒りに震えている。
清親は、そんな状態の三郎兵衛に近づいて行き、更に挑発を続けた。
「あの女はこの部屋で殺した・・・床に押し倒し、下帯を剥がすと、あの女は覚悟したように又を広げたまま動かなんだ・・・三郎兵衛、そちも男ならわかろう、欲していた女が突如拒むことを止めたとき、ふっと萎えてしまう・・・だが!ワシの一部分は「この女を抱け」といって聞かぬ・・・」
聞くに堪えない言葉に、三郎兵衛は眼をグッと瞑った。
しかし、清親はケダモノのような話しを止めようとはしなかった。
「ワシは、それに従いあの女を貪った、だがあの女は天上を見詰めたきり、吐息すら漏らさぬ!なんという女だ!ワシはやがてあの女の体内で果てた!そして!持っていた短刀であの女の胸を突き刺した!ワシの一部はまだあの女と繋がったままじゃ・・・息絶えた女の体内が冷たくなって行くのがよぉわかった・・・あれは絵にも言われぬ悦楽であったのぉ」
「おのれぇ!」
「ワシが何故あの女を刺したのか、そちにわかるか?・・・」
「知りたくもないわ!」
「いいや!そちにも関係のある話しじゃ」
清親は一拍おくと、低い声を出した。
「世継ぎじゃよ・・・忠康はワシが何度進言しても、側室をもうけようとはせなんだ、たった一人の女に拘り、疎ましいワシに家を継がせることになってしもうた」
「世継ぎを産まなかったからよう様を殺めたと申すのか!」
「疑念じゃよ・・・三郎兵衛」
「ワシはなぁ、ようを抱くうちに疑念が産まれる予兆がしたのだ」
それは要するに、今後無理矢理にようを側室にしたとしても「これは忠康の子種なのではないか」と、疑念を抱き続けるのでなないか、その想いが自らの思考に芽生えた時、ようをこの場で殺めてしまおうと、清親は決心したのだ。
「そちもそうじゃ・・・「あや」と申したかな・・・そちの亡くした妻の名は」
清親の口からその名が発せられた途端、三郎兵衛の表情が明らかに変化した。
怒りと、悲しみと、無力感、三郎兵衛はその三者に支配された、表情を浮かべた。
「子をもうけるたび、そちの子は早死にしたのだそうだなぁ・・・そして何度目かの子を死産した後、そちの妻は崖から身を投げ命を絶った・・・であろう?」
「忠康にしてもそちにしても、何故世継ぎより妻などに重きをおくのじゃ、ワシにはわからぬわ」
そこで三郎兵衛は乱れる心の内から戻り、清親を憐れみと、蔑みの目で見た。
「わかろうはずがない!おのれのような外道に幾ら説いたところで、もはや人ではないおのれに解ろうはずがない!」
「なんと!」
無表情を決め込んでいた清親の眼差しに、怒りが浮かび始めた。
「三郎兵衛ワシが憎いか?斬り捨てないか?だがのぉ三郎兵衛、この情況を見てみよ、そちにもう勝ち目はない、それどころか、ワシに指一本触れることすら叶わぬのじゃ!」
すると、三郎兵衛は突然笑いはじめた。
「なんと、気が触れたか」
清親が罵るように三郎兵衛をみると、更に笑い声の調子が上がった。
「おのれはまだ自らが殺される価値のある男だと思っておるようだが、おのれのような人の形をしたウジなど、斬った刃が汚れるわ」「なんだと!」
「おのれは本田家の名を語る価値もないヘドじゃ!ヘドはヘドとして道端で枯れて腐って行くがよい!」
そこまで言われた時、清親の表情が初めて怒りに打ち震え崩れた。
「者共!この二人を牢に入れておけ!今言ったことばすぐに後悔させてやるからな!」
× × × × ×
広間での一件があってから数日後。
市蔵は樋野城下にいた。
城前の広場に人だかりがあり、それに吸い込まれるように歩を進めると、そこに大きな板が掲げられており、なにやら殴り書きの文字が書いてある。
市蔵は文字が読めない、だが、高札の下には城の役人らしき者がその内容を群衆達に口頭で伝えていた。
市蔵は役人の言葉に耳を傾け、その内容を理解すると、全身の血の気が引いていった。「なんとぉ・・・」
搾り出すようにいうと、市蔵は跪いてしまった。
「甲四郎様・・・」
その名を二度ほど口にすると、市蔵は自らを奮い立たせ、立ち上がり、走った。
樋野の城下を転がるように走り抜けると、すぐに田畑のあぜ道になり道幅は狭い、はやる気持ちで前のめりに走っていた市蔵は、何度か道を踏み外し、水路や田んぼに落ちそれでも構わず前進を続け、黒岩に続く峠道の麓でやっと立ち止まり、湧き水で顔を洗い、喉を潤すと、険しい峠道を一気に駆け上がっていった。
黒岩領内に入った時には、市蔵は土埃の固まりと化していた。
着衣はズタズタに破れ、髪はザンバラになり、草鞋など既に無く、足の裏は血だらけであった。
だが、今の市蔵にその痛みを感じていられる余裕はなかった。
ガガァンと戸を蹴破る音がすると、土埃の塊、市蔵が甲四郎の部屋に転がり入るなり。
「三郎兵衛様が!・・・・三郎兵衛様が」
急勾配を一気に駆け上って来た市蔵の呼吸は乱れに乱れ、まともに会話が出来る状態ではなかった。
「市蔵!落ち着け!息を整えよ!」
ハァハァハァ・・・はぁ・ふぅぅ・・・
息を整えると、市蔵は何度か咳払いをし。「甲四郎様・・・三郎兵衛様が・・・打ち首になっちまう!三郎兵衛様が!」
甲四郎は鼓動が止まりそうになる我が身を奮い立たせ、市蔵に擦り寄った。
「それは・・・いつじゃ!いつ三郎兵衛様がそうなる!」
「わからん・・・それだけ聞くとオイは走ったで・・・」
「行くぞ市蔵!着替えよ!」
甲四郎は家の者を呼び、市蔵の着物を用意させると、脇差しと刀も用意させ、市蔵にも侍の様相をさせると家を出た。
「何故オイもこのような格好を?」
「お前も三郎兵衛様の立派な家臣じゃ!何かあった時には、ワシと市蔵二人で斬り込む、よいな!」
「よいもなにも、オイははなっからそのつもりだで」
「だが、どうにもならない場合には、山名に逃げ込む、それが三郎兵衛様のご意志だ」
そのような会話をしていると、一人の中年男が二人を見つけ駆け寄ってきた。
男は甲四郎の一番上の兄、栗原基継(もとつぐ)であった。
基継は、三郎兵衛等が平野に攻めていた時も黒岩に残り、残された黒岩の住民をまとめていた人物であり、実直な正確が全身からわき出るような男で、その正確故、三郎兵衛が事あらば黒岩の地を捨て、平野へ奔れと言ったとき、その意見に真っ向から反論し、土地を守り抜くことを主張した。
だが現在では、甲四郎等の必死な説得により、その意見を覆し、黒岩の若者から長老までの意見をまとめ上げ、平野へ向かう際の先導役となっている。
基継は甲四郎の様子を見て、大体の情況を察し、甲四郎の近くまでくると、小さく頷いた。
「後は任せよ・・・だがな甲四郎、一時の気の迷いで行動を起こすでないぞ、引くときは引くのだぞ」
「わかっております兄上」
「藤吉も田之口の国衆を引き入れる為に奔走しておる。それを無駄にするでないぞ」
藤吉とは、栗原藤吉、つまり甲四郎のすぐ上の兄であり、田之口と呼ばれる平野に面した小領地の国衆を味方に引き入れる為に動いているのだ。
甲四郎は頷くと、それ以上の会話は無く、甲四郎と市蔵は基継に背を向け、足早に黒岩の峠道を下っていった。
数日間城内の牢に入れられていた三郎兵衛と十吉は、ある朝突然城内の一室に移動させられ、そこであてがわれた白装束に着替えるよう命じられた。
三郎兵衛も十吉もお互い何も言葉を発すること無く、黙々と着替えた。
着替え終えると、四人の役人が部屋に入ってきて「着いてこい」とだけいい、そのうちの二人が先導し、あとの二人は三郎兵衛達の後ろについて歩いた。
建物を出ると役人は、一人一人の前後に着くような格好になり、そのまま場外へと出た。
広場には畳二畳分の長方形の板が数枚重ねられ、舞台のようになっていて、その前には群衆が息を???んで見守っている。
三郎兵衛と十吉は、板の上に正座させられると、その左右にここまで連れてきた役人が立った。
暫くすると、清親とその重臣らしき男が現れ、板の敷かれた場所から少し離れた所にある床几に腰をかけた。
清親と重臣は数度言葉を交わすと、重臣がおもむろに立ち上がり、板の前までやってくると、群衆に演説をうちはじめた。
その内容は、城主の命により、平野を落とした三郎兵衛は、あろうことか命令に背き、落とした平野を我が物にしようとした反逆者である。
と、まぁ広間で清親がいったことに沿った内容をいうと、申し合わせたような頃合いで清親がそれに割って入ってきた。
「この罪人はまもなく落命する!それにあたり、黒岩領は治める者がいない空白地帯になってしまう、まず・・・黒田三郎兵衛の命があるうちに、自らの領地を治める後釜の面を見ておきたいのではと思うてな・・・」
そこまで冷たい口調でいうと、清親は大きな声で「こちらへ参れ!」と叫んだ。
「やはりな・・・」
清親に呼ばれ、広場に入ってきた鶏面の男を見上げると、三郎兵衛は乾いた口を開いた。
そこに居たのは、井藤十兵衛である。
三郎兵衛は平野が反乱をした時から、井藤十兵衛をそそのかした人物がいるのでは無いかと踏んでいた。
ここで十兵衛が現れたことによって、平野の反乱を指揮していた黒幕が清親であると、自白したようなものである。
だが清親は、皆の疑念を払拭するように、忠康が十兵衛を追い込み、三郎兵衛が十兵衛の降伏を受け入れず、城を攻め落としたという作られた物語を群衆に語り始めた。
三郎兵衛は、虚言に満ちた物語など意味がないことをしっていた。
三郎兵衛は、冷め切った目で新領主を見詰める群衆を見渡した。
甲四郎と市蔵が樋野城前の広場に着いた時には、三郎兵衛と十吉はすでに板のうえに正座させられており、役人が三郎兵衛の罪状を述べている所であった。
二人は群衆をかき分け、前へ進み、最前列まで辿り着いた時には、井藤十兵衛が呼ばれ開いていた床几に着席した後であった。
「アイツが井藤十兵衛か・・・三郎兵衛様の仰った通り、酷いヤツが黒岩に入るな」
そこまでいうと、甲四郎は板の上に座る十吉と目が合った。
「親父様・・・」
「さて、栗原十吉、最後に申したいことはあるか!」
先ほどまで罪状を述べていた重臣が声を張り上げた。
「御座らん!」
「本当によいのか、辞世の句なり、申し伝えたいことがあれば、伝えてもよいのだぞ」
「御座らん!」
十吉はもう一度強くいうと、目の前を強く見て開いた。
「拙者には三人の息子がおるが皆、拙者より切れ者であるが故、拙者の申したいことなどより既に先を見ておる。なので申す事は御座らん」
「左様か」
重臣が冷たく言うと、一瞬の閃光と共に、十吉の首は板の上から地面に転げ落ちた。
「親父様!」
甲四郎は震えるように叫んだ。
「黒田三郎兵衛則久」
名を呼ぶと、重臣はありもしない三郎兵衛の罪状を長々と並び連ね、群衆の心を清親側に引き込もうとしたが、群衆の心は離れる一方であった。
「では、最後に申したいことはあるか?」
三郎兵衛は群衆を見渡し、その中に甲四郎と市蔵が居ることを確認すると、通る声で語り始めた。
「皆の使えるべき家はすでに滅びた!」
三郎兵衛が、険しい表情でいうと、突如雲行きが暗くなり、弱い雨が降り始めた。
「共に土地を守るべき領主は、途絶え、樋野の地は汚れた盗人の手に落ちたのだ!」
すると、雨脚は次第に強くなり、激しく地面を叩くようになった。
「もうよい!刎ねよ」
役人の一人が刀を抜き、一度首を刎ねる位置に刃を置くと、清親がそれを止めに入った。
「待て!この者は首を刎ねるだけでは飽き足らぬ!右腕を刎ねよ!」
「右腕・・・で御座いますか?」
重臣は怪訝な表情で清親を見た。
「黒田の忌まわしい旗印、そして、黒田家は本田家の右腕と呼ばれた!その右腕を断ち切れと申しておるのじゃ!」
重臣はそれに答え、頷くと、刀を抜いた役人へ目配せをした。
激しい雨の中、刃が振り落とされ、三郎兵衛の右腕は板の上に落ち、夥しい血が三郎兵衛の右腕から吹き出し、激しさを増す雨に流され、一瞬にして板の舞台が赤く染まった。 それでも三郎兵衛は、意識を奮い立たせ、膝立ちで群衆を見て笑ってさえいた。
「黒田を滅ぼそうとも!新たな腕が己の息の根を止めに現れん!」
三郎兵衛の声は全ての群衆の胸を貫くように響き渡った。
「こんな領主に仕えていたら、我が身も滅ぼすことになるぞ!清親を倒せ!」
土砂降りの雨の中、甲四郎は咆哮した。
「殺せ!」
清親は自制心を失ったように叫ぶと、二度目の刃が振り下ろされ、三郎兵衛の首が飛んだ。
「三郎兵衛様ぁぁ!」
甲四郎と市蔵は声の限り叫んだ。
「あの者等を捕らえよ!」
清親が叫ぶと、樋野城の役人達が甲四郎と市蔵を捕らえようと、走り寄ってきた。
「市蔵!来い!」
甲四郎は群衆をかき分け、前へ前へと身を倒すように進んでいった。
群衆を抜けると、甲四郎は城の方へ走りはじめる。
「甲四郎・・様・・そっちは城だで!」
「わかっておる!市蔵、馬には乗れるか」
市蔵は頭を振った。
下級武士の子が乗馬など出来ようはずがない。
「乗ってから覚えよ」
「そんな無茶な」
そんなやり取りをしているうちに、城の馬小屋に辿り着いた。
三郎兵衛と十吉の処刑のせいか、この雨のせいかはわからないが、幸い馬の番をする者はいない、甲四郎は二頭の馬の縄を解くと、そのうちの一頭に跨がった。
「そっちの馬に乗れ!」
「そんな簡単にいいますが」
「乗らねば殺されるぞ!」
市蔵は見よう見まねで馬に乗り込むと、甲四郎は棒っきれで市蔵の乗る馬の尻を力任せに叩いた。
それから市蔵は必死に馬につかまり、ただ身を任せるしかなかった。
後方からは、樋野城の者達の叫び声が聞こえ、皆がこちらを追って来るのが見ていなくても察知できた。
「山名に行くんじゃないのですか?」
暫く馬に乗る内に、ある程度馬に慣れた市蔵が叫んだ。
「平地を行けば追っ手が優位になる」
「ですが・・・このまま行けば忍山(おしざん)です!土蜘蛛に見つかったら厄介なことになりますぞい」
忍山とは、樋野領と山名領のちょうど栄えにある小高い山のことで、その山には十二年前の対土蜘蛛戦で追われた土蜘蛛(ツチグモ)と呼ばれ忌み嫌われている種族が澄んでいる山でなのである。
その土蜘蛛に捕まれば、人の肉を喰らうと言われる者共になにをされるかわからない。 しかし、樋野城の追っ手も忍山に踏み入ることを躊躇するに違いない、甲四郎はそう考え、忍山の整備されていない獣道に馬で突き進んでいった。
だが、激しい雨で道が泥濘んでいる上に、道幅は狭く、一歩踏み外せば谷底に落ちる危うい道を行くことになった。
「こんな道、馬じゃ到底無理じゃ」
市蔵は情況に耐えかね、下馬しようとする。 と、市蔵の足が馬の腹に触れたのか、馬が突然暴れだし、市蔵はそのまま谷底へ落下していった。
あっという間の出来事であった。
「市蔵!市蔵!」
甲四郎が何度呼んでも、斜面の向こうから返事はない。
「すまぬ、市蔵」
甲四郎は深く目を瞑り、詫びるように谷底を見ると、馬を走らせた。
ガガァガァァ!
稲妻が一町ほど先の樹木を貫き、閃光と地響きが甲四郎を襲った。
それに激しく反応したのは、甲四郎の乗る馬であった。
元々馬は臆病な動物である上、そう簡単に初見の相手になつくものではない、それを無理に制してここまで乗ってきたのだが、馬の方が耐えかねて、甲四郎を振り落として走り去ってしまった。
馬上にいた甲四郎もたまった物ではない、馬の背から振り落とされ、そのまま滝のようになっていた斜面に投げ出され、一気に谷底へ落ちていった。
激しい雨は雷雨に変わり、叩き付ける雨粒は石礫のように地に降り注ぎ、一帯は雨音と雷鳴に支配されていった。
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兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。
備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。
その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。
宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。
だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く!
備考
宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助)
父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。
本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。
トノサマニンジャ
原口源太郎
歴史・時代
外様大名でありながら名門といわれる美濃赤吹二万石の三代目藩主、永野兼成は一部の家来からうつけの殿様とか寝ぼけ殿と呼ばれていた。江戸家老はじめ江戸屋敷の家臣たちは、江戸城で殿様が何か粗相をしでかしはしないかと気をもむ毎日であった。しかしその殿様にはごく少数の者しか知らない別の顔があった。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
科学的考察の及ばぬ秘密ノ誘惑
月見里清流
歴史・時代
雨宿りで出会った女には秘密があった――。
まだ戦争が対岸の火事と思っている昭和前期の日本。
本屋で出会った美女に一目惚れした主人公は、仕事帰りに足繁く通う中、彼女の持つ秘密に触れてしまう。
――未亡人、聞きたくもない噂、彼女の過去、消えた男、身体に浮かび上がる荒唐無稽な情報。
過去に苦しめられる彼女を救おうと、主人公は謎に挑もうとするが、その先には軍部の影がちらつく――。
※この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
鵺の哭く城
崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。
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