怨刃=ENNJINN=

詠野ごりら

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二章

幕末 1

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     文久二年・初夏


 鴨野伊助(かものいすけ)は丹波亀山藩の神職の家に生まれた。
 遙か祖先の遠縁には、鴨長明も名を連ねる家柄ではあったが、伊助の家は、小さな神社を守る貧しい家であった。

 幼少期より、困窮する家を見てきた伊助は、神職を継きなど一切起こらず、五歳になると近所の道場に通い始め、メキメキと頭角を現すようになっていた。
  
 田舎道場ではあったが、十五になった伊助は、道場の師範でさえ七分ほどの力でねじ伏せられるようになり、道場では手に負えない存在にまでなってゆく。
 そうなってくると、伊助は自然と「剣で身を立て、いずれは侍になりたい」と夢想するようになる。

 だが、産まれながらに口が重く喋ることに長けていない伊助が、親を説得出来るはずもなく、悶々とした日々を送っていたが、十七のある日、自らの意思を押さえ込めなくなった伊助は早朝、鴨野家に代々伝わる日本刀を腰に差し、僅かな銭を懐に入れると丹波亀山を出て行った。

 伊助がまず向かったのは京都の中心部であった。
 そこで藩の役人なり、志士と呼ばれる侍に剣の腕を買って貰い、始めは用心棒でも食客でもよいので雇ってもらおうと考えた。
 しかしそううまく事が進むはずもなく、月日が過ぎ、十八になっていた伊助は、三条大橋周辺に住み着く辻斬りにまで身を落としていた。
 

 日が落ち、辺りが闇に移り変わる頃、伊助は三条大橋の欄干に背をもたれ、橋を渡る懐の豊かそうな者を物色していた。
 生きる為とはいえ、伊助は既に自らの目標を見失い、ただ獣のように、隙があり、剣の腕も立たず、銭のありそうな者。
 それだけに狙いを定め、斬りつけ、銭を奪う、ケダモノに成り下がっていた。
 
「ヤツなら」
 伊助という男は、普段から言葉を短い単語のみで済ます癖がついており、辻斬りの獲物を発見した際の心の声でさえ、短い一言だけである。
 伊助に照準を定められた男は、三十半ばの痩せ型で背丈も四尺九寸ほどで大柄では無いし、身なりもよい。
 しかも、泥酔しているらしく足取りがおぼつかないようである。

「ケッ」
 伊助は、刀を抜く前に必ず妙な声を発する。「何やつ!」
 先ほどまで千鳥足だった男は、フラついていた脚を大股で踏ん張り、素早く鍔を弾くと一瞬で剣を抜き下段で構え、伊助を見据えた。
 どうも伊助の目論見とは違い、男はかなりの手練れのようである。
「クッ・・・面白い」
 伊助は大きく上段に構えると、賺さず剣を振り下ろす、が、男は酔っていながらも、それを下段から受け流した。
「ケケッ!」
 伊助は受け流された剣を素早く引き戻し、上段に構え直す。
「気味の悪い奴!何処の手の者じゃ!」
 男が大声をあげ、下段からゆっくりと剣を上げて行く。

「永井さん!いかがなされました!」
 男と共に飲んでいた藩の者なのか、男の声に数人の者が駆け寄ってきた。
「この者辻斬りにしては腕が立つ!攘夷派の者かもしれぬぞ!」
 永井と呼ばれた男は、仲間に注意を促すと、間合いを取り、仲間達に伊助を取り囲む猶予を与えた。
「チッ・・・仲間がいたか」
 伊助は何を思ったか、切っ先を前方に向ける妙な構えをすると、咄嗟に剣を男の喉元目がけ突き立てた。

「がぁぁぁ!」

 一瞬の事だった。
 伊助の剣は、永井という者の喉を突き刺し、肩甲骨の辺りまで貫通していた。
 男は黒い血を口から吐き出すと、ドサリとその場に倒れ込んだ。
 伊助は男に串刺しになったままの剣を諦め、仲間が怯んでいるうちにその場から消え去った。

 伊助は走りに走り、途中で川に鞘を捨て、また走った。
 感情を巡らせている間もない。

 野良犬のように、人通りの無い路地から路地へと逃げ、ハタと気づいた。

「俺は何をやっておる・・・」

 辻斬りをして、その共の者から追われた経験もあるが、ここまで必死に逃走を図った事は無かった。

 気がつけば、伊助は伏見まで来ていた。
「俺は何処まで逃げる気なんだ・・・」

 フッと脚を止めると小高い丘の袂に小さな鳥居がある。
 伊助は自然と吸い込まれるように鳥居を潜っていた。
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