夢屋奇譚見聞録

十ノ葉

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4.赤い手紙③

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 オフ当日。俺は指定された時間に時嗣の家の前まで車でやって来ていた。空は爽やかに晴れ渡り、気温も快適。呪いなんて物騒な案件絡みじゃなきゃ実に絶好の行楽日和だった。

 「お早うございます」

 車を停めて間もなく、時嗣が姿を見せる。普段見慣れた作業着やワイシャツ姿ではない。シンプルなカットソーにサマーカーディガンという出で立ちが新鮮だ。

 「今日はありがとうございます」
 「俺こそ。悪いな、休日返上させて」

 元はと言えば俺が時嗣を頼って巻き込んだのだから運転手くらいお安い御用である。この件が解決したら改めて飯でも奢らせて頂こう。そうしよう。
 ふと見ると時嗣の足元には柚の姿もあった。俺を見上げてふわふわの尻尾を左右に揺らしている。

 「柚も行くのか?」

 屈んで声を掛けると「わん!」と元気のいい返事が聞こえた。

 「すみません。留守を頼もうと思ったんですが、朝から離れなくて」

 彼は眉を下げて申し訳なさそうにするが、俺は全然構わない。後部座席のドアを開けて促すと軽やかな動きでシートに飛び乗り、行儀よくお座りした。ドアを閉めて自分も運転席に乗り込む。助手席に座った時嗣がお茶のペットボトルと一緒にメモを渡してきた。目を通す先には四つの神社の名前、番地が記入されている。

 「そこの神社を回ってほしいんです。近くに車を寄せるだけで大丈夫なので。もし体調が悪くなったら今渡したお茶を飲んで下さい」
 「分かった」

 恐らく先日貰った飴と同じ効果があるんだろう。有り難く受け取って車のホルダーへ入れる。
 俺はメモを見ながらカーナビに番地を入力しかけ、衝撃の事実に気づいた。

 「なぁ、これ・・・心霊スポットじゃねぇ?」

 神社、となってはいるが、俺の記憶が正しければ四つ全部心霊スポットである。しかも地元では有名な部類の。以前に興味本位でオカルトサイトを漁っていた時に目にした名前ばかりだった。

 「そうですね」
 「そうですか・・・」

 事もなげに頷く時嗣からそっと視線を外す。呪いときてお次は心霊スポット。何が出て来るか知らないが、心の準備だけはしておこう。カーナビを設定し終えた俺は安全運転で車を発進させた。








 「暗いボロい薄気味悪い。心霊スポット巡りとかする奴は剛の者過ぎる」

 明るい国道を走りながら冷たい指先でハンドルを操作する。一番近い神社を見終わって、これから二箇所目の神社へ向かうところだ。
 見ると言っても車のまま敷地に沿ってぐるりと走って眺めるだけだが、これがまぁ結構怖い。鬱蒼と茂って手入れもされない木立が日光を遮り、崩れて放置された鳥居に深い影を落としていた。奥に覗く拝殿も傷みが酷くて、物の怪が出るならこういう場所だろうなと思わせる佇まいだった。肝試しで人気だとオカルトサイトに書いてあったが、試すまでもなく肝の太い連中しか入れないと思う。

 「ちょっと前まで先輩も興味津々だったくせに」

 助手席で時嗣が呆れた声を出す。

 「そりゃそうなんだけど、お前のお蔭で目が覚めたわ。好奇心は猫をも殺す、ってね」
 「好奇心がなくても呪いの手紙なんて危険物を引き寄せてますけど」
 「ごめんて」

 電子音とともにカーナビから目的地が近づいたとアナウンスが流れた。神社らしきものが見えやしないか視線を巡らせるが、晴天に恵まれた清々しい風景が広がっているだけだ。まだ目視出来る距離ではないという事か。
 一箇所目の神社は比較的住宅街に近い場所にあった。スピードを落として敷地の周囲を走らせている間、時嗣と柚はじっと拝殿の方角を見つめ、一言も発しない。もうすぐスタート地点に戻るという辺りで「ここじゃないです」と彼は言った。一体何を探っているんだろう。

 「次のトコ着いたら、さっきみたいにすればいいのか?」

 道の先を眺めて問う。まだ神社は見えない。ぽつりぽつり立っている住宅と空き地に畑、雑木林が車窓の後方へ流れていった。

 「はい、お願いします」

 頷く後輩の後ろから突然柚が鼻を出す。ふんふんと音を立てて何かの匂いを嗅いでいるようだ。

 「柚、どした?」

 俺が声を掛けるのとカーナビが目的地到着を知らせるのは同時だった。

 「え、神社ないけど・・・」

 車を路肩に停めて前後左右を確認した俺は呟く。神社どころか痕跡すら見当たらない。空き地に古びた看板が立っていて、近隣の飲食店の案内がされているのみ。しかしカーナビの画面には間違いなく目的地到着の表示が出ていた。

 「まさか撤去された?」

 稀に心霊スポットの土地の所有者が、家屋を解体して更地にしてしまうケースもある。先程のように放棄された神社なら起こり得ると思っていたら、隣から声が上がった。

 「先輩。道戻ってもらっていいですか」

 戻るって、どこまで。視線で問う俺に時嗣はカーナビ画面を指差して見せる。俺は場所を確認し、適当なところでUターンすべくアクセルを踏んだ。途端にカーナビがノイズを放つ。不自然にゆっくりとしたザラザラの機会音声が、さっきの場所に戻そうとガイドしてくるのは途轍もなく怖い。

 「次が当たりかも知れませんね。俺達が来ないように邪魔されてるっぽいですし」
 「カーナビの誤差って事ないか!?ってかカーナビ切っていい!?」

 今が夜じゃなくて心底よかった。夜中に聞いたら正直気絶しそうだ。耳障りな音声にゴリゴリ正気を削られながらも、安全にUターンをこなして来た道を戻る俺の運転技術を誰か褒めてほしい。割と本気で。

 「あ、そこの駐車場。停めて下さい」

 震える手でカーナビをオフにした俺は、対向車に注意しながらハンドルを切る。空きの目立つコインパーキングの一角に駐車し、深い深い溜息を吐いた。どっと肩から力が抜けハンドルへ突っ伏す。

 「時嗣さ~ん・・・次の指示頂戴~・・・」
 「先輩大丈夫ですか?」
 「へ、平気・・・」

 うん、本音を言うとまったく大丈夫じゃないよ!?でもね、俺が自分で首突っ込んだから責任は全うするさ!何でも言ってくれ時嗣君!・・・ちょっとお茶飲んどこ。

 「俺、ここから歩いて行くので留守番頼みます」
 「はぁ!?」

 反射的に彼の右腕を掴むとドアを開けて降りようとしていた時嗣を引き戻す。

 「一人で歩いて行く!?危ないだろ!」

 昼近いとは言え普通の神社へ参拝に行くのとは訳が違う。いくら肝が据わった頼れる後輩だからって、そんな危険な場所に一人で行かせられるか。

 「柚もいますし」
 「いても却下」

 俺は時嗣を睨み据えて車のキーを引き抜いた。

 「俺も行く」








 「この道!?この道で合ってんの!?」
 「だから留守番してて下さいと・・・」

 スマホの地図アプリをチェックしつつ時嗣が溜息混じりに眼鏡を直す。だってお前、雑木林に挟まれた舗装もされてない道だよ?車一台分の幅はあるけど、見た目完全に農道じゃん!?先に進んでも神社より牧場出てきそう。

 「車で通った道は一本ズレてたんですね。ほら、もうすぐ見えてきますよ」

 後輩に向けられたスマホ画面を確認する。お、意外と近くまで来てるみたいだ。ところで。

 「あのさ、微妙に寒くない?緑に囲まれてるから気温低いのか?」

 俺はTシャツの半袖から剥き出しの腕を擦る。陽が差してるのにどことなく暗く感じるし、ちょっと嫌だな。

 「先輩それ悪寒ですね」
 「ふーん。・・・え?」

 隣を歩く時嗣を見ると彼もこちらを向いた。眼鏡の奥の双眸は至って真剣な色をしている。

 「前に自分は霊感ないって言ってましたけど、ありますから。現に柚が見えるでしょう?まぁ、柚があえて見せてる部分もあるみたいですが」

 時嗣は後ろをトタトタと追って来る柴犬を抱き上げて俺に押しつけた。反射的に受け取って抱っこすると、重さは殆どないのに、しっかりもふもふの感触がする。不思議だ。そして俺の寒気もキレイに治まった。神様凄い。

 「幽霊を『見る』だけが霊感じゃありません。音や香りで霊を感知するパターンもあります。要は本人の資質がどの方向を向いているかです」
 「そっ・・・そうは言うけどさ、俺、今まで一度も怪奇現象とか遭遇してないし・・・」
 「いつ、どのタイミングで霊感が作用するかは個人差が大きいんですよ?女性を例に挙げるなら、出産を機に見えなくなる人、逆に見えるようになる人がいますね。年齢と共に霊感が弱くなる人も強くなる人もいて、実に様々です」

 全然知らなかった。奥が深い世界なんだな。幽霊が見える=霊感ありだと思ってた。
 時嗣も霊感は強くないような事を言ってたが、実際はどうなんだろう。少なくとも俺よりは強そうだ。

 「なぁ、お前は見えるタイプ?それとも他のタイプ?」

 興味本位で尋ねる。隣を歩く時嗣がチラ、とこちらを窺って前を向いた。

 「俺は『夢で視る』タイプです」
 「夢で視る?・・・あぁ、予知夢とかそういう・・・」

 一瞬疑問に思ったものの、知識としては知っている範囲の事だ。成程と納得する。たまにテレビやネットで取り上げられたりしてたっけな、なんてぼんやり考えた。そして今回の手紙の件も夢で情報を得たのだと結論付けて、やっぱりコイツすげぇわと遠い世界の出来事みたいに思う。

 「そんな格好良い力があったんなら、教えてくれても良かったのに」
 「格好良い力なんて思ってませんし、出来得るなら隠しておきたいですよ」

 水くさいなぁ、と膨れる俺に時嗣は俯いて零した。時として他人が持ち得ない能力を持つという事は、周囲からの孤立を招く。理解の範疇を超えた者に対して人は寛容ではないのだ。もしかしたら彼にも苦しい過去があったのかも知れない。

 「時嗣、あのさ」

 言い差した俺の言葉を遮って、近くの大木からカラスが鳴き喚きながら数羽飛び立った。驚きで言葉の続きが喉の奥へ逆流してしまう。

 「・・・本当に、視ないで済むものは視ないに越した事ないんですけどね」

 吐き捨てるような言葉に彼の視線の先を追った。腕の中の柚が低く唸るのを聞きながら巡らせた目線の向こうに、古惚けた、しかし重厚感のある立派な社が現れる。ジャリ、と靴底で踏みしめた小石が悲鳴を上げた。








 農道みたいな寂れた道の脇に佇む鳥居と拝殿は、半ば木々に埋もれながらも荘厳で朽ち果てた様子は見られない。恐らく定期的に手入れがされているんだろう。一箇所目の神社の方が余程酷い傷み方をしていたせいもあって、俺は僅かに拍子抜けした。だが。

 「先輩はここで止まって。動かないで下さい」

 隣から緊張感の滲んだ声が上がる。

 「動くなって・・・でも」
 「いいから、そのまま。柚、先輩を頼んだ」

 柚がほんの少し暴れる素振りを見せたのを察知して腕に力を込めて抱き直した。時嗣について行きたそうなのは分かったけど、何となく手放すべきじゃないと感じたからだ。
 時嗣は慎重に神社へ近づいて行く。まるで警戒心剥き出しの野生動物のような動きだ。見守る俺にも緊張が伝わってきて、知らずゴクリと生唾を飲む。

 「・・・・・・」

 様子はどうだとか、何か異常はあるかだとか、声を掛けたいのに出来ない。木立の葉が揺れる音と柚の威嚇だけが聴覚を占める全てだった。
 不意に時嗣の歩みが止まる。大きく聳える鳥居越し、拝殿まで見渡せる位置に彼は立っていた。心なしか横顔が青白く見える気がして、さすがに呼び戻そうと口を開いた時だった。

 「!?」

 時嗣が何かに堪えるが如くたたらを踏む。決して彼自ら歩いた訳ではない足が、前方に数センチ引き摺られるのを俺は見た。
 一体どういう現象が起きているのか理解が追いつかず固まる俺の腕を柚が乱暴に引っ掻く。精一杯身を乗り出して激しく吠え立てる声にやっと正気を取り戻し、時嗣に駆け寄ろうとした俺を他でもない彼が睨んだ。

 「先輩ッ!」

 来るな、と目で制される。

 「いや、いやいやお前、だってこれ!」

 口から出てくるのは無意味な単語ばかりだった。目の前でまた僅かに後輩の身体が引き摺られる。全身から冷や汗が噴き出して心臓がフル稼働した。来るなって、お前は言うけど。じゃあどうやってこの状況を切り抜ければいい?人も車も滅多に通らない道で、俺がやらなきゃ誰が助けてくれるってんだ。
 暴れる柚を左腕だけで抱え、意識して深い呼吸を数回繰り返す。腰を落として脚へ意識を集中させた。

 「・・・先、輩・・・?」

 訝し気な、掠れ気味の時嗣の声が合図になる。砂利を弾き立っていた場所から飛び出すと、後はもう一直線に時嗣を目指して駆けた。

 「!!」

 ビックリした。社会人になって数年、碌に運動なんてしてないが、人間追い詰められると火事場の何とやらだ。自分でも驚くスピードで目標までの距離を詰める。右腕で時嗣の左手を掴み、勢いに任せて引っ張った。簡単に引き戻せると思ったからだ。

 「は!?重てぇ~!!」

 俺が引いてるのは銅像ですか?ってレベルで動かない。アレか、さっきから時嗣を引き摺って行こうとしてる奴がまだ頑張ってるのか。いい加減にしろコンチクショウ!

 「我慢しろよ時嗣!!」
 「え?ちょ・・・イタタタタ!!痛いですって!!」

 渾身の力を込めて無理矢理に腕を引く。時嗣から抗議が上がったけど、事態が事態だ。構わず更に引き寄せた時、柚が激しく牙を剥いて一際大きな声で拝殿に吠えた。怯んだように相手の抵抗が弱まった隙を突いて全速力で走り出す。縺れそうになる脚を必死で動かした。先へ、先へ。転びかける後輩の身体を乱暴に手繰り寄せて、車を停めた駐車場まで真っ直ぐに駆け抜けた。








 「キッツ・・・」

 二人して車のシートにぐったりと凭れ掛かり、肩で息をする。たった今体験してきた出来事が現実として受け止め切れず、遠くを流れる浮き雲をぼんやりと見遣った。柚が後部座席をウロウロする足音が平和を実感させてくれる。これぞ癒し。

 「ありがとうございました。お蔭で助かりました」

 疲労の色を濃く滲ませて時嗣が礼を口にする。

 「やー、俺が原因なんだし、当然だよ。むしろどっか怪我してないか?」

 助手席の後輩へ目を向けて、思わずギョッとした。

 「首、それ・・・!」

 時嗣の首に、大きな掌で掴んだような赤い痣が浮き出ている。走った事で乱れた栗色の髪の下で、嫌そうに瞳が細められた。

 「やられましたよね。いきなり首狙ってくるとか、ちょっと想定外でした」
 「待って。お前の想定も大分ヤバそうなんだけど?」

 震える俺を尻目に時嗣は自分のバッグを探り出す。

 「十中八九、無傷で帰れるとは思ってませんでしたけど・・・」

 発言が不穏極まりない。信じられるか?俺、スーパーのフロアマネージャー。で、横のコイツ、俺のアシスタントマネージャー。嘘みたいだろ?本当なんだぜ。

 「邪魔するなら俺達の命も取る気でしょ、きっと」

 もはや半泣きの俺が視界に捉えたのは、二枚の小さな和紙。中央に筆文字で難しい言葉が書かれている。時嗣がバッグから取り出したものだ。

 「先輩、普段から身近に置いてるもの、一つ下さい」
 「え?」
 「ペンとかでいいですよ?今持ってます?」

 あぁ、うん、と訳も分からず車内を漁って見つけたボールペンを渡す。彼は受け取ったペンに小さな和紙を貼った。

 「当分このままで置いといて下さいね」

 手の中に戻ってきた和紙付きのペンに首を傾げる。これは何かと質問すれば、「身代わりですよ」と恐ろしい返事が寄越された。

 「ある日突然、身の回りのものが消えた事はありませんか?或いは、予兆なく壊れたり」

 自分には思い当たる節はなかったが、時嗣によれば『使い込んだものは持ち主の身代わりに厄を引き受ける事がある』そうだ。もちろん、自ら紛失したり破損させた場合を除いて。言われてみれば急に茶碗が割れたとか聞いた覚えがあるな。

 「もしさっきの奴に目をつけられてたら困るので。紙を剥がさず部屋か車で保管して下さい。先輩に呪いが飛べばそこのペンが壊れますから」

 新しいスマホの取り扱い説明みたいな軽いノリで言わないでほしい。だが俺もさすがに段々慣れてきたぞ。ははは、もう取り乱したりするもんか!

 「ちなみに俺の場合はこうなります」

 残っていた小さい和紙を、時嗣が外した眼鏡に貼る。同時に乾いた高音を発しながら眼鏡が細かく砕け散った。パラパラと破片を零す眼鏡を呆然と見つめ血の気が失せる。

 「・・・・・・イキって申し訳ありませんでした」
 「?何の話ですか?」

 深く項垂れる俺を助手席から不思議そうに眺めて、時嗣は瞬きをした。黒縁眼鏡を失った彼の顔は普段と随分印象が違う。いわゆるイケメンの部類に入るのではなかろうか。く、悔しくなんかないんだからな!

 「ってか、時嗣!お前眼鏡割って大丈夫なのか!?もったいねぇな!」

 俺みたいにペンでもよかったろうに。そう言うと事もなげに彼は笑う。再びバッグの中を探って、予備の眼鏡を出して見せた。

 「ご心配なく。いわゆる伊達眼鏡ですよ。度の入ってない安物ですし」

 指先で眼鏡を振りつつ時嗣は続ける。いざという時の身代わり用なんだそうな。ねぇ、理由が物騒過ぎやしない?

 「先輩のお蔭で呪いの出処も分かりました。状況は前進したと考えていいと思います」

 見慣れぬイケメン顔になった後輩が口角を持ち上げた。俺も『前進』の二文字に気持ちが明るくなる。よーし、誰も犠牲にせず無事に問題解決してやるぞ!と意気込んだところで、柚が時嗣の手から眼鏡を奪った。どうやら玩具に見えたらしい。

 「あ」

 二人の声が綺麗にハモる。綿毛みたいな尻尾を上機嫌に振り回す柴犬の口が、容赦なく眼鏡を噛み締めた。ポキリと悲しい音を立てて予備の眼鏡も天に召される。

 「柚ー!!」

 珍しく時嗣の慌てた声が車内に木霊した。
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